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最初の自殺者、O.G氏について考える。狭山事件(十一)

 狭山事件において最初の自殺者であるO・G氏は遺体発見から2日後というかなり怪しいタイミングで自殺を図った。結婚直前で貯蓄が無くなったことと性的不能を気に病み自殺を図ったとされている。
 結婚式を予定していたため季節外れの高級トマトを持っていた可能性が高く、被害者宅の作男だったという点から被害者を誘い出せる可能性も高い。
 彼は事件当時31歳。血液型はB型。国民高等学校を卒業後14歳から2年あまり被害者宅で作男として働いていた。この頃善枝さんは0〜1歳。被害者宅で作男をしてからはPTA会長の兄宅(ショウジ氏)で作男をしていた。昭和36年5月21日から運転助手として昭和38年5月3日まで入間川駅前西武通運に勤務していた。
 近所の評判は「真面目、小心、冷や飯食いの次男」、彼の新居は遺体発見現場から200メートルほどの位置にある。「家のものは面倒をあまり見ず、弁当も飯だけ持ってくる」

西武通運について
 西武通運株式会社。昭和19年に西武川越運送(株)、入間川駅合同運送(合)、入曽通運(株)、所沢合同運送(株)と東村山通運(株)の5社が合併し、資本金18万円にて西武通運株式会社を設立している。設立後は本社を川越町(川越市)に置き、本川越駅・入間川駅・入曽駅・所沢駅・東村山駅に営業所があった。
 その後、昭和23年には本社を入間川町に移し、資本を増資している。業務内容は小運送業・普通貨物自動車事業と小運搬業の営業であった。

彼の動き
 事件当日である5月1日は入間川駅西口北方の勤務先を15時40分〜16時ごろに退社している。

弁護人:OGが当時勤めていた西武運輸の班長、或いは同僚の供述中に、同人の、5月1日の犯行時間帯におけるアリバイが無いことについての客観的な証拠が存在するのである。というのは、Oは、当時午後3時40分、西武運輸営業所を出たというように、早退したというように書いてあります。

二審64回公判 昭和47年7月27日

 なぜこの日は早退したのだろうか、結婚の準備で必要なことが何かあったのだろうか。被害者が拉致された日から自殺までのO.G氏の動きを見てみる。なお、太字は被害者と事件の動きである。
<5月1日(水)>
15時前後
 第二ガード下にいるところを中学校の担任教諭に目撃される。
 堀兼方面から俯き加減で自転車に乗った被害者とすれ違う。

すれ違った現場

15時ごろ(おそらく隣家の方の記憶)
 新居の玄関が完全に開いており、「〇〇さんですか」と声をかけられた。玄関脇には男用の自転車があった。雨が降る前(隣家の方A)だった。

OG氏新居

15時30分ごろ
 教室を出て、狭山郵便局で記念切手の予約領収書を受け取る。その後駅前の毛糸店で針刺しを購入し、東中の野球の決勝戦を観戦する。
15時40分
 試合が終わり被害者は立ち去った。

15時40分
 退社(同僚の証言・職場班長の供述によれば15時半から16時)車に乗らず荷物の整理をし、午後は早じまい。作業中丸通マークの入った作業服上下七枚ハコゼの地下足袋をはく。帰宅の時はナイロンジャンパー。短靴に履き替えていた。
16時ごろ
 第一ガード下で目撃される。

17時ごろ
 荒神様の祭礼に出かける時、新居の前に「古い自転車」が立てかけてあって新居の玄関が少し開いているのを見た(隣家の方A)
17時以降
 アリバイ上では5月1日の17時から19時までは父親と兄夫婦と叔父で酒を飲んでいたとされる。叔父の話では結婚祝いを実家に届けに行って酒盛りをしたと。父親の話では、「前夜二人で新居に泊まったが、朝気がついたら姿はなかった」と話しているが、叔父は実家の方に届けに行っており嘘をついていることになる。

A(O氏の叔父)は旧宅に結婚祝いの引き出物を持参し、O氏、O氏の父と3人で19時半頃まで酒を飲んでいたとされる。

サンデー毎日 1963年6月9日

 母親は15時30分に実家に帰ってきて19時ごろまで酒を飲んでいたと証言している。
18時50分ごろ
 兄が帰宅しないので心配して自動車で探しに行く。

19時40分ごろ
 脅迫状が被害者宅玄関に差し込まれる。
おそらく、未明までに殺害。これより前にトマトを含む食事を食べている。
19時50分ごろ
 長男が堀兼駐在所に届け出をする。
23時40分ごろ
 佐野屋の前で犯人を待つが現れず。

<5月2日(木)>
2時から3時ごろ
 真夜中に吠えることのない付近の飼い犬が一斉に吠え出した(死体発見現場から西に約160m離れた所に住む主婦の証言)


 畑にごぼうまきに行った際に死体発見現場の農道が掘った後に埋め直したような跡があるのを見たが、犬か猫でも埋めたのかと思った(死体が発見された場所の北側に畑を持つ人の証言)

 午前8時〜17時までの勤務で同じ車に乗ったが変わった様子はない(同僚の証言)
16時40分
 新居に来たのを見た。17時半ごろ傘を貸した(隣家の方B)この傘は翌3日父親が返しに来た。この話が本当ならまた早退していたことになる。
 周囲の人は5月2日からノイローゼ気味だったとの話もある。

<5月3日(金)>
0時
 佐野屋に犯人が身代金を取りに来る。

 山狩り捜査開始、自転車の荷台のゴム紐が発見される。

 午前8時から17時までの勤務、同じ車に乗ったが変わった様子はない(同僚の証言)
 本人は「1日は新居の家で寝た。雨が降ったので隣の家で傘を借りて帰った」と証言しているが、傘を借りたのは2日の筈である。

<5月4日(土)>
 会社を無断欠勤する。
10時半ごろ
 遺体発見。

遺体遺棄現場

19時〜21時
 少女宅で司法解剖を行う。
<5月5日(日)>
 日曜日、子供の日で休日。

<5月6日(月)>
8時30分ごろ
 農薬のエンドリンを飲んで実家脇の井戸に飛び込んだ。その後、引き上げられたがまもなく死んだ。

飛び込んだ井戸

 母親の目の前で「俺は生きていられないんだ」「死ぬ」と叫んで土間に駆け上がり、そのまま走って15メートル先の井戸に飛び込んだ、ともされる。検死した刑事は「溺死」としているが、最後の手当をした医師は「井戸に水はなかった」と証言している。
 公判では隣の人が待ってと言ったしお袋さんが追いかけたけど間に合わなかったと。自殺した翌日には自分の結婚式を控えていた。「病気に負けました。すまないことをしました」という意味の遺書を残していた。二審39回公判では遺書の内容については「病気に負けた、父母頼む」と書いてあったとのこと。

 6日午前8時30分ごろ埼玉県狭山市青柳308の一農の二男OGさん(31)(西武通運入間川営業所勤務)が自宅裏の井戸で自殺しているのを家族が発見。同9時40分ごろ狭山所の善枝さん殺し特捜本部に届け出た。同本部から埼玉県警捜査一課の長谷部刑事捜査官らが急行、検視したところ、農薬約150cc飲み、その直後に自宅裏の井戸(深さ10メートル)に飛び込んだらしい。調べによると玄二さんはあす7日同市内の某女(26)と結婚式を挙げることになり同市内に新居まで建てていたが、約1年前からノイローゼ気味だったという。

読売新聞 1963年5月6日

 埼玉県警刑事部長:これにつきましては事件の最中ですから重大な関心を払いまして、あるいは犯人ではなかろうかという疑いもありましたので厳密に捜査をするように命令をいたしました。その結果といたしまして、5月1日の夕方までOさんは勤め先である入間川の丸通でございましょうか、そこに勤務をしておったという状況がはっきりしました。筆跡を入手しまして鑑定をしました結果脅迫状とは異質であるという鑑定がなされました。足跡につきましても、十文半の地下足袋をはいておらん、現場に印象されておりましたような職人用の地下足袋を所有しておらないという状況がはっきりしてまいりましたのでー

二審第39回公判 昭和45年12月3日

<5月7日(火)>
 捜査本部は「彼にはアリバイがあった」と発表し彼に関わる捜査を打ち切っている。

 「ノイローゼ気味だった」ついては様々な噂がささやかれている。自殺の原因については、「数回結婚や縁談で失敗していてノイローゼ気味だった」、「数年前からある宗教にこり、ノイローゼ気味になっていた」、「心臓病で悩んでいた」、「インポテンツを気にしていた」、「包茎だった」、「新居の建築に百万ほどかかったため貯金もなくなり、結婚費用も考えて小心だから自殺したのだろう」との証言があるが噂の域を出ない。

「ちょっと先生の名前は忘れましたけれども、当時陰金か何かができまして、診断を受けました。お医者さんにまあ性的に不自由だというようなことを相談しておるというようなことがわかってまいりましてー」

「狭山事件を検証する」狭山事件と部落差別より 二審39回公判より

 しかし、どうも性的に「不能」ではなく「不自由」だったようだ。これでは、「股部白癬(いんきんたむし)で性行為ができないことに悩んで自殺した」ということになる。当時は初夜が迎えられないことがそこまで面子を損なうことだったのだろうか?
 さらに死因は溺死としているが、睡眠薬を飲んでいたと捜査官は聞いている。死因に関してはかなり情報が錯綜している。
 二審64回公判にて変死体を検死した医師によれば記憶は曖昧ながらも、

弁護人:そうするとこの先生の診断書を見ますと、エンドリンというようなことが書いてあるようですが、これは農薬でございますか。
医師:そうですね。
弁護人:これは口の中、あるいは胃の中からはき出されたものかお調べになったということになるんですか。
医師:細かい科学的な検査というものは私たち、もっていませんから、手続きをね、だからそういうことはしていないけれども、周囲の状況、あるいはそういう匂いとかね、たとえば一般の病気にしても下痢しているとか腸がこわれてると想像すると同じように、一般の状況から察してみて、それを飲んだような匂いがしているからそうじゃないかというふうなことは考えられるわけだね。
弁護人:この匂いというのは口からの匂いでしょうか、何か吐き出したものがあって、そこから匂うとか、そういうふうなご記憶はどうでしょうか。
医師:吐物からも、匂うし、口からも、匂いました。
弁護人:吐物もありましたか。
医師:あったと思いましたよ。
弁護人:この、先生がみられた時には、死体は井戸に飛び込んだのをすでに引きあげられた時に行ったんですか。
医師:そうそう

二審第64回公判 昭和47年8月15日

 そして家人の話によると、「農薬を飲んで死にきれなかったから井戸に飛び込んだらしい。どのぐらいのエンドリンを飲んでいたかわからないし、私もエンドリンの致死量は知らない。この井戸はジメジメはしていたが水はなかったと思った。井戸の深さは10メートルほど」と証言している。
 エンドリンの致死量はラットへの経口投与で6.54mg/kg、中枢神経に作用し眩暈や脱力感、嘔吐、痙攣などの症状が生じる。飲んでも走って井戸に飛び込めるということは早々に嘔吐したか、飲んだのが少量だったのかもしれない。

 特捜本部の発表によると、被害者が殺された1日、OGさんは午後3時ごろ勤務先を退社(同僚の妻が目撃)新居から実家へ帰る途中の沢街道で被害者と会う可能性は十分考えられる。(中略)筆跡その他を科学鑑定に回しているのはOGさんの分だけであると発表した。(中略)一方科警研で調べていたOGさんの血液は7日、B-MN型とわかり、被害者の死体から検出した犯人の血液とほぼ一致したが~

読売新聞 1963年5月7日

 実は、死体から検出された性液から血液型は犯人の型と実は一致していた。
 MN型とは1927年にラントシュタイナーらによって発見された血液型で、血球中のM凝集原とN凝集原の有無により、M・N・MNの3型に分けられる。日本人では MNs型が 43%、Ms型が24%、Ns型が21%、MNSs、MSs、NSs型が数%、MS、MNS、NS型は1%以下とされている。

 その後捜査本部はアリバイが成立したと発表した。

 最初重要参考人と見られていたが事件とはほぼ無関係であることがほぼ確かとなり(中略)疑問の点が多いとしてOGさんを”クロに近い”と発表した。ところが7日夜までの捜査でこれらを「9割までくつがえす」材料が出そろい、クロ、シロは逆転した。
 1日午後5時ごろから実家で兄夫婦らと酒を飲んでいたことが身内の証言で確かめられた。(中略)またタンスの中に現金5万円を持っていたので結婚式の費用に困った形跡はなく〜

読売新聞 1963年5月8日

 当初はクロとされてきたのに、9割くつがえす材料が出たらしく、嫌疑は晴れたらしい。何がその材料だったのかは未だにわかっていない。事件後彼の筆跡は鑑定され、その結果は「類似点も非類似点もある」「五分五分」であったとされる。確定判決後にその筆跡は開示されており、脅迫状の筆跡とは違っていたらしい。
 また箪笥の中には現金があり、金に困っていた形跡はなかったそうだ。これらの内容は国会でも答弁を行なっている。となると「病気に負けた」の内容は股部白癬というなんとも微妙な内容となってくる。

佐々木静子君:長官は、この狭山市大字青柳三〇八番地で、OGという人が、変死をした事件を御存じですか。
佐々木静子君:警察の御見解はあるいは自殺ということになっているのかわかりませんが、このOGという人は、これはOGさんの戸籍謄本ですけれども、五月六日の午前九時三十分になくなっているわけなんです。実はこの玄二さんは、その翌日の七日に結婚式をする予定で家も新築し、そして結婚式の準備万端整えてあったわけなんです。ところが、この六日の日に、突然井戸へはまってなくなっていた。農薬を飲んでおられたということなんですが、このOGという人は、これは被害者のうちの作男を、長いことやって、被害者とも昔からの顔なじみである。また、死体発見の現場からも非常に近い。そういうふうなことがあるんですが、当時の新聞報道によると、有力容疑者——あるいはこれは人権に関する問題ですが、半ば犯人が自殺したというふうな記事が当時載っているわけです。この点について、当然警察は捜査もされ、やったと思いますし、また、あるいはなくなったあとも、いろんなお調べをされたと思うのですが、これはされましたか。あるいは捜査をされたとすると、その当時の一件記録はどこに保管されているわけですか。

第68回国会 参議院 法務委員会 第5号 昭和47年3月23日

埼玉県警刑事部長:私の記憶では、OGさんが中学を卒業して間もない昭和22、3年ごろで、被害者が乳飲み子でよくおんぶをしたころだ、というふうに聞きました。

二審第43回公判 昭和46年3月2日

 ということはOG氏は被害者の誕生日は知っていただろう。また、以下のような証言もある。

弁護人:ガード下は、西武運輸の事務所から近い、見とおせる場所であります。

二審64回公判 昭和47年7月27年

 職場は荒神様の祭りを見ることができ、またガード下も観察できる。さらに新居からは短時間で遺体を輸送できる。これらは果たして偶然なのだろうか。
 彼女は第二ガードより東から来ているところを後輩に発見されている。その後第二ガード、第一ガードと移動している。奇しくも第二ガードより東はOG氏の実家がある方向で、彼女はトマトを食べに実家方向へ行ってみたが違っており、最終第一ガード下で待ち合わせた可能性がある。

 そもそも、彼はなぜこのタイミングで自殺を図ったのだろうか?
 ①股部白癬で性行為ができない、「病気に負けた」という説。
 ②もともとノイローゼ気味で誘拐殺人が起こったことによる八つ墓村的な毒気に当てられた集団ヒステリー的な何か説。
 ③遺体が発見されたため犯行の発覚を恐れて説。
 小心者というならわざわざこんな仰々しい時に自殺しないと感じてしまうのだが、むしろこのタイミングで自殺を図ると確実に容疑が自分に向くだろう。つまり悪目立ちするのだ。女子高生が行方不明となり、遺体で発見されている。誘拐当時は村は恐ろしい活気に包まれていた筈だ。それよりは事件への関与の発覚を恐れて自殺を図ったという方が自然に思えてくるのだが。

 これまでの事実から私の考察では狭山事件の犯人は3人、
 ①少時誘拐計画リーダー(車を持っている)
 ②手紙の作成役(呼び出しや送迎役も兼ねていたかもしれない)
 ③殺害実行・遺体遺棄役。
 だと考えている。脅迫状通りの行動を取ったかと思えば、奇異な死体の埋め方をしたり誘拐実行時にはかなり紆余曲折もしくは突然のアクシデントがあったのではないかと私は考えている。①、②は直接的な犯行に関与していない可能性もあり、少時誘拐計画を企画し誰かに脅迫状を書かせたが、その計画は何らかの理由で頓挫し誰かがポケットに折り畳んだ脅迫状を入れていたのだろう。
 もともと少時誘拐計画犯は車を所持しており、西武園まで遺棄しに行く予定であったのだろう、そして身代金の引き渡しも「車出いく」予定であったはずだ。
 脅迫状を書いた人間は学生の身分もしくは卒業したばかりで、一通り揃った筆記用具を持っていたはずだ。しかも、手袋をして集中して脅迫状を書くことができた者で、遊び心があるような内容だ。もしかしたら歳の近い彼女をガード下で待たせたかもしくは、堀兼地区に呼び出したのかもしれない。
 そしてもう一人、池に車で捨てに行くと想定し遺体をそのように準備したが、計画犯とのなんらかの齟齬があり結局近くに埋めに行く羽目になったもの。脅迫状はポケットの中に所持していたため誘拐してから書き換えた可能性がある。おそらく遺体遺棄者は車は所有しておらず、リアカーで遺体を捨てに行くことになった。雨の中遺体を捨てようとした際に欲情し胸元を弄り泥だらけにした上に死姦に至った人物である。
 この遺体遺棄者が血液型の一致するOG氏である可能性がある。なぜ真犯人が捕まらないのか?と考えた時にその理由の一つにもしかしたら「もう死んでいるから」があるのではないかと感じる。

手拭ー五十子米店が配った手拭は西武通運の自動車で運ばれており、OGが持っている可能性がある。

北川鉄夫著 「狭山事件の真実」部落問題研究所 1972年

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