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Vĩnh Long省の華人ー「明郷」会館の残る街

Vĩnh Long省、同省華人の基礎情報

Vĩnh Long省は、以下の地図のようにメコンデルタの中心部分に位置し、人口規模は約100万人です。南部出身首相としてドイモイ政策を推進し、ベトナム経済成長に貢献したとの高い評価を得て、国民(特に南部)からの信頼が厚かったVõ Văn Kiệt元首相の出身地でもあります。

メコンデルタのちょうど真ん中に位置

同省にいる華人人口は2019年人口センサスでは3,627人、同省の同年総人口の0.35%と、メコンデルタの中では少ない方であると言えます。地元の人に聞いても「メコンデルタの中では、あまり華人はいない方だよ」という印象のようです。

Vĩnh Long省華人の会館、旧跡

とはいえ、街を訪れてみますと、非常に立派な華人会館があって驚きます。まずは現在のVĩnh Long市場の近くにある天后廟。130年程前に建てられたそうです。「天后」(媽祖や天上聖母とも呼ばれる)は福建省莆田地方に伝わる航海・漁業の守護神で、海で遭難した父親を助けたり、兄の遭難を予言したとする林黙娘という女性が神様になったと伝えられています。福建省始め、海外に渡った華人たちは多くが船で各地にたどり着いたため、天后を祀る廟は出身地を越えて多くの華人居住地域に見られます。

ビンロン市場からすぐの天后廟

訪れたこの日は旧暦1日だったということもあり、大変多くの人が廟を訪れていました。この会館の副会長というおばあさんは「私は華人、家では元々広東語を話していたので今でも覚えているけど、最近はすっかりベトナム語ばかりなので、広東語を聞くことはできるけど、言葉が直ぐにでなくなってしまったねえ」と話していました。同地の華人の出身地についてハッキリした数字はありませんが、この地では広東系、潮州系が同じくらいいるという印象だそうです。

天后廟の中はとても立派

この廟ではよくしゃべる気さくなおじちゃんに会うことができ、色々なお話を伺うことができました。「5,6年前からストップしていた華語教育を、最近復活させたんだ」とこの会館で実施している華語(中国語、ここでは所謂標準語である普通話)無料教室について、彼は熱っぽく語っていました。これまでの華人の歴史を語りつつ、また東南アジア周辺諸国でも多くの中華街を見てきたと語る彼。多数派ではないのかもしれませんが、こういう方もいるんだなあととても印象深かったです。

関帝を中心に祀る七府廟

そして天后廟と並んで、いやそれよりも在外華人の多くの信仰を集める関帝廟は、もちろんビンロンにもありました。「七府廟」という名前のこの廟、「七府」とは阮朝統一後のベトナムで華人住民をその出身地の七つに分けて(広東、潮州、福建、漳州、泉州、徽州、海南)管理していたことから、その人たちが共同で建てたものと推定されます。ここでも多くの人たちが参拝していましたが、あまりに賑わっていて、詳しいお話をお聞きすることはできませんでした。

「明郷」会館があるVĩnh Long省

それらもとても興味深かったですが、ここビンロン省で印象に残ったのは、メコン支流のコーチエン(cổ chiên)川沿いにある「明郷会館 / Minh Hương Hội Quấn」です。

入り口にベトナム語でMinh Hương会館と

「明郷」とは17世紀以来ベトナムに渡来してこの地に定住していった華人たちの内、地元の人たちと結婚し、同化していく中でも「明」、つまり当時の王朝であった明朝を故郷としている人たちという意味。今のベトナム政府公式統計などでは「明郷」というカテゴリーは無く、華人系は「Hoa族」という少数民族に収れんされています(と言っても細かく見ると所謂華人系は他民族にもあります)が、19世紀頃までは明郷と華人を分けたりする使われ方があったり、やや曖昧ながらも長く続いてきた概念です。

会館建設、拡張に功績のあった人たちを祀る

ふらっと通りがかったところにあったこの会館は、パッと見には菩薩像が大きくありベト人のお寺にも思えましたが、中に入るとそこは明郷の人たちの「明郷会館」でした。そこでお話ししたおばあさんは「明郷も華人も一緒だよ、中国大陸の方から人たちだからね」と細かい定義にはこだわっていませんでしたが、見ず知らずの自分に熱心に話をしてくれて、手作り感あふれる会館の紹介冊子を一冊くれました。

規模や豪華絢爛さでは上記天后廟や七府廟よりは見劣りする点は否めません。ですが、この地が「明郷社」という名をかつて持ち、「明郷」というアイデンティティを持ちながらベトナムで暮らしてきた人たちが多く、強くいたことを思わせる建築物です。

「明香」から「明郷」へ、そしてベトナム人やHoa族へ

従来、ベトナムにやってきた華人は「明朝」に故郷を持つ人という意味から「北客」「明香」などと呼ばれていました。「明香」は、明朝の復興を夢見つつベトナムに逃げてきた人たちが「明朝香火」(明朝の火を絶やさないとの意)を大事にしたことからついた名称でした。。

その後時代は阮朝に下り、華人の経済活動は許したが管理は厳格化したミンマン帝(明命:在位1820-1841年)は、「明香」の中華性を薄め、単に故郷が明であるとの意味である「明郷」に標記を統一しました。この二つの呼び方は、現代ベトナム語の発音では共にMinh Hương、漢字文化が残っていた当時ならではの言葉の置き替えと、その微妙な置き換えに見られる華人たちの立場の微妙な変化が読み取れる、非常に意味深な歴史エピソードだと思います。

上述の通り現在は「明郷」という民族類別は無く、多くが既にベトナム人、或いは時にHoa族他の民族として生きています。ただそういった自身のルーツを大事にする会館が、広東や福建といった中国での出身地別のもの以外にも存在することに、歴史の重みと深みを感じさせられます。

11年間ベトナム(ハノイ)、6年間中国(北京、広州、香港)に滞在。ハノイ在住の目線から、時に中国との比較も加えながら、ベトナムの今を、過去を、そして未来を伝えていきたいと思います。