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ぶらりくり -天草編-



1日目

 小浜をバスで出発して40分ほどで、島原半島南端の口之津港に到着する。ここからは島原鉄道が天草の鬼池港までのフェリーを運航している。

 海! 天草では壮大な自然が見せる島の素顔に触れたい。イルカが暮らす豊かな海、雄大な山々、透明な入り江……自然の恵みを肌で感じる!!

 鬼池港からは九州産交バスが出ていて、30分ほどで天草随一の繁華街としてにぎわう街・本渡に到着した。予約していた旅館荷物を預けて今日は天草中央部を散策してみようと思う。

祇園橋

 1832年に町山口村庄屋大谷健之助が発起し架設したもので、祇園神社の間にあるために祇園橋と呼ばれている。長さ28.6m幅3.3mと石造桁橋では日本最大級で、45脚の石橋らによって支えられている。
 1637年11月の天草・島原の乱で天草四郎の率いる一揆勢と富岡城番代三宅藤兵衛の唐津軍とが激突した場所でもあり、両軍の戦死者により川の流れは地に染まり、屍は山を築いたと伝えられている。

 橋の側には島原・天草一揆における殉教者を偲ぶ石碑が建てられている。

町山口川の流れせきとめし殉教者のむくろ数百千にして名をばとゞめず

橋本徳壽

お昼ご飯 (1日目) -押包丁-

 小麦粉の生地を包丁で押しながら切って作られるうどんのような麺料理、押包丁。天草では昔から親しまれていた家庭の味らしく、女将の母親が良く作ってくれた家庭の味が再現している。

本渡諏訪神社

 鎌倉時代の2度に渡る元寇の際に、諏訪大明神の加護によって風神に守られたとして、信州の諏訪大社から分霊された神社。

 毎年11月1日~7日は例祭・本渡の市が行われ地元住民でにぎわうらしい。

城山公園

 祇園橋から10分ほど坂を上ったところに本渡城の跡に作られた城山公園がある。公園内には、島原・天草一揆の死者を祀った殉教戦千人塚キリシタン墓地などが点在しており、春には桜が奇麗に咲くらしい。

 本渡城跡は戦国時代の国人「天草五人衆」の中で最も勢力を有していた天草氏の拠点城郭であった。1590年にはキリシタンである城主・天草伊豆守種元小西行長加藤清正が激しい戦いを繰り広げた場所でもあり(天草では「天正の天草合戦」と呼ばれる)、場内に宣教師と付近のキリシタンらが立てこもった。ご案内の通り小西行長もキリシタン大名であるため同胞への城から城攻めには消極的であったとされているが、一方の加藤清正の攻撃は激しかった。この時の戦いぶりは宣教師ルイス・フロイス(Luís Fróis)の初期日本教会史『日本史』に記録されている。最終的に種元は切腹、本渡城は落城し、籠城側の犠牲は1,300名、加藤勢の犠牲は2,000名であるとフロイスとは記述している。

300人の婦人は…(中略)…髪を切り、衣が邪魔にならないように裾をあげ、鎧や武器で身を固めた。大勢が冑をかぶり、コンタツのロザリオや聖遺物を首に掛けた。こぞってイエスの御名を唱えながら、勇気をふるい起こし、最大の激戦が展開している戦場を目指してまっしぐらに突入した。…(中略)…こうして彼女たちは全員が刀で殺され、戦場に身をさらした。

ルイス・フロイス『日本史』

 また、『九州治乱記』には本渡城について「三方向はけわしい難所で、北一方向は山に続いている。ここが要なので堀をつくり、逆茂木をかけて」と記述している。現在に残る本渡城跡もやはり北側は山に続き、東西何は崖面となっており、西から南にかけては町山口川が流れ、天然の堀としての役目を果たしていたことが伺える。

 城山公園内にある墓地。ここには天草最初の殉教者であるアダム荒川も埋葬されている。

 アダム荒川は1552年に島原の有馬に生また伝導士で1614年にキリシタン禁教令により志岐教会ガルシア・ガルセス神父が国外追放された際に志岐教会を継いだ。

 アルメイダ神父(Luís de Almeida)の記念碑もある。アルメイダは1525年にポルトガルのリスボンに生まれ、21歳で医師免許を取得。東洋貿易商人として活躍して1555年に平戸を訪れた際にイエズス会に入会し、総合病院を開設して外科医を養成して日本に最初の西洋医学を伝えた。1561年以降は布教活動に専心し、1566年に天草下島北部を治めていた志岐氏(洗礼名: ドン・アンドレ)の招きで天草に来島。島内各地で布教に従事し1583年に天草で亡くなった。

天草キリシタン館

 城山公園内にある島原・天草一揆についての展示品を紹介する博物館。以下、天草の歴史を簡単に記述しておく。

天草五人衆の時代
 戦国期の1554年以降に天草を分割支配していた五人の領主、大矢野、上津浦、栖本、天草、志岐の五氏は天草五人衆と呼ばれる。元々天草五人衆は大友氏に属していたが、天草島内での勢力争いのため有馬・相良・島津など天草周辺の戦国大名と同盟・協力関係を結び抗争を繰り返していた。天草五人衆の支配は1590年に天草一揆を機に小西領に組み込まれることで終焉した。

1566年 天草にキリスト教が伝来
 天草にキリスト教が伝えられたのは鹿児島にイエズス会宣教師F・ザビエルが上陸してから17年後の1566年である。天草下島の北半分を治めていた領主・志岐鎮経は宣教師派遣要請を出し、イエズス会日本布教会長コスメ・デ・トルレス(Cosme de Torres)によって派遣されたルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida)が志岐領内でキリスト教を布教始める。しかしながら、イエズス会がポルトガル船寄港地として長崎を開港し、天草氏が宣教師を河内浦に招いたのを機に志岐での貿易が望めなくなったため1571年に棄教。1569年には天草下島南半の領主・天草尚種の元にもアルメイダが派遣され、河内浦での布教と1571年の尚種の改宗によってキリスト教が広まっていった。

小西行長の統治
 1588年に肥後領主佐々成政国衆一揆で失脚し、1588年7月に肥後は小西行長と加藤清正に分割して与えられ、肥後南半が小西領となった。小西支配の当初、志岐・天草両氏は小西氏の築城の課役を拒んで抵抗したため、これが後に小西氏が加藤清正と組んで彼らを破る布石となった。他の天草五人衆については、秀吉が伴天連追放令を発令した直後に大矢野氏一族が改宗、ついで栖本氏、上津浦氏も洗礼を受け、天草はキリスト教全盛の時代を迎える。各地にコンフラリア(信心会)ができ、特に志岐では領主日比屋兵右衛門ヴィンセンテがコンフラリア「聖母の信心の組」を組織し、自ら組親となって救貧活動の先頭に立って隣人愛を実践した。秀吉の禁教令強化を背景にともない長崎から離れた天草にノヴィシャド(修練院)コレジオ(神学院)が移設され、志岐には画学舎が新設され、多くの宣教師が天草に移住しキリシタン文化交流の中心となっていった。
 コレジオとは司祭養成のために設置された教育機関の一つで、もともとは豊後府内に設置されていたが戦乱と禁教令のために各地を移動し1591年に加津佐から天草に移された。天草コレジオでは哲学、神学などが講義され、神学の講義内で天文学、気象学が教授された。また、天正遣欧使節がヨーロッパから持ち帰った活字印刷機もコレジオに置かれ「伊曽保物語」、「平家物語」、教理書「ドチリナ・キリシタン」などがここで印刷された。
 1591年にコレジオと時を同じくして志岐に設置された画学舎ではイタリア人イエズス会宣教師ジョヴァンニ・ニコラオ(Giovanni Nicolao)の指導によって絵画・銅版・オルガン・時計などの製作が行われ、南蛮文化が天草にもたらされた。
 1599年から1604年にかけて有馬晴信が島原半島の南東の断崖に島原・天草一揆の舞台となった原城を築城し、完成時はイエズス会により祝別された。

キリスト教受難の時
 1600年の関ケ原の戦いの後に天草は小西領から肥前唐津藩主寺沢広高の領地のなった。寺沢氏は当初は島民の離島を防ぐためにキリシタンを容認し、幕府もキリスト教布教を黙認していたが、岡本大八事件をきっかけとして1612年に直轄領には禁教令を発令、1614年1月28日には全国に禁教令、その4日後に金地院崇伝起草の「伴天連追放文」を交付した。これを機に寺沢氏も迫害に転じ、教会破壊、宣教師追放、信者の転宗強要を進め、幕府は1616年に家康の死後まもなく「伴天連宗門御禁制奉書」を出して百姓に対してもキリスト教信仰を厳禁し、禁教政策を強化していった。
 1629年には富岡城番台三宅藤兵衛によってキリシタンの大検挙が行われ吊し上げ、水責め、日曝し、飢餓などの肉体的拷問と投獄が行われた。1633年には領主広高没後に新領主となった寺沢堅高のもとで迫害はさらに強化。また、この頃より異常気象による凶作が続き、迫害と相まって農民たちを圧迫し続けたことが天草・島原の乱につながっていった。

1624年 スペインとの国交断絶
1633年 奉書船以外の渡航禁止 (第一次鎖国令寛永十年令)
1634年 寛永十年令の再通達 (第二次鎖国令)
1635年 外国人の入港を長崎に限定、日本の渡航及び帰国を禁止 (第三次鎖国令)
1636年 南蛮人とその妻子、子孫の国外追放 (第四次鎖国令)

天草・島原の乱の123日
1637年10月25日、島原の有馬村に端を発した一揆は大きなうねりとなり、天草でも大矢野・上津浦を中心に一揆が勃発。天草と島原の有明海岸地域一帯を中心に、一揆勢と幕府・領主方による激しい戦いは1638年2月28日までの123日間におよび、犠牲者は一揆勢37,000人、幕府・領主方125,000人という日本近世史上最大規模の一揆へと発展した。島原・天草藩主の苛政や重税に対する農民一揆、キリシタン弾圧に対する宗教一揆とが複合したものと言われている。

1637年
10月24日 天草と島原のキリシタンの頭らが湯島に集まり、天草四郎を総大将に決め、宗門を表して宮寺を焼き払い一気に立ち上がることを決める(湯島談合)。
10月25日 南有馬岡で代官林兵左衛門が百姓らに殺害される
10月27日 有馬村から中木場村までの七村のキリシタンが森岳城(現: 島原城)に押し寄せる。また、大矢野大庄屋渡辺小左衛門らが栖本郡代石原太郎左衛門をおとずれ、宗門立ち返りを告げ転び証文の返還を求める。一方の領主方は島原藩家老、熊本藩に加勢を要請。島原藩家老から豊後目付及び熊本藩家老に乱発起を報告。
10月28日 領主方三宅藤兵衛が唐津本藩に乱発起を告げ派兵を要請。熊本藩から江戸に「長門守殿よりキリシタンの改めきびしく申付けられたため在々の百姓ども一揆起こし」と報告。
10月29日 赤崎村庄屋森七右衛門が、今度大矢野、上津浦や有馬でキリシタンを広めているのは宇土江部にいる長崎浪人の甚兵衛と、その子四郎と証言。
渡辺小左衛門ら6人が郡浦でとらえられ、その取り調べから宇土江部に四郎家族がいると判明。
11月1日 四郎家族が捕えられ、渡辺小左衛門らとともに熊本に送られ入牢。熊本では渡辺小左衛門の最初の取り調べが行われる。
11月4日 島原のキリシタンの村17村が家に白旗を立てる
11月5日 島原藩家老からキリシタン発起の報が大阪に届く。
11月9日 渡辺小左衛門、益田甚兵衛、四郎親子に書状を認め江部への帰還を促す。
肥前島原で一揆の報が江戸に到達。板倉重昌石谷貞満が派遣され松倉勝家日根野吉明鍋島勝茂寺沢堅高らに帰国、細川・立花・有馬・中川・稲葉・木下氏らは子弟の帰国を命じられる。
11月10日 領主方に唐津の援軍1,500が富岡に到着
11月11日 島原の一揆勢が50~60艘で上津浦にわたる。一方唐津軍は本渡に進み各地に布陣。島原一揆の人数は16,585人と言われている。
11月13日 一揆勢が大浦・須子に至り民家を焼き、上津浦に陣取る
11月14日 天草戦(島子・本渡・富岡城の戦い)開始。島子に陣を展開した唐津藩勢と戦い勝利、続いて本渡に侵攻。陸の者は瀬戸を徒わたりし、海の者は船を茂木根につけて上陸。唐津兵は敗走し、富岡城番台三宅藤兵衛を討ち取る。この時の一揆勢の勢力は天草キリシタン1,600人と島原の加勢2,000人の計約3,600人。
島子で討死した有力将は並河九兵衛、林又右衛門、林小十郎、小川儀右衛門、石川理右衛門、石川吉右衛門など
本渡で討死した有力将は三宅藤兵衛、佐々小左衛門、川崎伊左衛門、佃八兵郎衛、小栗杢左衛門、今井十兵衛、村田助之進、尾上久右衛門、関大学、福永長助、安井仁右衛門など
11月15日 前日討ち取った唐津方の首を本渡の町口にさらす。
久留米の商人与四右衛門が茂木根の浜で四郎と出会う。
11月17日 志岐から三里程の二江に一揆勢が3~4千人布陣。天草戦は一揆勢の勝利となる。
11月18日 本渡の一揆勢が白旗をたて二江、坂瀬川、志岐を経て富岡冬切に到達。大将の四郎は志岐八幡宮を焼き払い本陣とする。
11月19日 一揆勢が富岡場を取り巻き、一隊は城の後ろの土井鉢巻をのぼり本丸多門櫓に侵攻。この時一揆勢の勢力約8,000人。その一方で、熊本では渡辺小左衛門の第二次取り調べが行われる
11月22日 午前8時ごろ、一揆勢が三方から富岡城に侵攻。四郎は二江から口之津に引取る。この時点で一揆勢の勢力は約12,000人。一揆勢の出で立ちは白い麻の着物に髪を十字に剃って「サンチャゴ」と唱えていたとの記録が残っている。 
富岡で討死した有力将は上月八介、岡原彦兵衛など
11月23日 富岡の一揆軍は島原、大矢野、上津浦に引き取る
11月26日 大矢野、上津浦の一揆勢が有馬に集合
12月3日 四郎が原城入城
12月4日 大矢野の一揆勢が熊本からの援軍があるとの知らせを聞き上津浦に向かう
12月5日 一揆軍による原上の補修が開始
12月9日 上津浦の一揆勢は有馬に退散。原城では四郎を大賞に定め「天草四郎大夫時貞」と改める。その一方で、幕府の追討上使として軍の指揮官となった板倉重昌と目付石谷貞清が有馬に着陣
12月10日 板倉重昌の一度目の原城侵攻(一番責め)。島原口からは松倉勢、跡勢を有馬・立花勢、有江口からは上使、海上からは鍋島・細川勢が責め、鍋島勢・松倉勢が原城に押し寄せる。大筒や石火矢により城に打撃を与えるも、一揆軍の抵抗にあい翌日撤退。この時の原城の籠城者は約15,000人。
12月13日 寺沢堅高が富岡城に着く
12月19日 渡辺小左衛門の第三次取り調べ。この際に大矢野の勢力は1,800、天草の勢力は25,000程と証言。
12月20日 板倉重昌の二度目の原城侵攻(原城第二次攻撃)。再び一揆軍の抵抗にあい敗退。
12月21日 長崎から幕府軍として馬場三郎左衛門利重榊原職直が有馬に着く
12月22日 幕府軍の目付、牧野𫝊蔵林勝正が高瀬から島原城にわたる。
12月24日 落人雅樂助が「城内の男女1万6~7,000の内、働けるものは6~7,000程。四郎の父甚兵衛1人が城中を下知し、四郎は本丸の内に寺を拵え、勧めをしている」と証言。また、別の落人が「大将四郎と申すものはいるそうだがついに見たことがない。毎日走り回って下知してるのは絵描きの右衛門作というものだ」と証言。
12月25日 久留米藩陣への落人が「四郎の使者が毎日二、三度「持口をよく守ったら天国にゆけるが、さもなくば地獄におちる」と触れ回る」「絵描の右衛門作と島原浪人忠右衛門が四郎の印をもって城内を廻っている」と証言。
12月29日 戸田氏鉄により、幕府上使松平信綱の派遣の報せが板倉重昌に報告し、信綱到着前に原上の陥落を命じられる。
1638年1月1日 板倉重昌による原城総攻撃。幕府軍は敗退し、板倉重昌は三村会の金作の鉄砲玉にあたり討死。負傷者は鍋島信濃勢が死者381人負傷者2120人、有馬玄蕃勢が死者112名負傷者867名、松倉勝家勢が死者110名負傷者207名。1月1日の総死者数は3,825人に上る。
1月4日 未の刻に幕府方の松平信綱が賄方鈴木重成と共に有馬に着船し、日之江と有馬との間に陣取る。信綱は戦略をこれまでの「力責め」から「干殺策(兵糧攻め)」に切り替え、軍の増強を行い幕府・諸藩連合軍12万5,000人をまで膨らませた。
1月10日 信綱が海上から原城を砲撃するが城が高くて効果はなし。信綱は松浦氏介して平戸オランダ商館長クーケバッケル(Nicolaes Coeckebacker)に大砲を積載したオランダ船を有馬に派遣するよう指示。鴨野茂右衛門に「なげほうろく」を試させるが効果なし。細川藩勢が石火矢・大筒を放ち外構の損傷に成功。
1月11日 平戸のオランダ船が有馬に到着し、商館長は通詞を信綱に派遣
1月12日 細川越中守・有馬玄蕃頭・鍋島信濃守・立花飛騨守が出陣指示がなされる。また、オランダ船ディライプ号が原城攻撃に参加。一方の一揆勢は城内から「上様にも松倉殿へも申し分なし、宗門の儀のみ」との矢文を放つ。
1月13日 上使、松平・戸田が「遠眼鏡で見ると城中では小屋の中に穴を掘り、土俵をついているのが見える」と報告。オランダ船は原城に14発の大砲を打ち込む。
1月14日 延岡藩の有馬五郎左衛門が川尻を発ち、午前2時ごろ有馬に着く
1月15日 一揆軍は原城から天草四郎名で松平信綱宛てに籠城の理由を書いた矢文を放つ
1月16日 一揆軍は再び矢文を放つ。山田右衛門作名で「四郎時貞以下の逆盗を註罰して天下泰平を致さん」
1月19日 一揆軍からの矢文「一度としてこちらから仕掛けたことはない、天草でも島原でも、軍勢をもって仕掛けられたので防いだまで」
1月21日 一揆軍からの矢文「城内に3人の大将あり、征伐して残りの者を助けてほしい」。それに対し信綱は一人も助命しないことを明言。ただし宗門者以外の者の助命は容認。
1月22日 幕府軍は四郎母・姉・姉婿渡辺小衛門・甥小平らを有馬に召喚し、四郎に降伏を呼びかける。 
1月23日 一揆軍からの矢文「全ての人々は平等であり地位や身分、貧富の差を選ばない」「今度の志は国都を望み反逆するのではなく、宗門のためやむをえず防戦する」「この宗門の教えは科ありて罪なし」。オランダ軍は陸の砲台から原城に対して18発砲撃。
1月24日 渡辺小左衛門が船から召し寄せられ尋問され「お助けくだされば城に入って火をつけよう」と発言。
1月25日 有馬で渡辺小左衛門の4回目の取調べと四郎の母への取調べが行われる
1月26日 熊本藩が原城三の丸海岸崖下に穴を掘り進む
1月28日 オランダ船、平戸帰還を許される
1月29日 福岡藩主黒田忠之が有馬に到着。南のはし諫早口から北に黒田、寺沢、鍋島、有馬玄蕃、松倉、立花、細川が陣取る。長崎からの大船5~6艘、並びに越中殿のかこい船60~70艘で東の海手とりまわし大筒を打たせる。
1月30日 熊本藩が穴を堀り火薬を詰めて城を爆破する計画を策定
2月1日 幕府軍は四郎の妹や甥の小平に渡辺小左衛門や四郎の母らの状を持たせて原城内に派遣。また午前10時ごろ、有馬直純が益田四郎・山田右衛門作・蘆塚忠右衛門あての矢文を送る。一揆側では四郎が法度書を出す。
2月2日 一揆軍、山田右衛門作・蘆塚忠右衛門の矢文を放つ。
2月3日 大江の浜で山田右衛門作有馬五郎左衛門との会談が行われる。その時の山田右衛門作の服装は黒い着物に黒茶の羽織、麻の袴をはき刀脇差・矢立を持っていたが約束のためそれを内の者に渡して丸腰で会談に臨んだ。城内には北岡、串山、布津、堂崎の鍛冶らがいて槍・長刀・刀などをつくらせていると証言。
2月4日 一揆軍、原城から矢文2通放つ。幕府軍は熊本藩が矢倉の前に船の帆柱を立て、箱に人を入れて吊り上げて城内を偵察させる。
2月5日 幕府軍は四郎の妹を城内に遣わし、宗門でないものを助けるので城外に出すよう告げさせるが、一揆軍はいないと返答。
2月6日 柳川藩主立花宗茂が原城に着陣。有馬五郎左衛門から山田右衛門作・蘆塚忠右衛門宛に矢文「昨日の矢文では重ねての矢文は無用とのことであるが今一度先日のところで会いたい旨、時日を返答してほしい」
2月8日 再び城内に四郎の妹・まん、甥・小兵衛が渡辺小左衛門と四郎の母の書状をもって遣わされ、渡辺佐太郎の返事を持ち帰る。返書「城山の梢は春の嵐かな、ハライソかけて走る村雲
2月9日 幕府軍に佐賀藩主鍋島勝茂が原城に着く。再び有馬直純から山田右衛門作・蘆塚忠右衛門宛に矢文。夜、原城内三の丸にて騒ぎがあったことが記されている
2月11日 一揆軍が原城から掘り進んだ穴と幕府軍の城外からの穴とが出会い鉄砲戦に。松葉燻・汚物流し入れが行われる。
2月13日  熊本藩、忍びの者の腰に縄をつけて原城の堀裏を偵察させる
2月14日 細川藩の金堀衆らが三の丸崖下に掘っていた穴の半ばあたりで狙撃され穴掘りは中止。
2月15日 幕府軍は甲賀忍者を城内に潜入させるが、城内では西国語で話されていて成果なし。
2月17日 幕府軍、落人より城内の様子を聞き取る。この時原城内の人数約24,800人、幕府・諸藩軍の人数約125,000人。
2月18日 山田右衛門作が21日に四郎を生け捕りにする計画を立て、矢文を有馬直純陣宛に射出。しかし21日に一揆軍に内通が露見し右衛門作は家族ともに捕えられる。
2月20日 有馬直純が山田右衛門作・蘆塚忠右衛門宛に矢文を放つ。
2月21日 午前2時ごろ、原城からキリシタンでないと自称する50人ほどの落人が発見される。一揆軍5,000人が城から夜討を開始。幕府軍は295人を討取り、7人を生捕りにするも死者75人、負傷者272人を出す
2月22日 幕府軍が昨晩の夜討で討取った将の腹を裂いて調査し、食糧に困って麦の葉を食べていたと判断。松平信綱が細川忠利の忠告に従い四郎を捕らえさせることにしたいと申し送る。
2月23日 幕府軍は原上総攻撃を仕掛ける予定であったが日柄が悪く、26日に延期。落人4~5人が細川陣で発見され、城内に兵糧なく手負い死人も多く弱体化していると証言。
2月24日 松平信綱陣で水野勝成を交えて評定あり、これまでの星頃施策をやめて26日に総攻撃を決定し、合言葉「国か国」が定められる。
2月25日 一揆軍、原城から矢文を放つ「籠城人数は二万余人」
2月26日 幕府軍による原城総攻撃の予定だったが雨のため28日に延期。原城中より、女子供の落人10人ほど発見
2月27日 幕府軍は城内の食糧が尽きたと判断し、原城総攻撃を開始。午後0時ごろ、鍋島勢から火矢を構え試みに討放したところ二の丸の小屋に火が付き、寄せ手が城攻めと思い、貝・鐘を一同に鳴らしたため不慮の城攻めとなる。
2月28日 午前6頃、本丸西手から幕府軍が攻め上る。未明に佐賀藩の鍋島大膳が白地に泥烏子の紋の付いた四郎の指物をとる。本丸に火矢を射かける際に熊本藩松井興長から松平信綱に立ち合いを求め、信綱は四郎生け捕りを指示。松平信綱・戸田氏鉄立ち合いの元、細川藩が本丸四郎住宅を焼き、陣佐左衛門が総大将天草四郎が討ち取る。一揆勢37,000人は内通者山田右衛門作一名を除き全滅する。午後2時ごろ、二の丸で戸田左門が勝どきを上げる。原城陥落

天草の乱以降
 乱によりキリスト教の力をますます恐れるようになった幕府は禁教政策を強めていくようになる。1639年にポルトガル船の来航禁止し、1640年に宗門改役を設置。乱後に天草は寺沢領から山崎家治の所領を経て、1641年には幕府直轄の天領となり、家康に仕え江戸城の納戸頭、小十人、上方代官、摂津・高知領国の堤奉行を歴任した鈴木重成が9月19日に初代代官として富岡に着任した。重成は長崎・有馬・富岡に首塚を建碑して一揆戦没者の供養を行い、実兄の曹洞宗僧・鈴木正三を招き社寺を再建し、仏教の強化を図った。
 当時、1566年のキリスト教の天草伝来以降に棄却された寺社は多く、自社の復興が本格化したのは正三を招いた1642年以降であり、正三は1644年までの3年間で一庭融頓中華珪法ら曹洞宗の宗を招いて寺6寺を再建、16寺を創建、神社5社を再建し、27社の寺社を天草に再建した。
 また、乱で荒廃した土地や村々の復興、見地の実施による石高の是正、天草島民の生活安定に尽力し、重成は1653年の江戸参府中に亡くなるが、彼の施策は1655年に着任した二代目代官・鈴木重辰にも継承され、江戸時代における天草支配の基礎となった。
 また、鈴木重成・重辰・正三を祀った鈴木神社が天草に鎮座しており、1653年の重成没後、中華珪法が江戸から天草に遺髪を持参して東向寺領内に埋め遺髪塚を建立。後に鈴木宮として1787年に成立し、1824年に鈴木明神と命名された。
 1689年にはフランス人イエズス会士ジャン・クラッセフランソワ・ソリエー(François Solier)が纏めていたザビエルの日本布教から天草島原の乱を経て鎖国の確立とキリスト教宣教が途絶えるまでを纏めた『日本教会史(Histoire ecclesiastique des Isles et Royaumes du Japon)』をパリで刊行。明治時代には1878年に駐仏公使鮫島尚信が入手しフランス人宣教師が翻訳、太政官翻訳係から『日本西教史』として日本で刊行された。
 天草の乱以降もキリシタンは隠れキリシタンとして身を潜めていたが、乱から170年後の1804年、牛を殺し肉を仏壇に供えている人がいるという噂がたち、島原藩の指示のもと各庄屋、寺院によって風聞の中心であった今富村や隣村の村内探索が行われ、1805年に今富、崎津、大江、高浜の4村で5,205名の隠れキリシタンが摘発された(天草崩れ)。この事件は公にはキリシタンではない「宗門心得違いの者」として処理し、「心得違いの者は年に二度絵踏を行う」と申し渡し特に罪には問わなかったために信仰は維持され、明治時代に突入していく。

天草軍記物
 江戸時代には軍記物が歴史小説的なエンターテイメントとして好男子による大衆演芸として人気を博した。中でも天草・島原の乱を原作とした軍記物は天草軍記物と呼ばれ、『嶋原記』から江戸時代を通じて親しまれていた。特に『天草軍談』(1736~1746)、『天草征伐記』(1748~1750)、『天草軍記』(1804~1817)の3作品が有名で天草軍記物の中心をなしている。作者は講釈師の田丸具房。3作品とも首謀者として芦塚忠右衛門や千々石五郎左衛門の関ケ原・大阪陣浪人とされる人物が中心をなしており、水戸黄門や北条安房守という乱とは関係のない人物が重要な役割を担う人物として登場し、一揆側を好意的に描き幕府軍総大将松平伊豆守が悉く作戦を失敗し味方から嘲笑される道化役として描かれている。大衆文芸の性格が強かったため乱とは関係のない人物の登場や人名の変更、天草四郎が魔法を使うなどフィクション性の津陽作品が主流となり、キリスト教金星と相まって民衆に「キリスト教 = 邪教」の観念を強化することになった。そのほかの天草軍記物に『西戎征伐記大全』や『嶋原実録』がある。

キリスト教解禁後
 キリスト教禁制は明治時代に突入しても保持され、1868年の太政官布告により改めて切支丹禁制の高札が掲示された。その後、浦上キリシタンの抵抗や駐日外交団の抗議、欧米諸国に派遣された岩倉使節団に対する各国政府と国民の批判と抗議により、政府は1873年に切支丹禁制の高札を除去。
 天草では長崎神の島から伝導士が訪れてキリスト教を説き、再び大江に信仰が復活。1880年に大江教会が創立し、1884年にフェリエ神父が木造の天主堂を建立し、ガルニエ神父が主任司祭であった1933年に鉄川与助の設計施工により現在の天主堂が完成した。更に崎津でも信者の存在が確認され、神父が来島し、1886年に天主堂が建立し、春部神父が主任司祭であった1934年に同じく鉄川与助の設計施工により現在の天主堂が完成。天草にキリスト教が復活した。一方、高札除去はあくまで「黙認」であるため、公的な信教の自由は1889年の大日本帝国憲法発布によって実現されることになった。

「五足の靴」
 1907年には東京新詩社主催の与謝野寛と社友の北原白秋太田正雄(木下杢太郎)吉井勇平野万里の五人が天草のキリスト教にかかわる歴史と情緒を求めて天草西海岸(富岡~大江)を巡った。旅の様子は紀行文「五足の靴」として「東京二六新聞」に発表。この旅を契機として彼らの文学的南蛮趣味は短歌・詩などの作品に顕在化し、北原白秋は『邪宗門』、太田正雄は「南蛮寺門前」「天草四郎と山田右衛門作」を執筆した。

明徳寺

 天草キリシタン館から5分ほど北に歩いたところに明徳寺というお寺がある。1645年に鈴木重成によってつくられた曹洞宗の禅寺。山門には「仏陀の正法を広め耶蘇の邪宗を破る」という意民の文言が刻まれており、キリスト教からの改宗を目的として建てられた寺である。

 山門に続く石段のどこかには十字が刻まれているらしい。僕には見付けることができなかった。

本渡歴史民俗資料館

 明徳寺から東に30分ほど歩いたところに民俗資料館があったので立ち寄ってみた。四方を海に囲まれ、肥後国に属しながらも九州本土とは環境も地形も異なり独特な歩みをたどってきた天草の歴史と風俗を知れる資料館になっている。
 以下、簡単に天草の歴史と風俗を記しておく。

原始~中世
 沿岸部を中止にに縄文、弥生、古墳時代の遺跡が多く、特に五和町にある沖ノ原遺跡は縄文時代前期から古墳時代にわたる複合遺跡として知られ、4次にわたる発掘調査の結果約60,000点の遺物が出土し、貝塚や釣り針などの漁労具、製塩土器が見つかっている。
 奈良時代には712年に「古事記」に「両児島」「天両屋」の名前が登場する。
 平安時代には平安初期の「続日本紀」に「天草郡」として記され、平安中期の「和名類聚抄」には「安万久佐(あまくさ)」郡中に「波太、天草、志記、恵家、高家」の5郷があったと記録されている。
 鎌倉時代には「蒙古襲来絵詞」に大矢野兄弟が元寇の際に活躍した様子が描かれているが、中世における天草は大矢野氏、天草氏、志岐氏、上津浦氏、栖本氏の「天草五人衆」が割拠する時代が続いた。上津浦氏と楠本氏が争った国指定史跡の棚底城からは建物跡のほか、中国産やベトナム産の陶磁器が出土しており、海外との交流が盛んであったことが分かっている。
 その後、豊臣秀吉の九州平定の後「五人衆」は小西行長の配下となるが1589年に反旗を翻し「天正の天草合戦」が勃発。小西・加藤清正軍に敗れ、長く続いた五人衆の時代は終わりを迎えることになった。

近世~現代
 天草・島原の乱後、代官に就任した鈴木重成により天草郡は富岡町10組87村に再編。江戸時代を通じて統治者が次々に交代する中、富岡役所を中心に大庄屋、庄屋らにより郡政が展開されていくことになる。
 江戸中期には商業活動を積極的に展開した松坂屋石本家をはじめとする「銀主」と呼ばれる一部の富裕層が出現する一方で、大多数の百姓は貧困に苦しみ、「銀主」と百姓の対立、百姓一揆は郡政の大きな課題となった。そのような状況下で高浜村庄屋の上田武弼・宜珍により天草西海岸でとれる天草陶石を活用した高浜焼経営は村民救済事業となり、オランダ等への海外輸出用の時期も焼かれた。
 明治維新を迎えると、行政や経済の中心が富岡から本渡に移り、明治中期には富岡港、牛深港、合津港などが次々と開港し、手漕ぎ船や帆船に代わる蒸気船による各地との定期航路が確立していった。
 また、産業面では従来の農・漁業に加え、窯業、石炭鉱業が近代天草の発展を支え、昭和初期には真珠養殖などの新しい試みも始まった。さらに、1966年に天草五橋が開通し、長く続いた離島の生活は一変し、1956年には国立公園指定され、観光事業が主要産業となる契機となった。

天草の農業
 天草は2つの大きな島を中心に120余の島々からなり、山々は低いが急で、大きな川も平地もほとんどなく、台風の襲来が多くて干ばつも起こりやすい。そのため、山の頂上まで耕して畑にしたり、海を干拓して高地にしたりするなど、厳しい自然に耐える作物を作る工夫がなされてきた。現在では米麦中心の農業から果樹・畜産に重点が置かれている。

天草の養蚕業
 天草の養蚕は明治の初めごろから行われていたが、天草繭が有名になったのは大正から昭和初期にかけてであった。特に春繭は恵まれた気候のために全国でも早く生産出荷され、天草の春繭が日本の繭価格の目安とされるようになっている。1907年には蚕種製造が始められ、1913年には天草製紙株式会社が設立され、各地に養蚕組合も結成され、1920年には本渡町に天草繭市場が開設された。1931~32年が最盛期となったが、その後化学繊維の発展に伴い養蚕業は衰退していった。

天草の漁業・水産業
 天草は周囲を海に囲まれているため、県下第1の漁業地域となっている。江戸時代には「定浦」と呼ばれる村だけが近海の漁業を独占していたが、明治以降にはその制度が撤廃され漁業が発展し、近年は取る漁業から作る漁業への進出が盛んで、真珠・ブリ・マ代・クルマエビなどの養殖が盛んに行われている。
 二江沖には浅い海が広がり、太陽光が海底まで降り注ぐため海藻が豊かに茂り、アワビやサザエが多く生息している。プランクトンも大量に発生し、それを餌とする小魚が、またその小魚を目当てにサバ、アジなどの中程度の魚が群れを成して集まり、さらにそれらを餌とする外洋性の大型魚やイルカも多く集まる海になっている。
 牛深ではイワシの巻き網漁業が盛んで、県内でも屈指の漁港となっている。内湾の漁では須口地区などでカシ網漁が盛んで、磯部ではウニ、アワビ、アマクサの貝類や海藻類が多く取れてきた。巻き網船団による量は古くはカツオ漁が主流であったが、後にはイワシ漁が主流となり、昭和20年代にはイワシ巻き網船団は50数統を数え、イワシ納屋の煙突も400本余りが稼働し、魚の加工業も興盛を極めた。現在では漁獲高は減っているが、養殖や加工が盛んになっている。

天草の文学
 天草を代表する文学者に『桟雲峡雨日記』『左氏会箋』などの作品を残した漢文学者・竹添進一郎、『技術史』で芥川賞候補作家となった高橋喜惣勝『影の怯え』喜多哲正『月山』で芥川賞を受賞した森敦などがいる。
 また、ドイツ文学者としてヘッセ(Hermann Karl Hesse)などの書を翻訳した石中象治、『無常米』で農民文学賞を受賞した島一春、岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家宮本研、くまモンの生みの親であり映画『おくりびと』の脚本を担当した放送作家小山薫堂『苦海浄土』の著者石牟礼道子『五足の靴と熊本・天草』『天草の民話』を記した濱名志松、みさき短歌界を主宰した山口睦子や、『微弱陣痛』小池まやなども天草の生まれである。
 天草を題材にした文学作品も多く、代表的なものでは小説の『天草土産』(上林暁)、『島影』(阿部知二)、『南の風』(獅子文六)、『天草灘』(林芙美子)、劇作・シナリオでは『天草四郎』(木下杢太郎)、『花咲く港』(津路嘉郎)。紀行文では『五足の靴』(与謝野鉄幹・木下杢太郎ら)、『天草記』(小杉未醒)、『天草巡遊記』(河東碧梧桐)などがある。

夜ご飯 (1日目)

2日目

天草イルカセンター

 2日目は朝からイルカウォッチングをするため通詞島付近に行く。二江コミュニティセンター駅まで30分ほどバスに乗り、そのそばにイルカセンターがある。
 天草下島の通詞島周辺は対馬海流の分流が注ぎ込むため魚影が濃く、古くから漁業が盛んにおこなわれてきた場所であり、小魚が豊富な島の沖合には約200頭のミナミハンドウイルカが生息しており、1年中ウォッチングツアーが開催されている。遭遇率は95%以上といわれており、かつ警戒心も薄いという。

 ライフジャケットを身に付け、イルカが暮らす海域に。しかしイルカは見つからない……

 いない……

 ということで1時間ほど海を廻ってもイルカと出会えなかった……遭遇率95%らしいので残りの5%を引いてしまった……ただ冬は比較的遭遇率は悪いらしい。遭遇できなかったら1年以内であれば無料でもう一度船に乗せてもらえるらしい。でも1年以内に天草を訪れることはないだろうな……

 天草イルカセンターを後にして本渡に戻る。天草では崎津集落や大江天主堂、天草ロザリオ館に行きたいと思っていたが、すべてを廻ってくれるバスツアーがあるという事で午後からはそのツアーを参加することにした。自家用車を持っていない限り天草を廻るのは結構難しく、現地ツアーを利用するのが良いと思う。

天草ぐるっと周遊バス

 天草下島の南部には魅力的な観光地が集中しているけれども、公共交通があまり便利ではないので自家用車なしで回るのは結構大変である。どうしたものかと思ったら、天草イルカセンターで南部を半日で巡るバスツアーを九州産交バスが出してくれているという情報を耳にしたので午後はこのツアーに参加することにした。「道の駅 宮地岳かかしの里」⇒「﨑津集落散策・みなと屋」⇒「天草ロザリオ館・大江教会」とめぐってくれる (本来は天草コレジヨ館も巡ることにあっているが、木曜休みのため今回は省略することになった)。バスガイドの方も幼少期のころから天草で育った方で、地元に根差した濃密な地域の紹介をしてくれて良かった。

﨑津集落・﨑津教会

 禁教令を逃れた潜伏キリシタンが信仰を守り暮らした町の一つが崎津集落であり、どこか懐かしい漁村景観の中にたたずむゴシック様式の天主堂が象徴的に映えている。アワビやタイラギ貝などの海産物を祈りの道具として250年以上も祖先の振興を守り続けていった。

 一般民家のベランダに十字架が刻まれているなど、暮らしにキリスト教が浸透している様子が散策していると目につく。

 普通はお正月だけに飾られているけど、崎津集落ではしめ縄は一年中飾和れている。禁教下にキリシタンだと疑われないように神道で使うしめ縄を一年通して軒先に飾っていた風習の名残。

 密集した家屋の間を走る小道は「トウヤ」と呼ばれている。土地が狭く民家が密集した﨑津ならではの工夫であり、漁師町の文化が感じられる。海がのぞいている小道っていいよね。

 海!

 海に面した家々でよく見られる海上テラスは「カケ」と呼ばれていて、船の係留などとして使われている。

 禁教令が解けて1934年になるとハルブ神父と住民の寄付により崎津教会が完成。2011年に重要文化的景観に、2018年には教会含む町全体が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録。教会にしては珍しく内部は畳敷きになっている。場所は「絵踏み」が行われていた吉田庄屋役宅跡に建てられた。中は撮影禁止。デザインは教会建築の第一人者である鈴川与助。

 最初はコンクリートで作る計画だったが途中でお金が尽きたため後ろ半分は木造になっている。

 崎津集落を代表するお菓子・杉ようかん。集落内で2店のみがt9降り扱っている。餅の上に杉の葉が乗っているようかんで、もっちりしている。おいしい。150円だった、安い。220年前に琉球王の使節団から伝わった食べ物らしい。

 教会の西側の山の入り口に崎津諏訪神社がある。1805年の天草崩れで集落の7割がキリシタンということが発覚し、その取り調べがこの神社で行われた。信仰遺物を捨てる箱が接地されたらしい。もともとは豊漁・海上安全祈願のために創設された神社である。

 諏訪神社から山の展望台に上ることができる。頂上から集落全体が見渡せるので天気が良ければ是非登ってみると良いと思う。

 山頂にある鐘

 山頂から見た海。きれい。

天草ロザリオ館

 信仰と共に生きた天草キリシタンの生活に関する遺品を展示している博物館。天草市の観光課の人が解説してくれて面白い。おじさんなので親父ギャグをめちゃめちゃ言う。ギャグが面白いかは受け手による。

 日本にキリスト教が伝えられると約50年間の信長・秀吉の時代において気シルト教は爆発的に広まっていったが、その後江戸時代に入るとキリスト教は弾圧の対象となっていった。幕府のとった禁教政策の柱は主に3つあり、1つ目が、棄教を促し仏教徒となりお寺の檀家となって証明書の発行を求める寺請制度。2つ目が、毎年春先までに踏み絵を踏ませて踏んだ人をお寺の宗門改め帳に記録する宗門改。3つ目が、キリシタンや外国人宣教師の密告に対し報奨金を出す訴人制度である。その際の報奨金は宣教師を発見したら銀500枚、日本人キリシタンの場合は銀100枚と5倍の差があるが、どちらにしろ現在の中古マンション1棟が買える額に匹敵するほど巨額の懸賞金であった。

 これらの3つの精度により表面上はキリスト教信者はいなくなったが、その状態から幕府に影響を与えたのが天草四郎の乱である。この乱を契機に幕府は厳しい取り締まりを全国一斉に本格的に行うようになり、ここから本格的なキリスト教弾圧のスタートとなった。天草の地も天領となり厳しい弾圧をうけたが、それでも信者は潜伏という形でキリスト教への信仰を続けていき、潜伏キリシタンと呼ばれるようになったが、その歴史が世界に類を見ないということで歴史的価値が認められユネスコの世界遺産として登録された。多くの世界遺産には何らかの象徴的な大規模な建物が登録遺産の対象となっている印象が強いが、天草の場合は弾圧されていたためそういった大きな建造物はほとんど残っておらず、博物館内にはマリア様に見立てた仏教の観音像大黒様の下の米俵の縄模様を十字架に見立てた像など、様々な工夫を凝らした小粒の信心具が残っている。

 天草は弾圧は厳しかったが、天草四郎の乱から160年間は大きな事件はなく全体的には平和な年月が続いていた。しかし、キリシタンにはクリスマスに牛肉食べる習慣があり、毎年その時期になると牛を殺す様子が目撃され不思議がられていたが、1800年にそれが原因で徹底した捜査を行ったところキリシタンの行事であることが発覚。大規模なキリシタンの摘発が行われ、天草の4つの村で1万余人の人口のうち半分がキリシタンということが判明し全員逮捕された。日本のキリスト教史の中で最大の事件である。しかしながら、全人口の半数を処刑してしまうともう村が共同体として成立しなくなってしまい、かつ、幕府としても天領の直轄地で掟手破りが大胆に行われていたということを他藩には知られたくなかった。何よりもこの摘発が行われた年にも踏み絵を踏ませ宗門改めをしてOKを出しており、それなのにキリシタンであったということは踏み絵や宗門改めが制度として機能していないことを認めることになる。そこで、「宗門心得違い」ということで彼らは「キリシタンではなく、何やら先祖からずっと昔から受け継いできた宗門を大事にしていただけでした」ということで、全員に踏み絵を踏ませ、反省文を証文として書かせ、信仰に使っていた道具を一切残らず提供させるという3つだけを課し、表向き無罪放免とした。

 しかしながらその後に及んでも多くの信者は信仰に使っていた道具を隠し通しており、それらの道具が天草ロザリオ館に展示されている。その後はリーダーの家の屋根裏に押入れから梯子で登る隠れ部屋を作り、そこに祭壇を置いて祈りを行っていた。天草ロザリオ館の近くにも当時の隠れ部屋を有している家があるが現在でも民家として人が住んでいるため展示品にはできず、ややサイズを縮小したレプリカが館内に展示品として残っている。
 他にも面白い展示品として経消しの壺が飾られている。当時キリシタンの家に死者が出ると寺請精度に則って僧侶が経をあげに来ていたが、その壺に僧侶の読む仏教のお経を封じ込め、僧侶が帰った後にキリスト教の祈り詞で天国に死者を送っていたらしい。

 禁教自体は明治時代になって行われ政府によって高札が建てられていた。しかし、外国からのバッシングが強く、欧米列強が野蛮人とは交渉しないという姿勢を取り始めたため、明治6年(1873年)に諸外国からの圧力に負け政府は全国から一斉に高札を撤去した。約260年続いた日本のキリスト教禁止政策の終焉である。その後、全国に神父が配置され、天草にもガルニエ神父が明治25年から昭和16年までの約50年間赴任し、昭和8年に全財産をなげうって大江天主堂を設立した。明治40年にはガルニエ神父を尋ねるために北原白州与謝野鉄幹などの5人の詩人たちが天草を訪れており、その記録が紀行文「五足の靴」として残されている。

 現在でも天草の人口の約17%がキリスト教信者のであり、日本の平均である1%と比べると非常に高く、歴史の連続性が漂ってくる。
 ちなみに、弾圧を受けたキリスト教信者に対し「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」という2種類の呼び方が混在しているが、世界遺産登録前はほとんど「隠れキリシタン」という呼び方ばかりであった。しかし、世界遺産登録にあたって国際基準ができ、「潜伏キリシタン」とは「明治6年まで厳しい弾圧の中で信仰を続けた人」ということで一つの定義が作られ、明治6年以降は禁教令が解かれたため、それ以降の人らは世界遺産登録の対象ではなくなった。実は、明治6年までキリスト教の禁教令の元で信仰を続けていた人らが一気に全員カトリックになったわけではなく、一部の人は「わざわざカトリックにならなくても今まで通り弾圧がないだけで江戸時代の信仰をずっと続けていこう」ということカトリックになることを表明しなかった。この人らは明治6年を境にして別の名前で呼ばないと世界遺産の「潜伏キリシタン」と混同するため、「潜伏キリシタン」から「隠れキリシタン」と学者らが呼び方を変更しているため、二つの呼び方が混在するようになったそうだ。

 一通り天草市役所のおっちゃんの解説を聞いて大江天主堂に向かう。

大江天主堂

 潜伏キリシタンの里である大江の丘に建つ教会。白亜の天主堂は教会建築の父とも呼ばれる鈴川与助によって1933年に建てられた。

 祈りの場であるため内部の撮影は許可されなかったが、中あるステンドグラスはガルニエ神父の故郷のフランスの花であるスズランと日本の菊がモチーフになっていて、日本とフランスとの友好関係を記念したものだといわれている。
 その左右にもステンドグラスがあるが、右にあるステンドグラスがユーカリスチアと呼ばれるキリストの聖体、左のグラスが平和の象徴である泉を表している。中央には明治8年の落成式の際に送られた、ガルニエ神父の姪による「胎児告知」の絵画が飾られている。
 その下には三体の聖体が飾られており、右手が1549年に鹿児島に上陸してキリスト教を広めたフランシスコ・ザビエル。左の二人は京都から雪降る中、諏訪市で宣教師らと連せられて連れてこられて長崎の西坂の丘で処刑された日本26世人のうちの2人、パウロ三木ルドビコ茨木である。西坂の丘はキリストが処刑されたカルワリオの丘に似ているため、処刑されるのであればそこでと本人らの希望によるものである。3体の聖体は原爆にり亡くなった数少ない奥村氏の作品である。
 教会の後方には長崎県外海地区の出津教会で有名なドロ神父が日本人に教えて刷らせた木版の10枚の木版画筆彩のうちの5枚が飾られている。残りの5枚は色が付いておらず、色彩を持つ絵画はすべてここに飾られている。これ元々は宣教師の布教活動の推進用に作られたもので、大元の木版は大浦天守堂に保管されている。モチーフは右から、「善人の最期」、「最後の審判」、「煉獄の霊魂の救い」、「地獄」、「悪人の最期」である。

 教会の入り口にある木彫りの作品。顔つきからどこの国の人らを描いたのかが全く分からなかったのでシスターに聞いたところ「そうですね、強いて言うならマリア様自身はエルサレムの人ですから、イスラエル人というイメージで作ったという解釈もできます。一方で、「世界の子供たち」というモチーフなのでどこの国の方でもない世界全体の方というイメージで作られたという解釈もできますよね」とご回答いただきました。

 表にあるガルニエ神父の像。明治25年に32際の時にこの地を訪れ、昭和16年に82歳で亡くなるまでの49年間を布教活動に努め、村人から慕われていた。
 最後に少しだけシスターと阿話したところ、天草には3人だけシスターがおり、3人共全員が大江天主堂の修道院で共同生活をしているらしい。聖歌隊も昔はいたが高齢化とコロナの影響で現在では歌わなくなってしまったそう。

夜ご飯 (2日目)

 宿に戻って食事を食べる。おいしい。

3日目

 3日目は朝一で天草を後にし、熊本市に行くことにした。天草市役所から熊本の桜町バスターミナルまで九州産交バスのバスが出ており、2時間40分くらいバスに揺られて熊本市に入る。時間に余裕があれば上天草も散策したかったけれどもまた今度。

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