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住み慣れた場所で

今の島に医師として勤務してもうすぐ2年が経とうとしてるけど、忘れられない死がいくつかある。よく知る2人は、超高齢で、心臓病や腎臓病を抱えた可愛い、愛らしいお婆ちゃんだった。2人とも老人ホームに入所していて、毎週の回診の度に顔を合わせてはニコニコしたり、ある時は寂しそうな顔をしていた。


2人が僕にとって忘れられないのは、2人とも、医師としての全精力を注いだつもりだったけど、最期を本人の望む場所で看取ることができなかったこと。2人とも最期は状態が悪くなって、でも良くなって帰ってくることを期待して、悩みに悩んでヘリで搬送したけど、入院先で急変して亡くなった。。


本人らは、住み慣れた自宅や、ホームで最期を過ごすことを望んだと思う。でも、家族は、最期は病院でもいいから、できる限りの治療を望んで搬送を希望した。


医療が進んだ分、「できる限りの治療」の選択肢は増えたけど、僕の知るこの2人は、そのような治療で良くなることが期待できるほど、若くはないし、「治療」するにはあらゆる臓器が衰弱していた。それは、「病気」というよりは、加齢による自然な、穏やかな最期への過程のように思えたけど、できることはなんとかしたいという家族としての感情からすると、克服してほしい「病気」として捉えられることは、仕方なかったかもしれない。


結果はどうあれ、形はどうあれ、本人を大切にする家族の想いがあったから、最終的な選択や結末に、悔いは残っていない。人が逝くときは、医療者や家族の想像の範疇を超えて、本人なりに然るべきときに、然るべき形で逝くんだと思っている。これまで色んな死を目にしてきて、いつの間にかそう考えるようになった。それでも、もう少しなにか、良くできる何かが、自分にも、医療にも、地域にも、日本の社会文化にもあるという気がする。


この2人のことを思い返しながら、この島に来て、何人看取っただろうと数えてみた。この2年足らずで、人口700人のこの島で、亡くなった人は10人くらいいるけど、自宅で僕が看取った人は0人だった。ほとんどが病院死だった。


日本の統計では、病院で亡くなる人は8割、自宅で亡くなる人は、わずか1割程度。一方、福祉国家と言われるオランダやスウェーデンでは、病院死が4割、残りの6割は自宅か介護施設になっている(ちなみに日本でも1950年代は、自宅で亡くなる人が8割、病院で亡くなる人は2割だったのはちょっと驚き)。


在宅看取り=ハッピー、病院死=アンハッピーとは必ずしも考えないけど、地域で看取れるということは、本人や家族と、僕たち医療者との間で信頼関係があること、地域で支え合える人や文化が成熟している、ということだと思う。そのような地域で、家族に看取られて最期を迎えられる人は、幸せだと思う。


僕のいる人口700人のこの島で、天寿を全うするであろうその時まで、もうそう長くないと思う人は何人もいる。そのような人たちが、最期はどこで誰とどのように過ごしたいかは、繰り返し家族と話し合うようにしている。あとは、地域の力。充分とは言い難いけど、医師として、人だけでなく「地域のかかりつけ医」として、島民が住み慣れた場所で最期まで安心して過ごせるための地域づくりをしていきたい。

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