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詩野うらを語りたくってたまらないんだ

これら

いまさら詩野うら氏の単行本を読んでいまさら心動かされたので自分なりに話す。感想?考察?どちらに捉えてもよい。ネット上ですでに何十回と語り尽くされた内容を再放送でお届け。


有害無罪玩具

表題にもなっている『有害無罪玩具』を筆頭にひねくれた作品たちが収録されている。見た目以上にSF色が強くて、良い意味で読む前に漠然と感じていたイメージがひっくり返った。

全体を見た傾向としては思考実験へのこだわりを感じる。

『有害無罪玩具』はその象徴といえる。

「○○な事象を引き起こす存在があったとしたら、どんな過程や結果が考えられるか?」にスポットを当てた玩具がいくつも登場する。その過程や結果はあまり晴れやかではなく、読むと落ち着かなくなってくる。

個人的には『虚数時間の遊び』が特に好みだ。

「時間が止まった世界にただ一人取り残されたらどうなるか?」発想だけなら創作者が誰しもたびたび思いつくネタを、そこまでやるかと深掘りしていく構成には読みながら「ほえ~」と称賛の声を漏らし続けた。

ところで、本を読んでいたとき第一に思ったのは「SCPっぽいな」だった。描かれた時期や作者の趣向的にもSCPを知らないはずはないと思われるし、多かれ少なかれ影響はあるかもしれない。

ただまあ、そもSCP自体が枯れたSF・ファンタジー・ホラーネタを視点を変えて再生産しているものだ。影響していようがしていまいがこの作品の質が変わることはない。

あえていうならSCP好きな 偏 屈 な 人 はこの本も好きになると思う。

倫理観を外したドラえもんと言い換えることもできる。

この本に収録された内容はそんな話ばかりだ。

偽史山人伝

前書と同じくこちらも思考実験の勢い逞しいが、作者のべつな趣味趣向もかなり主張してくる。

先に言ってしまうと、それは「奇形・異型フェチ」「発達障害フェチ」そこから展開して「嗜虐性」みたいなものだと思う。

表題にもなっている『偽史山人伝』は柳田國男が蒐集した説話のひとつである山人(ヤマビト)をイメージ源に、架空の説話、架空の歴史、架空の番組やインタビューを取り扱う。

それらによって山人とこの物語そのものを、あたかも実在していたかのように仕立て上げた話だ。完全な真空に代表される〔架空ネタ〕が大好きな自分にとっては特に美味しくいただけた話でもある。

だが、この物語において架空ネタはさほど重要ではないと思う。

ヤマビトは作中では「ヒトと形は同じだが完全に別種」であることをたびたび強調する。実際、絵ではヒトとヤマビトはほぼ差を表さずに描いている。

完全に別種すなわち野生動物として扱われる。野生動物として狩られ、実験対象にされる。説明では野生動物でも、行われているのは常にヒトへの加虐に見える。

いちおうイメージ源である柳田國男の書籍を確認してみたが、そちらで語られている山人は今作のそれと性質はまったく異なる。

もっぱら、山に暮らしている(暮らさざるをえなくなった)人や、古代に平地に生活していたが山へ追いやられた民族(いわゆる日本先住民族説)を差している場合がほとんど。

人の形をした野生動物というニュアンスはない。

ここにおいても思考実験の構造が見えてくる。「ヒトの形をしているが学問上も道徳上も野生動物」な存在がいたらどう扱われるか?に容赦なく切り込んでいけば、こういうものが出力されるのだろう。

読者、いや、部外者の私から見ると、ヤマビトは野生動物というより野生化した人間としか見えないわけで、精神疾患あるいは発達障害を抱えた人間を虐待している様とも言えるわけで。

他の収録作にも多分にその傾向を感じる。

『人間のように立つ』は奇形の人間への哀れみ、奇異の目、そして嗜虐性。

『人魚川の天景』は不具の動物への哀れみ、不気味、そして嗜虐性。

『現代路上神話』は架空の神々を題材としていながらも、やはり描くのは奇形の人間という側面が強い。そして、やはりそこにも見え隠れする嗜虐性。

この奇形フェチと嗜虐性は前述『有害無罪玩具』でもよくよく感じ取れる。『金魚の人魚は人魚の金魚』はまさにそれだ。

『虚数時間の遊び』もある意味では奇形だろう。異様な状況に巻き込まれた人間は、いわば「運命が奇形」と言ってしまえる。

とにかく奇形(肉体的にも精神的にも)に対する並々ならぬ負の情熱を感じずにはいられない。

人はそういうものを目にしたとき、何かされたわけでもないのにいやな気持になって避けたり追い払ってしまいたくなる。「運命が奇形」にしてもその性質は表れる、ニュースだとかゴシップだとかで。

そういう薄暗い感情に愚直に向き合った結果がこれらなのかもしれない。

一方ではあとがきでこんなことを書いている。「ランダムに選んだモチーフを出発点として~」「ダーッと即興小説みたいな感じで~」

あれ?ひょっとしたら出力された物語には私が上で述べたような事実はあまり反映されていない可能性も考えられる。いわゆる「作者そこまで考えてないと思うよ」現象だ。

だが、アイディアの起点となるモチーフたちも結局は作者が考え・拡張・改変・選別・濾過を得たわけではないか。それら何重のフィルターを通した結果これら作品群が出るのなら、やはりそういう性癖があるわけだ。

あるいは、これまで書いたことまとめて裏切るようで悪いが、全ては思考実験の延長に過ぎないのかもしれない。

思考実験を深く続ければ、むごたらしい面を通過せざるをえない。単にその過程が露わになっているだけだと。


さて

『有害無罪玩具』紹介サイトには「道徳と倫理を問い~」と書かれているが、これは作者が問うているというより、読者が勝手に問われている気がしてくるのだろう。

突き詰めた思考実験により、道徳や倫理などと形容される題材領域にすら踏み込んでいく。この構造は小説の少女庭国を思い出す。あれも思考実験の果てに道徳・倫理の面でかなり異様な空気を放っていた。

そんなものを見せられると人間はもやもやする。決して明るい気分ではない。何かを考えたくなる。

意識の高い話をしたいわけではない。説教でもない。

とにかく何かを考えたくなるのだ。考えないと落ち着かないのだ。詩野うら氏はそういうものを描くのだ。だから私もこうして長いくどい感想戦に挑まずにはいられないのだ。

実はこの「何かを考えたくなる」は『有害無罪玩具』のラストで似たようなやり取りが出てくる。読み返して気づいた。まんまと作者の術中にハマってしまったようだ。

まあ、つまり、そういうこと。

最後になるが、私は単純に詩野うら氏の絵やネームも好きだ。

ところで作者のツイッターが2020年から止まっているのですが……どこかで活動していらっしゃるのだろうか?

おわり。


名前を挙げた本もついでに紹介

完全な真空

少女庭国

山人論集成
山人において参照した本。山人と直接関係のない項が多くてそのうえ長い。読む人は覚悟の上で。


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