芸術家と研究者の完全な不一致に関する考察

私は結果だけを見て、勝手に仲間意識を持っていたのだろう。その原因が本質的に正反対であることに気づかないまま、半ば同情のような感情が芽生えていたのかもしれない。自分勝手で独りよがりな解釈が、私を盲目にしていたのだ。

芸術家と研究者(とは言ってもその卵にすらなれていない若輩者であるが)は、およそ世を捨てているという点で同業だと思っていた。世を捨てている、というのは抽象的でいささか不適切な比喩が過ぎるかもしれない。正確には、自分の望むことを望むように行い、その対価は何ら気にしていない、ということだ。事実、私の人生観において最も大事なのはこれである。そして、その権利を得るためであれば、努力が苦にならない(と今のところは感じている)。

そんな生き方ではどこにも拠り所が無いではないか、と批判する人もあるだろう。この批判はもっともであるが、ちゃんと反論する根拠はある。それは、このような生き方であっても野垂れ死にはしない、言い換えるならば、薄給かもしれないが賃金は貰えるということだ。つまり、この広い世界のどこかにいる奇特な人からすれば、私が生きている価値があるということになる。

一方で、芸術家はどのような拠り所を持ち世を捨てるのだろうか。恥ずかしながら、今更この問題を考えて、初めて私の浅はかな仲間意識の愚かさに思い至ったのである。
一見すると、芸術家は他者から直接に認められて対価を得ることが多いために、幸福であるように感じられる。しかし、果たしてこの事実は常に真であるだろうか。自分の望むことと他者が望むこととが一致していれば、これは本当に幸福であろう。一方で、自分の望まぬことで他者に認められればどうだろうか。あるいは、それに迎合し満足する芸術家もあるかもしれない。それでは、自らの望むことでは他者に認められず、望まぬことで認められるような状況であればどうだろう。私にとって、これは最も不幸な事に思える。まるで、他者から直接に自らの生きる意味を否定されているようではないか。

つまるところ、私は大変にお気楽な人間であった。どこの誰とも知らぬ人に生きる価値を認められ、賃金を貰っていたのだ。そのような状況であれば、努力が苦になる訳が無いではないか。
しかし、芸術家の場合は全く反対の状況に置かれうる。ともすれば、ファンと名乗る人達から斬りつけられるのである。この言い方は語弊があるだろうが、芸術家の立場からしてみればこうした好意はもはや殺意に感じられるのではないだろうか。

世を捨て、好きなことを追いかける。この一点でのみ、両者は一致しているかのように見える。その本質は正反対の性質を持つにも関わらず。
芸術家である友人が苦しんでいるという話を聞き、私は励ましの言葉を発してしまった。私達を似た者として認識したまま。何かしら、私が友人を斬りつけてしまったのではなかろうかと不安に駆られている。しかし、この文章に表した内容を面と向かって謝るには、いささか多量の酒が要るだろう。今は私の愚考を恥じるしかなさそうである。

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