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「ブーツを履いた戦闘機 フォイレ水上機型」(月刊『スカイバード』671年12月号より抜粋)

 623年から625年にかけて行われた帝国軍によるパンノニア侵攻作戦、極光作戦において、ある変わり種の戦闘機が活躍したことをご存知だろうか。今回のコラムではブーツを履いて大空を飛び回った、パンノニアの戦闘機をご紹介しよう。

フォイレ水上機型

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 この機体が開発されたのは620年、ある空軍将校のアイデアがきっかけである。その将校の名はティルディ・アトイ大佐、ワリウネクル諸島連合からの移住者をルーツに持ち、幼少期を漁師の父とともに港町イツィトロヴァで過ごしたと言われる。
 618年のリューリア作戦での大敗によってアーキルが戦力の多くを失い、パンノニアも自衛を求められた状況において、軍は圧倒的戦力を誇る帝国軍にどう対抗するかを考えなければならなかった。619年に行われた第二回国防戦略会議においてはこれを踏まえ「正面からの衝突をできるだけ避け、ゲリラ的攻撃によって敵に消耗を強いる」という方針が示されたものの、具体的な手段については決まらないままであった。
 そこでティルディ大佐は国内に点在する湖と河川に注目、これを防御線や補給路のみならず、飛行場としても活用できないかと考えた。このアイデアはすぐさま検討に移され、こうして水上機型フォイレの試作機が作成された。試作機はフォイレMk10をベースにフロートと防水・防錆処理が施されたもので、計4機が支援補給用の小型艇とともにサラゼウでの試験に供された。なおこの時、ティルディ大佐が周囲の制止を振り切って自らテストパイロットとして操縦した記録が残っている。結果は「飛行能力は通常のフォイレと比べて若干劣る、離着水に難あり」「展開までの時間は極めて短く、ゲリラ的用法に向く」というものだった。試験機はその後もフロートの形状変更など改造を施されながら試験に供され、620年には正式採用に至った。量産機ではベース機が当時最新鋭のフォイレMk25へと変更され大幅に性能が向上したほか、テストパイロットたちの意見を取り入れ様々な小改造が施された。この仕様は正式には【フォイレMk25 K型】と呼ばれる。

 フォイレMk25 K型は623年までに54機が生産され、パンノニア平原中央に点在する湖群に配備された。しかし極光作戦が発動され帝国軍が大挙して北パンノニアに侵攻すると事態は一変する。パンノニア空軍水上機隊は迎撃戦を行っては根拠地を移動し、損害を抑えつつ帝国艦隊を抑止し続けたのだ。この戦果に驚愕したパンノニア空軍は損傷機を水上機化することで部隊を拡充し、最終的に204機が水上機へと改造された。この時Mk10から最新鋭のMk26までの雑多な型が水上機化されたためにフォイレMk25 K型という正式名称は用いられなくなり、軍の書類などでも単に「水上機型フォイレ」という名称が記されている。ちなみに兵士たちにはその特異な見た目から「長靴履き」などと呼ばれ親しまれた。
 なお、水上機型フォイレの活躍を見て他の機種についても水上機化が試みられ、ランセン級急降下対艦攻撃機とヴァド級襲撃機を水上機化したものが試作されたが、離水が困難だったこと、ただでさえ低い機動性が大型フロートによってさらに低下したことから採用は見送られた。
 この水上機型フォイレの活躍で最も有名なのは、アクティウム市防衛戦における第76飛行隊の活躍であろう。ルカーチ・オリヴィエ少佐率いる同飛行隊の12機は同市を流れるテベレ川を根拠地とし、35日間で戦果は敵機46機、戦車装甲車22両、駆逐艦1隻、損害は2機と支援艇1隻のみという大戦果を挙げた。この活躍もあってアクティウム市は陥落を免れ、飛行隊は国章勲章を、ルカーチ少佐は共和国英雄勲章を受章している。

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