見出し画像

いつの間にかフェードアウトした青酸化合物。和歌山毒物カレー事件(4)

 事件後の7月27日の新聞報道では、司法解剖の結果青酸中毒による中毒死が発表され、被害者の吐物や容器に残っていたカレーからも青酸化合物の反応が検出されたと報道された。
 そのことが分かってからも、警察は3時間は病院・保健所に連絡せず、保健所はニュースでその事を知ることとなった。その間にせっせと県警は捜査本部を作っていた。

最初に亡くなったのは、自治会の谷中会長だった。カレーライスを食べてから約9時間後にあたる26日午前3時頃、搬送先の病院で息を引き取った。その3時間後、県警は患者たちの吐瀉物から青酸化合物を検出したため、「園部における毒物混入事件捜査本部」を設置した。(中略)病院もしくは保健所へ青酸化合物を検出したことを連絡すべきだった。

「田中ひかる著「毒婦 和歌山カレー事件20年目の真実」より

 その後、青酸化合物の反応は52点の試料から得られながらも種類を特定できず、県警科学捜査研究所は警察庁警察研究所に毒物鑑定を依頼した。

捜査本部は、犠牲者の体内や吐瀉物、容器内の食べ残しのカレーなど500点を県警科学捜査研究所で鑑定したが、種類の特定はできないまま、警察庁科学警察研究所に鑑定を依頼した。

「田中ひかる著「毒婦 和歌山カレー事件20年目の真実」より

 その後、警察庁警察研究所は8月3日に胃の内容物や食べ残しのカレーからヒ素を新たに検出した。この時にはまだ2種類の毒物が投入されたとみなされていた。

新たにヒ素が検出されたのは偶然だった。事件後に兵庫県尼崎市で青酸化合物の紛失が発覚し、警察庁科学警察研究所(科警研)が関連があるかどうか念のために、和歌山の試料を再検査して見つけた。

朝日新聞 時々刻々より

 「偶然」と書かれているが紛失したのは青酸化合物でヒ素ではない。毒物の鑑定については私は素人であるが、調べてみるとどうも同じ機材で鑑定できるようなものではないのだが.........。
 なぜわざわざヒ素の検査を行ったのだろうか。単純に考えると、一部では青酸化合物の発見があったが、死因となるほどの毒物を発見できなかったために他の毒物の発見を警視庁警察研究所に依頼した、と考えてしまうが。

 日本中毒学会によるとシアン化合物(青酸化合物)の検査は高価な機器を用いずに簡単な操作で検査できるのが、呈色反応や迅速検査キットである。呈色反応としては、ベルリン青反応、ロダン反応、ピリジン・ピラゾロン反応などがある。迅速検査キットとしては、検知管やパックテストなどが知られている。生体試料中には反応を妨害する物質(チオシアン酸は顕著に妨害することが知られている)が混在するため、蒸留や拡散などの方法で青酸を抽出する必要がある.
 更に調べてみると県警では青酸化合物(シアン化物)の検査はピリジン・ピラゾロン法という方法を取っている。シアンの加熱蒸留を行い、水酸化ナトリム溶液に吸収させ、その一部をとって酢酸で中和した後、クロラミンT溶液を加えて塩化シアンとし、これにピリジンーピラゾロン混液を加えて生じる青色の吸光度を測定する方法である。

 更に、日本中毒学会のサイトによるヒ素の分析法としては,水素化物発生原子吸光光度法(AAS)や蛍光X線分析法,誘導結合プラズマ発光分析法(ICP)などが利用されるが,いずれも総ヒ素量測定法であり,化学形態は識別できないとされる。

 化学形態を識別するには,高速液体クロマトグラフと誘導結合プラズマ発光分析/質量分析計(HPLC-ICP/MS)を組み合わせた装置が利用されるが、特殊であり保有する施設も限定される。そのため、血液や尿中のヒ素分析にはAASという方法が汎用される。
 ヒ素の鑑定は尿を使い、青酸化合物は血液を主に鑑定では使う。試料の形態も違うし検査方法も全く違う。それぞれ使用する機器も違うようだ。
やはり疑問点は「紛失したのは青酸化合物なのにヒ素の検査を行ったのか」だ。

 ヒ素が検出されたため、8月3日にはその対応のために保健所から厚生省に連絡が入り毒物治療の専門家の山内博教授に分析の依頼が入っている。
 その後、8月4日にはカレー鍋3つ全てからヒ素が検出され、さらに全ての鍋に青酸化合物が投入された可能性が強いと捜査本部は発表した。
 8月6日にはヒ素化合物は亜ヒ酸か亜ヒ酸の化合物であることがわかり、8月9日には青酸化合物とヒ素化合物は研究所や化学工場などで使われる高純度の「試薬」だった可能性があると発表された。
 その後、青酸化合物に関する発表は完全に影を潜めた。
 10月8日に和歌山県警捜査本部は4人の犠牲者の死因を「ヒ素中毒」に変更、結局犠牲者の血中から検出された青酸はごく微量で、元々青酸化合物が投入されなかった可能性が高いと言い始めた。
 何だか無茶苦茶だ。

元科警研副所長で、カレー事件の際、毒物の鑑定にあたった丸茂義輝は、「犯罪捜査における科学鑑定の役割ー異同識別と和歌山カレーヒ素事件ー」と題した講演の中で、犠牲者たちの心臓血、胃内容物、吐瀉物から検出された青酸化合物は、「タバコを吸ってもこのぐらいにはなるという濃度」で「死に至るような血中シアン(青酸)濃度ではない」と述べた。そして、鍋や食べ残しのカレーから青酸化合物を検出できなかったことについては、「気化」したのではなく最初から混入されていなかったのだと強調した。

田中ひかる著「毒婦 和歌山カレー事件20年目の真実」より

 実際に公表された青酸化合物の濃度は全く致死量に及ばないものであった。発表された死者のそれぞれの血中濃度は以下の通りである。
 64歳男性 青酸濃度:0.0055 
         ヒ素濃度:2.0
 53歳男性 青酸濃度:0.0064 
                   ヒ素濃度:1.1
 16歳女性 青酸濃度:0.0008 
                   ヒ素濃度:0.6
 10歳男性 青酸濃度:0.0016 
                   ヒ素濃度:1.4
 血中致死量は青酸化合物は1.0以上、ヒ素は0.4と言われている。濃度の桁が2つほど違う。

 そもそも論であるが、当初食中毒が疑われたのは嘔吐が主症状だったからだ。青酸化合物(シアン化合物)の主な症状は細胞の窒息でヒ素とは全く違う。そこはなぜ臨床症状から推察されなかったのだろうか。

青酸化合物にはシアン化カリ(青酸カリ)シアン化ナトリウム(青酸ソーダ)があり、電気メッキ、金属製品や写真製版の加工等の用途で工場で使用され、入手はそれほど困難ではないが、近年は青酸化合物による事故、事件は減少している。(中略)経口摂取された青酸化合物は、胃酸と反応して生じたシアン化水素ガスが胃粘膜や気道を介して肺から吸収されることにより速やかに毒性を発現する。(中略)ヘモグロビンに対する酸素運搬障害作用はあまり大きくなく、むしろ抹消の細胞のミトコンドリア内膜の電子伝達系(呼吸鎖)中のチトクローム酸化酵素のヘム鉄と結合して、組織・細胞レベルで内窒息を引き起こす。

近藤稔和・木下博之著「死体検案ハンドブック第4版」より

 つまりは症状として喘鳴、皮膚の紅潮、静脈の怒張、呼吸困難、意識喪失、全身けいれんなどがみられ、死亡する。呼吸器症状が圧倒的に強くみられる。

 それに比べてヒ素中毒の症状は嘔吐、腹痛、下痢などの消化器症状と意識混濁、痙攣などの神経症状だ。

 ヒ素による無差別テロの対応など一般の病院は経験がないだろうから集団食中毒が当初疑われても無理はない。

 事件から5年後、以下のような報道がなされた。青酸化合物の検出についてだ。

「体液中にある青酸の類似反応を示す物質を分離せずに検査したために、青酸反応が認められた」と述べ、鑑定のミスを認めた

毎日新聞2003年3月10日

 俯瞰してみると、単純に和歌山県警は毒物事件はほぼ素人だったのではないかとしか思えない。全てが後手後手に周り迷走しているのだが、そう考えると本当に証拠品からヒ素の検出は正確になされたのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?