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ぼくは逆上がりができない ~たったひとつのぼくの習慣~
ぼくには胸を張って公言できるほどの習慣がない。生活リズムは不規則だし、本もほとんど読まないし、少し雨が降っただけでプールに行くのをやめてしまう。
ところがひとつだけ、これはぼくの習慣と言ってもよいのではないか、と思い当たることがあった。
それは『やれそうだと思ったことには何でも挑んでみる』、という行動様式である。この習慣の根底には、『人は自分にできないことをやろうと思ったりはしない』、というぼくの経験に基づいた考え方が存在している。
例えば小学校の体育の授業でお馴染みの鉄棒の逆上がり。ぼくは、先生のお手本を見た瞬間に、「これはできそうにないやつだ」と思った。
といっても、ぼくは小さな頃から運動は得意であり、走るのも跳ぶのも上手にできた。けれど、自分が逆上がりをするイメージが全く湧かなかったのである。
次々と逆上がりを成功させて教室へと戻っていくクラスメイトたち。仲の良い友達たちはその場に残り、ぼくの間抜けな姿を眺めていた。
でもぼくは、恥ずかしくもなんともなかった。それどころか、なぜ他の運動は得意なのに逆上がりだけできないのかと、その場にいたみんなとお腹を抱えて笑い転げた。
先生からの補助を得て、どうにかインチキ逆上がりを達成したぼくは給食にありつくことができたのだが、後にも先にもあれほどの無力感は感じたことはなかった。
その一方で、やれそうだな、と思ったことについては、ことごとく期待する結果を得ることができた。ピアノに英会話、あるいはエレキギターにプログラミングなど、それまで一切触れたことがなかった事柄について、自分が望む成果を手にすることができたのである。
人には、自分自身の身体的能力や知識あるいは意欲や好奇心といったあらゆる要素を判断材料として、何かに挑むべきかそうでないかを識別する感覚のようなものが備わっているのではないかとぼくは思っている。
もちろん自分の能力や可能性を見誤る場合もあるわけだが、そうした誤算が招いた失敗も、結局は経験として将来的に役立つ糧となる。
『やれそうだと思ったことには何でも挑んでみる』ことは、今となってはぼくの決まりごとのようになっている。これをある種の習慣と呼んでも差支えはないだろう。これまでの経験で身につけたこの習慣を、これからもずっと続けていきたいと思っている。
あの逆上がり事件から30年以上が経過した。
今でも、ぼくは逆上がりができない。
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