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思考録【20240701】

恋愛観というのは、本当に千差万別である。
いつでもどこでも、常時、寝床や風呂から厠に至るまで──愛おしい恋人と一緒に居て、同じ空気を吸いたがる人もいれば。一年に一度会えればそれでいいと、きっぱりと言い張ってしまうパートナーだって存在する。

そう考えればというか、考えなくとも恋愛は至極面倒くさいものだけれど。
しかし最近は特に、恋愛のことを考えるたびに気が滅入ってしまう。

いつも思うことだけれど、
きっと恋愛と、情報は、不釣り合いである。

恋愛をする人々は、恋愛を楽しもうとする。
その楽しみとは、相手を知りたいという本能的な感情に基づいている。
相手の情報を知りたいという──感情。
つまり情報を糧に、恋愛は動いている。

おかしいじゃないか。
それじゃあ先に述べた、「不釣り合い」は成り立たなくなるじゃあないか。
むしろ恋愛と情報は、釣り合っている。
切っても切れない──腐れ縁。

そう思われてしまっても致し方ないかもしれないが、僕の言っている「不釣り合い」は少し意味合いが、違う。


我々が生きている現代という社会は、こう呼ばれたりする。

「情報社会」

情報社会は、情報で溢れている。どこもかしこも情報、情報。家に篭っていようと、陽に浴びようと、情報という情報が目に飛び込んでくる。
勝手に、執拗に、うんざりするほどの──情報、情報、情報。

受験生は図書館に行かずとも、ネットで情報を得られる。
音楽教室に通わずとも、ネットで情報を得られる。
お婆ちゃんに料理を教わらなくとも、ネットで──。
海外で世界遺産を見ずとも、──。

ならば、同じように。

恋愛で──。

つまり、そういうことである。
ネット検索一つで、恋愛の情報たんまりと、手に入る。
手に入って──しまう
努力せずとも。
渇望せずとも。
手元の端末ひとつで、何もかもが、まるで一方的な教育のように。受動的に。餌を与えられる雛みたいに──。

「恋愛は〇〇だ。」とか「恋愛は△△ではない。」だとか。
さも当然のように語る、そんな、情報。


だけれど。
だけれども。
問題なのは、僕が大問題として捉えているのは。
恋愛が糧にする「情報」は、そんな受動的なものではなく、
能動的なものだということである。

知りたいのに、知れない。
分かりたいのに──分からない。
そんな、もどかしい想い。
それが、恋愛の正体なのではないだろうか。

つまり、
不可知の情報が、恋愛を激しく、動かす。

そういった意味で、現代社会の情報と恋愛は、不釣り合いなのだ。

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