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逃避行

いよいよコップの牛乳は溢れそうだった
表面張力も無敵ではないらしい

母から譲り受けた黒い合皮のポシェットに必要最低限の持ち物だけ入れて電車に乗る
地方に向かうそれは都会に比べて随分と古く空気も湿気っている
すべてを置いて忘れた振りをして逃げる

目的地はメンタルクリニックだった
受診日を飛ばし連絡も億劫になり年単位で行かない時もあったけれど、6月頃から再度お世話になっていた
今回は完全に潰れる前に通い出しただけ成長したはず
結局潰れましたが

どこかで今回はまだ大丈夫、立て直せる、と思っていた
でも転けたと思った時点で坂道には逆らえないらしい
ならば数年前に既に外れた人生なのかもしれない

目の端からなにか零れ落ちて伝う
頬まで来たところで涙と気がつく

薄明るいぼんやりした部屋の隅で死体となる
オフィーリアの様に美しくない

心も体も熱球が冷めていく速度で沈んでいく

どうにかできるうちに声をあげればふみとどまれる
知っていたはずなのに逃して今があった

家に引こもること数日
夜中に家を飛び出して9kmの散歩をした
そこそこ田舎の歩道を走ったり歌ったり、途中の工事中の橋の上ではほんの少し真下の暗闇に吸い込まれそうになった
流石に本格的におかしいなと思った
翌日メンタルクリニックに電話をした
余程の声色だったのか翌日の予約がとれた
全てを他人事に感じていた

駅のホームでコモパンを見つけた
高校時代の記憶が思い出されてあまり好きでないパン
自販機が校舎の吹き抜けの広間に設置されていた
お昼に買いに行くと同期や先輩が居た
簡単に記憶の中の当時に戻って囚われる
過去を飲み込んで消してしまいたかった
食べたくもないのに食べた

良い思い出が悪い思い出に侵蝕された街
ノイズキャンセリング越しのざらりとした駅名

ぼーっとしていると診察室に呼ばれた
良く覚えていない
いつの間にか溢れたようで零れていた

最近毎日夢を見る

起きる直前まで覚えていたのに、波にさらわれて跡形もなく消える砂の城は何も残っていない

少しの消失感と共に今文字を打っている

きっと悪夢ではなかったのだろう

見て頂けただけでありがたいです