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蟹座09度「水の中の魚へと手を伸ばす小さな裸の少女」

蟹座09度のマーク・エドモンド・ジョーンズのサビアンシンボルは、A tiny nude miss reaching in the water for a fish.「水の中の魚へと手を伸ばす小さな裸の少女」。

ディーン・ルディアはこの蟹座09度のサビアンシンボルを、A small naked girl rends over a pond trying to catch a fish. 「小さな裸の少女が、魚を捕ろうとして、池の前でかがみ込む」と言い換えました。

この二つのサビアンシンボルを比べると、もともとのジョーンズの表現を、ルディアはより具体的・映像的・動画的表現に書き換えていることがわかります。

「女性」というシンボルは、受動的で印象を自分自身の中に引き込む、陰の性質を持っていることを表わしています。そして、それがまだ小さい「少女」として登場しているのは、純真で感受性が豊かな存在であることを表わしていることになります。

さらに、その少女が「裸(はだか)」であるのは、素であることや、むき出しの傷つきやすさを持っている様子を表わしていることになるのですが、ここにそのような表現が使われていることは、この度数のドデカテモリーと関係があるということができます。

この度数のドデカテモリーは天秤座となります。天秤座というのは、他者との関係性を表わしていますので、ここにおいて、この「小さな少女」が感じ取ろうとしているものは、誰か他の人の心ということが考えられます。

蟹座と天秤座は、もともとアスペクト的にスクエアーの関係性にあり、そのままでは両立に難しさがあります。蟹座のルーラー(支配星)は月となりますので、あるがままの素の姿といった意味合いを持っています。それがここでは、「裸の」という表現で描かれていることになります。

その一方で、天秤座のほうは風のエレメントに属しますので、オープンであることが大切なサインとなってきます。この二つが組み合わさって、素の姿がむき出しになっている「裸」の様子として、このサビアンシンボルに描かれていることがわかります。

蟹座が持っている象意の一つに「心」があります。心というものは、常に動いていて掴まりにくいものでもあるわけですが、それがこのサビアンシンボルにおいては、「水の中の魚」として描かれていることになります。

「魚に手を伸ばす」「魚を捕ろうとする」というのは、なかなか捕らえることができない心であるけれど、何とかそれをキャッチしようとしている姿ということができます。

また、このサビアンシンボルの度数である09度は、タロットの大アルカナの「09.隠者」が示しているように、叡智と言った意味合いを持っていて、そのサインらしい物の考え方を表しています。

叡智というと、通常は「思考」と密接な関わりがあるものと考えられていますが、この蟹座09度においては、思考を働かせている様子はありません。

ここでは、思考を働かせて理解するのではなくて、「感じること」でわかろうとしている姿が描かれているということができます。たとえ掴まりにくい物であったとしても、心を大切に、無心にそれと共感しようとしている蟹座らしい姿がここでは描かれていることになります。 

これらのことから、このサビアンシンボルを活用して行くには、相手の心の中に同化できる、デリケートな感受性を大切にして行くと良いということがわかります。

このサビアンシンボルを目にしたときに、無意識に「なんとかこの小さな女の子を守ってあげたい」と感じる大人たちは、多いのではないかと思われますが、ここにはそのような心をキュッと掴む何かがあることがわかります。

この幼くあどけないものを守り育てたいという思いは、性別を超えて誰の中にも眠っている母性本能ともいわれるものであるわけですが、蟹座サインの中には、このような言葉以前の本能的なものが、叡智としてインプットされているということに気が付きます。

この蟹座が持っている叡智とは、人間という種だけに留まらず、多くの生命が共通して持っている叡智といえますので、これは、地球という惑星が持っている偉大なる叡智ということができるでしょう。

蟹座09度 今季洋