見出し画像

自分の心のホントウを見つけ出す

人は生まれた瞬間から様々な思考や観念を身につけて生きていきます。
中には必要なものもありますが、不必要なものも多いでしょう。

パソコンのように定期的にリセットができるのであれば、そのタイミングで必要なものだけを残すことができます。
ところが人間は同じパソコン=脳で一生を過ごさなければいけません。

さらに問題なのが必要と思っているけれど実際には必要のないものもがあるという事実。
特に精神の自由さを縛る観念です。

あれはダメ。これもダメ。
もう歳だからダメ。母親だからダメ。

このような観念は波風の立たない人生を過ごす上では必要かもしれません。

あれもOK!これもOK!
年齢なんて関係ない!母親でもOK!

このような生き方をしていたら出る杭認定されて叩かれるのが日本。
じゃあ手枷足枷で自分を縛っていた方が良い。
と、思わされているかもしれません。

でも、実際に自由に生きている人に憧れている人は多いでしょう。
元々は自由だった精神は消えることなく隠されているわけです。

このように、言わば"普通"の人たちは自由になりたいと心の奥の方だけで願っています。
不自由であることを他人や世の中のせいにして、心の奥では不貞腐れている。
そんな"普通"の人が多いのが世界の実相です。

悲しい哉。
そんな生き方が当たり前の時間を長く過ごすと、自分の心のホントウさえわからなくなってしまいます。

「私はコレが好き!」
「私はコレが良い!」

という素直に見える気持ちさえ、ホントウかどうかわからない。
鎖で雁字搦めにした心のホントウ。
鎖で縛られていなかった時の心のホントウ。
この二つにはきっと大きな隔たりがあるでしょう。

5年前に家族を理由に不自由な選択をした経験。
10年前に不安を理由に自由な生き方を諦めた経験。
15年前に親から反対されて自由を心の奥底に閉じ込めた経験。

これらの経験の延長線上にある今の自由。
その自由は果たしてホントウの自由だろうか?

16年前の心の自由と今の心の自由。
環境も大きく違うので比べるのは難しいかもしれない。
けれど、恐らく心の自由さは失われている。

もしかしたら年齢のせいにするかもしれないけれど。
本当のところどうだろうか?
もしかしたら家庭の中の役割のせいにするかもしれないけれど。
実際はどうだろうか?

大小様々な心を縛る鎖の数々。
その鎖は誰かに縛られたと思っているかもしれない。
けれど多くは自分で縛った鎖。
今は自分以外の誰1人として興味がない鎖。
そんな鎖を解くことなく生きている。

さぞ重いことだろう。
そんな重さを当たり前にして生きてきたら。

「その鎖は幻想ですよ。はい消えました」

と言われて直ぐに軽やかに生きるのは難しい。
ホントウの想いや願いは、そう簡単に出てこない。

自分に必要のない観念を手放すことはできます。
人によっては簡単ではないかもしれないけれど。

ただ、余計な観念を手放したとしても。
自分の心の奥にあるホントウの部分はリハビリしないといけない。

自分がしたいと思ってできていなかったことをしてみたり。
苦手と思っていたことにも挑戦したり。
興味ないけど誘われたからやってみたり。
終電逃すまで飲み明かしてみたり。

そんな風に心の外から刺激を与えることでホントウの部分に少しずつ響かせていく。

ワクワクすること。
ドキドキすること。
不安になること。
興奮すること。

色んな感情を味わいながら心のリハビリを積み重ねていく。
自分の年齢に囚われず。
家族の役割を忘れて。
自由な心を持つ一個人として自由を謳歌する。

人はきっと自由に対して鈍感になっている。
でも、その鈍感さは時代にはもう合っていない気がする。
時代に合わせて軽やかに自由に生きた方が良い気がする。

最初は人の目が気になるかもしれないけれど。
自分ではない誰かが心の鎖を締め上げると感じるかもしれないけれど。
腰が重いかもしれないけれど。
自分なりのリハビリを始めてみてはいかがでしょうか。

心の奥でモヤシみたいになってる心のホントウの部分。
日を当てたら今からでも育ちます。
好きも嫌いも普通も全てが日光になってスクスクと育ちます。

-------------------------------------------------------
☆イマヲカシに相談する→仕事の紹介
☆イマヲカシの日々→Facebook
☆まれに更新する→ブログ
☆世界一周カフェ巡りのフォトブック→売って〼
-------------------------------------------------------

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?