笑いのレベル

笑いは難しい

笑いは誰でも出来る浅さがある。
ゆえに、笑いは難しいと認識している人が少ない。

例えば、M1があった次の日は素人の偉そうな評論で溢れ、芸人の真似事をして自分が面白いと勘違いしている人がいる。

本来、笑いは突き詰めると深く難しい。
笑いとは何か?
人はどのようにして、なぜ笑うのか?
これに答えられる人は少ないと思う。

笑いの歴史は古く、古代ギリシャで哲学者のプラトンによっても考察されている。

偉人や芸人でも笑いについて語るのは難しいのに、素人が語るのはそれこそ笑い者である。

つまり、この記事も笑える。

面白いのはどちらだろうか?

皆さんは芸人の永野さんをご存知でしょうか?
水色のシャツに赤色のパンツが特徴で、「ゴッホより普通にラッセンが好き」と言って踊る芸人さんだ。

昔、彼は尖っていた。
しかし、それでは売れなかったのでキャラを演じてブレイクした。

プロは少なくとも2種類のネタが作れると思う。
①自分が面白いと思って作ったけど大衆にはウケないネタ
②自分は面白いと思わないけど大衆にはウケるネタ

笑いとしてレベルが高いのは①の方だと思う。
しかし、大衆にウケるのは②の方だ。

この場合、面白いのはどちらのネタなのだろうか?
僕は真に面白のは①の方だと思っているが、評価されるのは②の方だと思う。

人は自分が理解出来ない物を評価できないからだ。

笑いの3フェーズ

僕は笑いには3つのフェーズがあると思う。
そして、この3つのフェーズで笑いのレベルに差がでるのだと考えている。

第1フェーズ:知識と認識
言われた事や出来事を認識し、それを知っている。

第2フェーズ:理解
第1フェースを知ったうえで理解する。

第3フェーズ:緩和、価値観
第2フェーズを笑っていいか判断する。

具体例
AさんとBさんが掃除をしていた時の会話である。

Aさん:「そっちは綺麗になった?」
Bさん:「長ったらしい落語みたいだ」

これはBさんがAさんを笑わせる場面だが、皆さんは笑えたでしょうか?


説明すると「長ったらしい落語」=「全然落ちない」
つまり、Bさんは汚れが落ちない事を言い換えて伝えている。

では、例でAさんに笑いが起きる手順を3つのフェーズにしてみる。

第1フェーズ:知識と認識
Aさんは、話には落ちがあるという知識が必要である。

第2フェーズ:理解
Aさんは、話には落ちがあるという知識を持ったうえで、汚れの落ちと掛けていることを理解する必要がある。

第3フェーズ:緩和、価値観
Aさんは、第2フェーズまで理解したうえで笑っていいか判断する必要がある。


第3フェーズがわかりづらいと思うので具体例を変えてみる、
「長ったらしい落語」→「女性の話」

この例えは女性の話には落ちがないという前提になるので、Aさんは笑えないと思う。
つまり、第3フェーズは受け手と言い手の「倫理観」と「社会的な文脈の知識」が同程度である必要である。

社会的な文脈とは、最近だと同性愛者をネタにしない等だ。
クレヨンしんちゃんでもオカマが登場しなくなったように、人はその時の社会の状況によって笑えるものが変わるのだ。

笑いの3段階をまとめると
①共通の知識(つまり身内ネタ)
②言っている事、事象の理解
③共通の価値観
人と人が笑う為には以上の3つが必要だ。

ここで、先に話した芸人の永野さんについてもう一度話す。
永野さんがキャラを演じている時、それは一般人が理解出来るところまで笑いのレベルを落としているに過ぎない。

本当に面白いのは、レベルを落とす前と後どちらだろうか?

ゴッホは死後に評価された画家だが、ラッセンは生存中に大衆に評価された画家だ。
(ゴッホは生前に絵が売れなかったが、ラッセンは版画で安く大衆に普及した)

永野さんが「ゴッホより普通にラッセンが好き」と言うのは、ゴッホに共感した永野さんの一般人に向けた皮肉ではないだろうか?

これも「第1フェーズの知識と認識」「第2フェーズの理解」が出来るかで面白さが変わっている。

テレビに出ている芸人さんは一般人より面白い。
なのに、我々一般人がそれを面白いと感じず友達の方が面白いと勘違いするのは、芸人と一般人では笑いのレベル差が大きすぎて我々が理解できないからである。

我々は往々にして自分を面白いと勘違いし、相手を面白くないと評価する。
しかし、それは自分の知識と理解が不足しているだけかもしれない。

その姿は他者から見たら喜劇ではないだろうか?


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