ULTRA HIBIKI PARTYと心の有無(自己解釈)

※ゆず誌150巻の内容に触れています


①はじめに

ゆず誌150巻によると、ULTRA HIBIKI PARTYには「AIアンチテーゼみたいなものが随所に散りばめられて」いるらしい。響語りには戦争や貧困に対するメッセージが入っており、この2つのメドレーは表裏一体の関係であると書かれている。

私は響語りのメッセージは勝手に受け取ったつもりでいるが、ULTRA HIBIKI PARTY中にAIアンチテーゼがあったようには思えなかった。というかそれどころじゃなかった。なんかもう全力で踊って声を出して楽しんで「うおおおお!!!!楽園と誰かが!!!!」ってなってた記憶しかない。
私は楽しむことに集中しすぎてULTRA HIBIKI PARTY内のメッセージに気づかなかったのかもしれない。というわけで、冷静になった今考えたい。ULTRA HIBIKI PARTY内のAIアンチテーゼとはなんだったのだろうか。

②アンチテーゼ

一つ重要なことがある。
YZ-TAROも定義上はAIなのだ。
そして、彼と今あるAIの違いは、「心があるか無いか」だ。

「アンチテーゼ」という言葉は以前にも登場した。SUBWAYのジャケットにあえてAIを使ったことに関して、2023年6月21日のAmazon Musicのコメント動画で「色んなアンチテーゼも込められてる」と話していたのだ。
また、2023年6月27日のCINRAのインタビューでもAIについて言及があった。つまり、ゆずはAIのことをある程度脅威と見なし対抗視している。AIへのアンチテーゼをやる動機は十分だ。
では、ULTRA HIBIKI PARTYにおいて具体的に何がAIアンチテーゼと言えただろうか。

これを考える上で、もう一つ重要なことがある。ULTRA HIBIKI PARTYは超人間賛歌・圧倒的応援ソングであるビューティフルが入りかけたメドレーなのだ。であれば人間のことは少なくとも肯定しているはずである。
そうなると、ここでのアンチテーゼとは現在や未来の人類に対する批判とかそういう系では絶対にない。純粋にAIに対するアンチテーゼである。
かと言って、AIだからとYZ-TAROが批判の対象に入っているとも思えない。そう考えると、一番ありそうなのは「YZ-TAROという心のあるAIと今の空虚なAIの対比」ではないだろうか。

③YZ-TAROの動向

私はULTRA HIBIKI PARTY初見時「このロボ太郎は人類が滅んでしまったのを回避するために過去を変えに来たんだな、なんか我々がPARTYしたらバタフライエフェクト的なやつで人類の結末が変わるんだな」と思っていた。
終わってみたら全然そんなことはなく、私たちが楽しんだのを見たYZ-TAROは満足して帰っていった。
つまり、YZ-TAROの目的は「ただ彼や私たちが楽しむこと」だった。過去に干渉はできても、初めから滅びは変えられなかったのかもしれない。PARTYを手段としてPARTYの先に何かを見出すのではなく、PARTYそのものが目的だったのだ。

普通のAIでは絶対に起こらない挙動である。

そう考えると、心のある無機物・YZ-TAROの存在が今のAIへのアンチテーゼだという部分は当然あるだろう。「真に人を楽しませる、グルーヴを生み出せるのは心のある存在だ」と。
AIだから対抗視しているのではない。心がないから対抗視しているのだ。
そして、心がないのは今のAIだけではない。「創造にAIを使う人」の一定数にも心がないのだ。AIで大学のレポート課題を書く人や「AI絵師」、音楽をAIで作ってサブスクに流す人などには、心を持たずにAIを使っている人が多いのではないかと思う。知らんけど。知らんけど!!!!(念押し)(ちょっと私の思想が漏れた気もするが気にしないでくれ)まあ、だからこそ心のある人間と心のあるAIで一緒にPARTYしたのだと考えている。

④我々の使命

一応これを私の中での正解としたが、ULTRA HIBIKI PARTY中にここまで思い至るのは無理だ。メドレー中にメッセージ性の要素はあまり見つからなかったからである。というかずっと踊っていたので、そんなものを探している暇はなかった。
しかし、今から振り返ってもULTRA HIBIKI PARTYは我々を楽しませるのに余念がなさすぎたと思う。盛り上がる曲ばかりだし、TeddyLoidさんだってわざわざ4回も呼んでいる。よく呼べたよな本当。
であれば、我々の使命は全力で楽しむことだった。そして我々はその通りにした。楽しみすぎてメッセージに気づかないのではない。楽しむことこそがメッセージだったのだ。
つまり我々が「心から」全力で楽しんだことで、ULTRA HIBIKI PARTYのメッセージは完成したのではないだろうか。


補足 随所

アンチテーゼは随所に散りばめられていたというが、この「随所」とはなんだろうか。最も重要であろう「YZ-TAROが心を持ったAIであること」については触れたが、おそらく他にもあるのだ。それについて思い浮かんでいるものをいくつか書く。自信はない。

・REDの日以外でもこのメドレーでは赤を強調していたこと→「情熱」の表現(普通に演出の都合かも)
・TeddyLoidさんが絶対にいたこと→「DJ」が存在することで、心がなければ生まれない一体感を生み出せる
・踊ったり腕を振ったりする曲ばかりだったこと→心がなければ体を動かすことにメリットを見出さない
・メドレーにダンスナンバーでもTeddyLoidさんが関わった曲でもないRAKUENが入っていたこと→ AIによって創造を放棄した人々と、ぬるいプールに浸かる人々を結びつけている

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