【ぶらりくり】横溝正史疎開宅周辺を歩く
昭和二十年四月、東京空襲の報道を読んだ岡山の親戚から疎開の勧誘を受けた正史は、かねてから瀬戸内海を舞台にしてディクスン・カー式本格探偵小説を書こうという考えを抱いていたため岡山への疎開を決意し、同年4月、岡山県吉備郡岡田村字桜に疎開した。戦争自体は同年八月に終結するも以降昭和23年8月までその地で暮らした。3年余りの岡山での生活は因襲的な農村の生活をつぶさに見る機会に恵まれたことにより、のちの著作活動に大きな影響を与えたといわれている。
そこで清音駅から疎開宅周辺を散策してみたのでその道中で撮った写真を載せる。
出発地点の清音駅はJR伯備線の倉敷駅の次の駅であり、7分程度で着く。ダイヤも1時間に2本くらいはあるのでそれほど行きにくい場所ではない。『本陣殺人事件』内で金田一耕助が昭和12年11月27日に降り立った「清一駅」のモデルであるとも言われている。
駅から西へと歩き高梁川を渡った先に川辺一里塚の史蹟が残っている。一里塚は一理ごとに道に設けられた道しるべとしての塚であるが、この川辺一里塚は江戸日本橋よりちょうど180里を示すものである。金田一耕助の助手・白木静子の乗った乗合自動車が事故を起こしたのはこのあたりだと推定される。
さらに西へと歩いていくと艮御崎神社という神社がある。艮神社も御崎神社も吉備津神社の神社なので艮御崎神社も吉備津神社系であると考えられる。吉備津神社の丑寅の方角にある艮宮には祟りの神・温羅が祭られているため、ここでも似たような神様が祭られているのではないだろうか。また、入り口の門柱にある「八雲絶唱……」は犬養毅によるものだそう。金田一耕助が磯川警部と聞き込みをした「角の煙草屋」はこの辺りにあると推定される。短編小説「車井戸はなぜ軋る」において「かたしろ絵馬」が収められた絵馬堂は「御崎様」にあるが、ここがモデルになっているのかもしれない。
艮御崎神社から北に進んでいったところにある標識。
岡田村役場跡が残る。三本指の男が足を止めた川田屋という一膳茶屋があった場所はこの辺り。
濃茶の祠。江戸時代の家老の奥方が旅路で病に苦しんだ際に茶店の老婆の親切心でその地の神社に祈願し平癒したため、帰国後にその奥方が祠を立てその神体を勧請したと伝えられている。横溝正史はこの伝説から着想を得て『八つ墓村』に濃茶の尼を登場させたという。
濃茶の尼の祠を超えた先には横溝正史が戦時中に疎開していた疎開宅がある。軍部の圧力により探偵小説を書くことを禁じられていた正史は、ここで地元の人々とともにジャガイモづくりに精を出したといわれている。また親しい人から農村の因習や農漁民の生活に関する話を収集し、後の作品の構想を温めた。横溝正史本人の日記によると、金田一耕助は昭和21年4月24日にこの家で生まれたことになる。入場料は無料だが毎週月・木・金曜日は休館なので注意したい。
疎開宅を出て東に進むと『獄門島』に登場する寺と同名の千光寺がある。疎開時代は正史はこの寺に日参して取材をしていたようである。
千光寺を南へと下ったところに岡田大池がある。作中の記述を基にすれば『本陣殺人事件』の一柳家はこの岡田大池の北側の山すそにあったとされているが、実際の地形とは合致しない。この大池は『空蝉処女』にも登場し、作中同様池の中に祠がある。
岡田大池の近くには『悪魔の手毬唄』に登場するおりん像が建っている。地理的には鬼首村は兵庫県と岡山県の県境にあると推定されている。
大池を超えた先に真備ふるさと資料館という郷土資料館があり、ここでは横溝正史の世田谷区成城の書斎の再現が展示されている。
資料館のそばには金田一耕助の像が建っている。
資料館からさらに南に下っていくと『獄門島』の了然和尚の像が建っている。獄門島のモデルである笠岡諸島はこっから南西方向にあり、ドラマでは獄門島以外に『悪霊島』のロケ地にもなった。
この道をさらに南に下り国道と交差するところに『八つ墓村』に登場する森美也子の像がある。
国道を西に行ったところには『悪霊島』の巴御前の像が建っている。
巴御寮人の像が建っている場所を目印に再び南に曲がって直進すると川辺宿駅にたどり着く。この井原鉄道に乗って清音駅へと帰り、そこから倉敷に戻ることにした。
夜の倉敷も奇麗なので散策すると楽しい。
この日は歩き疲れたので体力回復のためシャインマスカットのパフェを食べました。今度は夏にきて桃のパフェを食べたい。
夜ご飯は岡山名物ママカリの酢漬けを食べました。適度な歯ごたえにオスが絡んでおいしかったです。
あと最後に紹介しておくと倉敷珈琲館の琥珀の女王という水出し珈琲をリキュールとハチミツで調合したコーヒーがとてもおいしかったのでお勧めです。
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