早慶附属校合格体験記

私が小学校6年生の冬の頃、家族旅行に行った。私は父と共にアウトレットを散策していて、服が欲しくとある服屋に入ろうとした。すると父が私を呼び止め「この店塾高の同級生の〇〇が作った店じゃん。あいつに金を渡したくないな〜」と言った。私はその時「塾高」という言葉が何を意味してるのか分からなかった。後日調べてみると、慶應義塾高等学校の略称だということがわかった。塾高の口コミを読んでるうちに「ここに通いたい!」という気持ちがじわじわと湧いてきた。素晴らしい学校だと思ったのである。偏差値をみてみるとなんと76。高い。さすが慶應。だが今から入試対策をすればきっと間に合う!と思い両親に塾高を受けると言った。父はすぐに塾を探してくれた。そして父が選んできたとある塾に入塾した。塾ではまず中1の数学は正負の数、英語はアルファベットからのスタートだった。そして私は小学校を卒業した。春休み、宿題に時間がかかり寝る時間がだんだんと遅くなり最終的に深夜1時まで起きていた。当時は深夜1時など未知の領域であった。中学校の3年間は受験勉強に専念すると心に強く決めて中学校に入学した。そして5月の中間テストがやってきた。家族3人で力を合わせてテスト勉強した。英語の試験はなかったのだが数学の先生から「中学校で最も簡単なテストだからね?ここで絶対絶対100点取ってきてね?」と圧をかけられた。自分もここで100点を取らなければならないと思っていた。結果が帰ってきた。87点。泣きそうになった。もうダメだと思った。今もあの時のことは思い出したくない(笑)。「100点というより90点代を取ろう。そうすれば早慶も見えてくるよ」と周りから言われた。次は頑張るぞと思い期末テストを迎えた。今回は英語も試験科目に入ってくる。結果が帰ってきた。英語88点数学70点。......言葉が出ない。数学は答案返却の時に泣き出してしまった(今でもたまにネタにされる)。内申は英語4他オール3で28だった。なんとも言えなかった。そんなこんなで夏を迎えたが、ここで勉強のやる気が落ちる。早く寝たいがために、宿題をサボりはじめたのである。けれど数学と英語の先生からやるようにいわれてなんとか少しずつやるようになった。そして夏が終わり、2学期中間テストがやってきた。数学87点英語83点。数学の点が伸びて喜んでいたら数学の問題用紙を眺めていた父に呼ばれ「簡単な一次方程式とか計算問題でミスるなよ...それがなければ90点だったのにもったいねえなぁ...もうちょっと頑張ってください。つまらないミスが多すぎる。」と言われた。今でも鮮明に覚えている。「つまらない」この言葉が特に響いた。いや今でも響いている。話が逸れるが私は鉄オタだったので、2年生の夏まではよく列車であちこち行った。とても楽しかった。話を戻す。そして期末テスト。数学70点代英語96点。英語が90点代に乗った。とても喜んだのを覚えている。父からも「いいスタートだ!」と言ってくれた。これはとても大きな自信に繋がった。そしてここから英語がいきなりできるようになった。そして冬休みが来た。といっても家族でクリスマスパーティーをしたり鉄道に乗りに行ったりしてただけだ。しかし、ここから私が何故か昼寝をするようになったのである。小さい頃からここまで一切昼寝をするということは無かった。保育園児のころも昼寝の時間がとてもつらかった。昼寝をしてしまって授業に遅刻することも多々起きてしまった。そして学年末テスト。数学69点英語91点。数学は過去最低である。これには両親もガッカリしていた。自分も泣かなかったがショックだった。そして1年生を終えた。長かった。今みるとこの頃の自分はよく頑張っていたと思う。そして2年生がスタートした。ここから国語の授業を取りはじめた。定期テストは一旦置いておいて駿台中学生テストの話をする。6月に中2の第1回駿台中学生テストを受けてみた。高校受験の模試を受けるのは初めてだ。最初だからひどい点数でも構わないと周りから言われていたのでなんとも思わず受験した。国語は時間があまりなかったのでダーッと解答した。数学は最初の計算問題以外一切分からなかった。英語はまあまあの出来だった。結果はひどい有様だった。確か偏差値は30代後半だった気がする。しかし特にショックを受けたりなどはなかった。そして夏休み突入。ここからいよいよ授業数が増えて大変になった。そして第2回の駿台中学生テスト。国語の点数が20点上がったのを覚えている。夏休み特訓していたので嬉しかった。ここで2学期の中間テストで数学100点と英語97点を取った。これはとても褒められた。両方とも学年1位である。その後塾高の日吉祭に行った。塾高生はとても優しく話しかけてくれて、入りたいという気持ちがさらにさらに強くなった。11月の第3回駿台中学生テスト。期末テストの翌日だったのもあってか大失敗。国語20点代数学10点。自己採点が終わったあと大号泣した。もうダメだと本気で思った。12月に入りとてつもない危機感を抱き私は本屋で最高水準問題集や東京学参の問題集などを多数購入した。持ち帰る時重かったのを覚えている。これは良いことだったと今思う。そしてゴリゴリやりはじめ、買った問題集やテキストなどを冬休み中に終わらせてしまおうと考えた。1日6時間のノルマを設けてそれを毎日絶対達成するよう頑張った。この頃の自分が受験生活の中で1番頑張っていたと思う。後にも先にもここまで頑張ったことはない。しかし、冬休みが終わる1週間前、突然勉強をやめた。私は病んでいた。限界だったのである。いつも6時間ノルマのことが頭に残っていたのだ。大晦日も元日も。ノルマに取り掛かるのが遅かった日は朝の6時まで起きていたこともあった。そこからは一気に怠けていった。しかし第4回駿台中学生テストの頃には普通の自分に戻っていた。結果は国語49(偏差値42)英語61(偏差値53)数学25(偏差値38)合計138(偏差値44)だった。この頃からまたやる気になり本屋で追加の問題集や国語便覧、塾高の過去問などを買ってきた。Twitterをやりはじめたのもこのぐらいの時期からだと思う。本屋にも何回か行ってだんだんとテキストが増えてきた。そして学年末テストが終わった後、コロナウイルスの影響で臨時休校となった。あまりの衝撃で最初はデマだと思った。4月の新学期まで休みだというので本気で勉強をしようと思った。TVゲームでよくあるボーナスステージだと感じた。この辺りから月刊高校への数学をやりはじめた。おー難しいと思い出来なかった何度も何度も解きなおした(最初だけ)。この頃私はTwitterに依存していた。当時やっていた質問箱で勉強よりTwitterを優先してそうと言われたのを覚えている。そこでネットで買ったのが「スマホ禁欲ボックス」である。それを使用してスマホは1日1時間という制限を設けた。最初は辛かったがそれからはある程度勉強への集中度は上がった。その頃から過去問演習を始めた。まずはMARCH附属から解いたのだが、20-30点だった。早慶附属は0-20点だった。5月の半ば、臨時休校も終わろうとしていた頃、私は都立西を受けようと心に決めた。早慶附属受験生によくいる内申はオール3で理社は捨てていたタイプの人間だったが、今から理社と内申も頑張ろうと決意した。塾で理社のテキストをもらってきて学校の授業も真面目に受けた。6月は分散登校だったので午前で授業が終わる日は必ず自習室にいって6時間ぐらい理社も含めて勉強していた。そして期末テストがやってきた。ここで高得点を取らなかったら終わりである。そして期末テストへの勉強を頑張ったが...ダメだ。頭に全然入ってこない。私はよくいる定期テストで点数を取れるタイプではなかったのである。私は都立西を諦めた。期末テストでは社会25点を取った。話にならない。むしろ点数が落ちた。結果的に社会は3だったのに2に下がった。そして受験の天王山である夏休みを迎えた。今年は2週間だけの短すぎる夏休みだったが、毎日毎日8-9時間くらい勉強していた。疲れることもあったが冬休みの苦い経験もあったので逃げ出さなかった。夏休みの終わりにしばらく中止されていた中3の駿台中学生テストがやってきた。それを前にして私はとても緊張していた。臨時休校、受験の天王山での学習が試されると思っていた。応用問題集を片っ端からやっていたのでその頃には応用問題もまあまあ解ける実力はあると思っていた。3教科の自宅受験が終わった。前よりは解けた問題が増えていてホッとした(そうでなかったら大問題だが)。そして解答解説集が届き自己採点をして出た偏差値が...38だった。大号泣した。臨時休校と夏休みに頑張った自分はなんだったのかと思った。そして結果が届いた。結果の偏差値は51だった。自己採点を厳しくしすぎたのだと思う。先輩に偏差値50で早慶受かってる人もいたので禁物だがホッとした。その後は過去問をやっていて駿台も50ぐらいだった。過去問はとにかく数学がダメだった。慶應義塾の国英は6-7割取れていたのに数学は3割だった。志木も同様である。Twitterでこのことは言ってなかった。本庄は英語だけ解いていたのだが7割はすぐに取れるようになった。秋ぐらいから慶應義塾の数学が伸び始めた。冬休みが来た。志木の国語、数学と本庄の国語の点数UPを課題として最後の長期休みに突入した。これは絶対に無駄に出来ない。1日6時間はやっていたと思う。もちろん昨年のように限界だの病んだなどと言わなかった。しかし、本庄の国語は60点、志木の数学は30-40点、志木の国語は40点までしか伸びなかった。冬休みが終了しいよいよ立教新座と慶應志木が近づいてきた。緊張で毎日のようにお腹を壊していたのを覚えている。そして迎えた立教新座入試。東武東上線に乗り志木駅に向かっている時は本当に緊張していた。志木駅で電車を降りる。改札を左に曲がる。右に曲がると慶應志木である。私は左に曲がった時、なんとも言えない気持ちになった。そして立教新座へと歩いて行く。そして到着し、入場が始まった。席につくと近くに同じ塾の子が見えた。少し安心した。早く入場したのでトイレに行ったり単語帳を見たりしてして暇を潰していた。そして先生が入ってきた。数学の問題用紙と大きい解答用紙が配られる。チャイムが鳴った。私の中学校のチャイムと同じだ!と思いながら問題用紙をめくった。小問は二次方程式、資料の活用、正方形とその中の正三角形、グラフなどの問題があった。Twitterでも言ったが正方形とその中の正三角形の問題は慶應志木でも同じ図形の出題があった。ラッキーと思いながら小問集合を解き終えた。次はサイコロ3つの確率の問題。(1)-(4)のうち(1)と(3)だけ解いて平面図形の問題へ移った。方べきの定理を使って全問解答した。その後は円錐とその中の球の問題である。(1)-(4)のうち(2)まで解いたが(2)は間違っていると後に気づいた。最後は二次関数。最後の問題は時間がかかりそうなので捨てた。いい選択だったと思う。終了のチャイムが鳴った。次は国語である。古文漢文はなかった。最後の小説が簡単だったのでそこで点を稼いだ。特に言うことはない。次に英語。リスニングが早すぎる。私は入試問題のリスニングを舐めていた。だが自己採点すると意外と出来ていた。長文が2つあった。最初の長文は難しかったが、後ろの物語文は簡単だった。慶應義塾の最後の物語の問題が短く簡単になった感じである。英作文は理由をはっきりと述べて解答した。終了のチャイムが鳴った。これで立教新座は終わりである。まあまあの出来だった。私は志木駅へ歩いて行った。帰りの電車で慶應志木がチラッと見えたのを私は見逃さなかった。次の入試は慶應志木である。正直に言って自信が全くなかった。立教新座入試の次の日、私の心臓はとてつもなくバクバクしていた。合格発表である。16:00の発表まで受かっただろという気持ちと落ちたなという気持ちが交互に現れた。16:00、パソコンに受験番号とパスワードを打ち込みそして目に飛び込んできた「合格」の2文字。私は発狂していた。嬉し涙をしたのもこれが初めてである。早慶入試も頑張るぞと思った。だがそこから慶應志木までの数日間は正直に言ってだらけていた。ちょっと問題を解いたらYouTubeを見るを繰り返していた。そして志木の前日、本庄の数学で38点を取った。明日もどうせダメだと思った。そして迎えた慶應志木入試当日。三田キャンパスに向かう電車の中で母が慶應志木公式サイトの画面を見せてきた。本日の入試は予定通り実施しますとのことだ。三田キャンパスの門の前に着くと、数人しか受験生がいなかった。みんな志木の過去問を見ている。私も同じく志木の過去問を眺めていた。気づいたら後ろに長蛇の列ができていた。そして門が開く。母とはここでお別れである。1人で三田キャンパスの階段を登っていった。その後少し待ったが入試手伝いの志木高生に受験票を見せて階段をあがり一番に大教室へと入った。大きいなあと思い前の方へ歩いて行き自分の受験番号が書かれた席に座った。そしてずっと志木の過去問を眺めていた。数十分後、試験監督が後ろから入ってきた。とっても分厚い封筒を持っていた。中には英語の試験問題と解答用紙が入ってるに違いないと思った。そして灰色の問題用紙が配られた。そしていきなり鳴る三田キャンパスのチャイム。慶應義塾関係者なら聞いたことがあるだろう。大教室に「え?もう解き始めていいの?」という空気が流れた。それも束の間みんなペラペラと問題用紙をめくり始めた。解答用紙は中にあった。立教新座同様大きいなあと思っていたら折り線がある親切設計だった。動揺を深呼吸で抑えた。最初はちょっとホラーな長文。並び替えはtoo-to構文だった。簡単だった。最後の問題が分からず飛ばした。次はシベリア鉄道の長文だった。ちょっと前にYouTubeでシベリア鉄道に関する動画を見ていて、見てたから解けた問題もありラッキーと思った。ここで厄介な大問に当たった。近年の社会情勢に関する次の文の空所に当てはまる最も適当な単語を選択肢から選ぶ問題だ。選択肢にはvaccineだのprogrammeという今っぽい単語があった。痛いところを突かれたと思った。私もほかの受験生もこの問題の出来は悪かったと思う。最後の4択問題と並び替え問題は多分全問正解したと思う。そして英語が終わった。トイレから慶應中等部が見えた。次は国語である。チャイムが鳴った。問題を開く。問題の全容を見たが長文一つのみだった。まあ慶應志木は過去にも同様のことがあったので動揺しなかった。まずは漢字15問。簡単なものから難しいものであった。次に慣用句に関する問題。出来が悪かった。そして次からはほとんど記述だったと記憶している。自分も周りも文章を行ったり来たりしながら解いていった。大教室に紙をめくる音が頻繁にした。お絵描き問題もあったがそんなに難しくはなかった。果たして志木高は美術2の人間が描いた絵に丸をつけただろうか。そして「その死んだ鳥を勝手に持っていけ!と怒鳴ると、下女は死んだ鳥を台所に持っていった。」この文の面白さを語れという問題が出た。私は祖母が台所を勝手と言っていたのを思い出した。あ、これは点数もらったと思った。そして国語は終了した。人並みは出来たと思う。そして弁当を食べて数学だ。問題用紙にはうっすらと二次関数のグラフや文房具屋という文字が見えていた。おそらく文章題だろう。そして私はここでコンパスと定規を出すのを忘れたことに気づいた。慌てて手を上げて試験監督が近くで見てる中リュックから取り出した。そして試験が始まった。小問の出来は良くなかった。文房具屋の文章題は多分全問正解した。二次関数は(1)-(2)のうち(1)は出来たと思う。(2)は自信がない。次は証明問題だ。証明は簡単だった。そして円と直線の問題だ。この問題は(1)しか出来なかった。これは惜しい。(2)も出来たはずだと思うが、緊張していたのであろう。そして最後は立方体の切断である。(1)は取ったが(2)は自信なし、(3)は捨てた。そして試験が終わった。個人的に爆死したと思った。30-40点くらいしか出来なかった。三田キャンパスを去り、帰りの電車の中で慶應志木多分落ちたとツイートした。高く見積もっても合計で150点くらいしか取れてない。早慶に受かる人は大体自信がないというが自分は絶対落ちたと思ってた。明後日の早稲田本庄に切り替えようと思った。1日あいて早稲田本庄。早稲田駅を降りると人でごった返していた。そこから早稲田大学まで歩いて行きここが早稲田かあと思いながら自分の受験番号が書かれた席に座った。女子がいる受験会場に新鮮味を覚えた(男子校ばっかり受けているからだが)。そして試験監督たちが入ってきた。まずは国語である。チャイムが鳴った瞬間問題用紙を勢いよく開けすぎて受験票がヒラヒラと飛んでいってしまった。そういえば立教新座でも同じようなことがあった。手を挙げて拾ってもらいちょっと出遅れてのスタートだった。国語は簡単だった。選択肢をよく吟味して選び、他の問題もよく出来た。トイレに行って数学である。志木の時のように最初の問題が見えていた。今回はかなりハッキリと見えている。簡単な因数分解と計算だ。始まる前に頭の中で解いてしまった。チャイムが鳴った。頭で解いていた問題は瞬殺した。小問集合は最後の問題が手こずったがなんとか終わり次の大問へ。ここからが難しくビビった。とても早稲田本庄の問題とは思えなかった。小問集合以降は大問が3つありそれぞれ3つずつの問題があるのだが、2つしか出来なかった。最後の立体の展開図は出来上がる立体が一切分からなかった(実はその立体の展開図、以前に早稲田実業や筑波大附属で出ていたらしい)。そして試験が終わった。オワリである。試験中に泣き出しそうになった。問題回収の時かすかに女子の泣き声が聞こえた気がする。Twitterでも言ったがお昼の弁当が食べられなかった。周りに絶望した雰囲気が漂っていた。そして英語。いつも通りの出題だった。過去問より出来が良かったかもしれない。コンパス定規をしまい忘れていて書面での注意を受けてしまった。これ以上言うことはない。そして3教科の試験が終わった。早稲田から家へ帰るときは本当に数学のことしか頭になかった。早慶はダメかぁ。厳しいなぁと思った。明日の塾高の出来が悪かったらもうオワリだと思っていた。早大学院は受かる気が一切なかった。寝る前に塾の先生と電話して少し気が楽になった。そして迎えた塾高入試。私は目覚めると共に強い吐き気を覚えた。塾高入試と志木の一次発表の2重の緊張である。東横線に乗っている時はずっと下を向いていた。汚くて申し訳ないが気持ち悪すぎて出てきそうだったのである。それに加えて腹痛も出てきた。最悪である。ここまで体調が悪くなったのは人生初であろう。日吉駅に降りてすぐ、トイレに駆け込んだ。トイレから出ると吐き気も治った。しかしそれも束の間、銀杏並木が目に入ってきた瞬間また気持ち悪くなった。もうダメだぁと母に言ったのを覚えている。そして塾高の教室へ入室した。過去問を見る余裕などなかった。とにかく気持ちが悪く嘔吐反射が止まらなかったのである。そして試験監督が入ってきた。そして国語の問題が配られ試験が始まった。もはや早く解き終えて体を休ませることしか考えてなかった。手をあげて保健室に行こうかなと何回も思った。30分ぐらいで解き終えて体を休ませていた。最悪のコンディションで解いたが意外と出来はよかった。国語が終わると吐き気もだいぶ治ってきた。次は英語。書き換え、誤文訂正など歴史ある出題構成であった。しかし、長文の最後の問題が訳せという問題から本文中ではどういう意味か答えるという問題に変わっていた。驚いたがそんなに難しくなかった。英語の試験が終わった。お昼である。お弁当を食べられるわけがない。そして数学が始まった。計算3問は瞬殺した。計算スペースはそんなに狭くなかった。立体の問題は(1)をミスったせいでグラフを書く問題以外落とした。かなり出来は良かった。難易度は2018年度くらいのように感じた。そして数学が終わり、志木の一次の発表を見る。合格発表サイトを探すのに手間だったがなんとか見つけ出した。そして自分の番号は...あった...ビビった。そして涙が止まらなかった。あまりにも信じられなくて母に受験番号の確認をした。母から受験票の写真が送られてきてようやく合格を実感した。翌日の早大学院が志木の二次に変わったという喜びもあった(体力的にもう学力試験を受けたくなかったため)。塾高の前で合格ツイートをして塾高を後にした。塾で面接練習を1時間ほどして、志木の2次試験を迎えた。志木高の校舎に入るのはこれが初めてだった。入ると番号ごとに面接のグループ分けがされていた。お手伝いの志木高生に体育館まで誘導された。そこから何も言わずにずっと待っていた。しばらくして志木高の先生の話がありいよいよ面接が始まった。お手伝いの志木高生に「この列の受験生立ってくださーい。移動しまーす。」と言われ緊張で頭が真っ白になった。私は列の先頭だった。その志木高生に間隔を一切空けずについていった。途中福沢諭吉先生の像をガン見した。志木高の窓からの景色は綺麗だった。そして面接会場の教室の前に着き、列の受験生は待機イスに座った。すると私はすぐに志木高生に受験票を持ったまま教室に入るよう言われた。その志木高生と目があった。今でも覚えている。一生忘れないだろう。そして私は塾で言われた通りドアを3回ノックした。「はーい、どうぞー」と男性の面接官2人の声がした。ドアを開ける。重くはなかった。入るとフェイスシールドをつけた男性の面接官2人、2人の間にある入学志願書、ビニールのカーテン、1つのイス、後ろに下げられた机と椅子が目に入ってきた。私は椅子の横に立ち「どうぞおかけください」と言われてから座った。まずは受験番号と名前をきかれた。家からどれくらいかかったか。それから他に受けてる学校、合否が分かってる学校、都立は受けないのか、志木が第一志望と答えたら「その心は?」と笑いながらきかれた。勉強時間などよくきかれるようなことしかきかれなかった。塾で対策した質問もいくつかあった。5分ぐらいで終わり、上着とリュックをもって志木高生に帰路にしたがって校舎を進み帰るように言われた。前にも言ったがこの試験はとても楽しかった。落ちるようなことは言わなかったし多分落ちはしないだろうと思いながら帰った。そして迎えた合格発表日。今年は慶應義塾の2次試験がないので早慶3校の結果が同時に出る。朝起きると9:05分でもう母が早大本庄の発表を見ていた。合格していた。早稲田に行けるんだと思いながら志木の発表を待った。10:00。志木の発表ページを開く。自分の番号は...合格者のところにはなかった。補欠者のところにあったのである。補欠順位はかなり下の方で繰り上がるか微妙な順位だった。次は塾高。合格していた。補欠ではなかった。おぉぉと小さく声が出たのを覚えている。さて、どこに進学するか。早大本庄は遠すぎるからなしということに家族でなった。塾高と志木。もともと塾高志望だったが入試の時はどっちに進学してもよかった。志木の補欠を待ってる間ものすごく迷った。早慶3校の発表から1か月が経ったころ、手紙が届いた。慶應義塾志木高等学校からだった。封筒の分厚さからもう察した。その頃にはもはや塾高に行く気でいた。封筒を開けて、中の紙を見る。補欠者の繰り上げを終了した通知だった。慶應志木、不合格である。そして現在に至る。志木に落ちたことは今でも少しショックだ。しかし日吉での塾高生生活を楽しもうと思う。こうして受験の合否も出揃い、受験は全て終了している。しかし今、とてつもない虚無感に襲われている。3年間受験のことしか考えていなかった。そのため私は何が好きで趣味は何なのか忘れてしまった。勉強やスポーツだけでなく自分探しも、慶應義塾での7年間のToDoである。

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