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ダンプの運転手になるまで②

こんばんは、imacocoです。今日もお疲れさまでした(^-^)
昨日から色々と、この7年位の間の出来事を色々と思い出しつつ書いています。社名を変えて再スタート……という時でした。

書いている途中で「あ……そういえばこんな事あったなぁ」とか「この時jはどうしたんだったっけ?」とブツブツぼやきつつ(笑)

何か思い出したくない事や、思わず吹き出しちゃうような事とかを思い起こしては、早いような長かったような7年間を、何とも複雑な気持ちで見ている私がいます。

それでは昨日の続きにいきましょう。

何かおかしい……


社名も変えてこれからはしっかり『土木の施工管理技士』の資格や『建設機械施工管理技士』の資格も取得するべく、しっかり学んでいこうと思っていた時でした。

何だか母の様子が変なのです。最初はどこがどう変なのかわからなかったのです。でも何か違うという事だけは何となく思っていました。

本来の母はとっても几帳面な人で、掃除洗濯はもちろん暇さえあればちょこまか動いてはそこら中拭いて歩いたりしているような人だったのです。
でもいつからかそれをしなくなりました。

まぁ年だからそれは仕方ないかなと思っていました。でもある日、食器を洗っている時に洗剤を使っていないのに気づきました。そしてやたらに自分の寝室で探し物をしている。

ある日、夫さんと私が用事で出かけている時に、ある人から電話がかかってきたらしいのですが本来ならば名前を聞いてメモしておくはずがそれもしないので、結局誰からかかってきたのかわからないという事もありました。

そして極めつけは……母にお風呂掃除をするので、ちょっと手が離せなかった私は、お風呂の栓を抜いておくように頼んだのです。その時母が近くにいた夫さんに言った一言。

「〇〇〇さん~ごめんなさい、お風呂の栓ってどうやって抜くんだったかしらね?」

これはさすがに夫さんも私もビックリです💦同時にショックでした💦最初冗談で言っているのかと思いましたよ。でもそうじゃなかった……本気でわからないみたいなのです。

夫さんが母のそばに言って穏やかに「お義母さん?お風呂の栓はこれですよ」と言うと、母はそこでハッと思い出したようで、自分でも何を言っているのか慌てたのでしょう……すごく気まずそうな表情をしていました。

他にも色々とありましたけれど、今回は詳細は書かない事にします。でもこれは、これからの時代大切な事だと思いますので、参考になるのであればいずれ『介護』という形で書こうかと思っています。

避けられない現実

色々な事で母の様子が少しずつ変わってきている事に不安を感じ、近所の『包括センター』に相談に行き、ケアマネさんを紹介してもらいました。

主治医の先生にも話して『認知症』の検査を受けました。確かその当時は『要介護2か3のどちらかだったと思います。正直かなりショックでした。もう目の前が真っ暗状態。

これからどうしよう……どんどん症状が進んできたらどうすれば良いのか。
それでなくても私は一人娘なので、兄妹で協力して……という事は不可能。

でも、そのような状態の中、ケアマネさんが付いていて下さる事が本当に心強かったです。

ただやはり残念だったのは、代表取締役にはなったものの、暫くはもう現場にも出られないので、何もできなくなってしまった事です。名前だけ貸すという事で、再び父が全て会社を仕切るという事になりました。

でもこれは母のせいでもなく、誰のせいでもない。母を恨むとかそういう気持ちは全くありませんでした。少しずつ変わっていく母を見て、ただただ辛いという気持ちだけでした。

最初はどうして良いかわからなくてかなりパニックになりました。認知症とは無縁なくらいしっかりしていた母がなぜ……そんな事ばかり考えていました。

でもある日気づくんですよね。いつまでもメソメソばかりしているわけにもいかないんです。これはもう私の『試練』と思い、開き直るしかないでしょう。

「一人じゃない。仕事で殆ど家にいないけれど、親父さんも夫さんもいてくれる。ケアマネさんも主治医の先生も『一緒に頑張りましょう」と仰って下さっている。

神様は越えられない試練は与えないと聞いた事がある。
それを私に与えて下さったのならば私はそれを超えられるという事だから
受け止めるしかないでしょう。やれるだけの事はやってみよう」

そう決心しました。それからというもの、私は完全に家庭に入り母の介護の毎日でした。

暫くすると、ヘルパーさんと、訪問ドクターと訪問看護師さんのお力もお借りする事となりました。私一人ではとても無理な事だとケアマネさんがアドバイスして下さったのです。

本当に皆様には大変お世話になり、心から感謝しております。

そして3年前……私達家族のような素人では、とても母のお世話をするのは無理だという日がきたのです。それだけ母の認知症は進んでいました。

主治医の先生の紹介で『介護老人ホーム』に夏に入居が決まりました。最初は来年まで待つ事になっていたのですが急遽入れる事になったのです。

とにかく色々とありました。ホームに入居する事も悩みました。私が最後まで世話するのが当たり前なのではないかと。

でも……ケアマネさんや所長さん、看護師さん達に大変温かいお言葉を頂き、その時は気持ちが少し楽になりました。

入居の日……
どこかおでかけするような感じで、父と母と夫さんと私で車に乗り、ホームに向かいました。ホームに着いた時に母は、無邪気に喜んでいました。自分からスタッフの方達に、自分や家族を紹介しています。

何故か私は母にとって、仲の良かった母の妹(叔母)という事になっているみたいでした。その叔母ももうすでにこの世にはいません。

ホーム内で色々と説明を聞き、そろそろ自宅に帰る時間です……母をおいて。

母は、他のスタッフの方達と逆の方を向いて何か話をしていました。少しずつ母から距離をおいていきます。

他のスタッフの方に「お帰りになられるのでしたら今のうちです。と声をかけて頂き急いで3人でエレベーターの方へ向かいました。

母がこちらを向いて気づいたようです。どこにいくのかと追いかけようとするところをスタッフの方達に引き留められて「あちらにいきましょう^^」と案内されているようです。

とても温かくて素晴らしいスタッフの方達です。母はここでお世話になったら、毎日とても穏やかに幸せに毎日を過ごせる事は間違いないです。
それはとても安心な事です。心の底から本当にありがたいと思っています。

でも……なぜかやはり自分を責めました。もう家族では世話は無理だと主治医の先生もケアマネさん達もお言葉をかけて下さったのに、自分の無力さに許せなかった。

これからは傍にいてあげる事の出来ない事から心の中で母に手を合わせていました。

帰る車の中、父が一言「今まで本当に大変だったと思う。もうおまえは自由になったのだから、これからは自分の好きな事をしなさい。」

父にとっては例え認知症になってしまっても女房は女房です。離れて暮らす事は父が一番辛かったのだと思います。でも介護で体調を崩していた私の事を考えてホーム入居に賛成してくれたのです。

私は……父のその言葉を聞いて胸がいっぱいになったと同時に
自由かぁ……自由になって良いんだ……と何かまだ実感がわかない感じでした。介護中、あれだけ欲しかった自由な時間が急に戻ってきた。

正直嬉しくないと言ったら嘘になる。でもその自由は母がホームに入居したから。何とも複雑な気持ちでもあったのです。

母が入居して暫くしてから、段々父も夫さんも私も落ち着いてきました。やはりプロの方達に母を託した事は間違ってはいなかったのだと思えるようになってきたのです。

そして私は徐々に……母の為にも、何か新しい事をしてみようかと思う気持ちになってきました。

でもその時は、まだ何をしたいとか具体的には決まっていなかったのです。

つづく


今日も長文になってしまいました💦母の事は書かないつもりでいましたが結局書いてしまいました^^; 最初の頃にお伝えしていた事とはずいぶんと違った形になってしまい、何か遠回りして文章を書いていますよね……💦

暗い内容ばかりで、お読み下さる方には本当に申し訳なく思います……もう徐々に内容も明るくなってきますので、どうか懲りずにお読み頂けましたら嬉しく思いますm(__)m

それではまた続きは明日……おやすみなさいませ











































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