映画「そばかす」 映画はきっと誰かの味方
誰かの味方のような映画だった。
三浦透子が演じる佳純は恋愛感情や性的欲求がない30歳の女性。
周囲が恋愛や結婚を急かしてくることへの違和感をひとり抱えて生きている。
つき合いの合コンは居心地が悪く、家では妹が出産を控えており、母にはもっと明るい服を着ればと言われる。
ひとりきりのときが一番心穏やかなような佳純が、ぱあっと明るくなれるのは、恋愛なんてものから完全に解き放たれて純然たる友人と過ごしているときだけだ。
この映画でいいなと思ったのは、佳純の父への眼差しだ。
家の中で佳純はいつも身構えている。母や妹からの視線を意識して硬い表情をしている。
けれど父には自ら優しい声をかける。鬱で仕事ができなくなった父にはまさに”子ども”といった無邪気さで接していて、体調を気遣ったり、父のいる部屋へ話しかけに行ったりする。
こういうとき、三浦透子演じる佳純が”キャラクター”ではなく”人間”だと感じる。
なぜ佳純が父にだけ優しい眼差しになるのかはわからない。理由をつければマジョリティから外れた者同士のエンパシーかもしれない。しかし何であれ、確かに人間にはいろんな顔があるのだ。
佳純がずっと硬い表情をしているだけの演出だったら、それでは佳純が「記号」みたいになってしまう。
優しい時間、愉しい時間、美味しい時間。いささかしんどそうな佳純にも、そういう光射す時間が流れている。だからこの映画の色調は決して暗くない。
ふと映画を観ている自分の口角があがっていることに気づく。
佳純が恋愛できないゆえに疎外感を抱いている場面で自分は笑っているのだ。
自分は女性じゃないし、30歳じゃないし、三浦ちゃんみたいな位置にほくろはないし、非恋愛体質でもない。
でも悩める佳純を観ながら「そうだよね、でもいいよね、そんなにうまくいかないよね」と思ってた。
映画の中の苦しみはきっと観客の誰かの味方になっている。
佳純のタイトな人生は薄暗い客席にいる誰かの人生をかばっている。
変なところで微笑んでいる自分を認識しつつ、やはり映画館はいいなと思った。
「わたしにはいわゆる性欲がなくて…」
むかし天気のいい寒い日、苦しそうにつぶやいて少し泣いた女の子がいた。
空のようにきれいな文を書く人だった。あの人は元気だろうか。
この映画、あのときの彼女の味方にもなってくれるだろうか。
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