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結界を越えれなかった鬼の首、首塚大明神
由緒
平安時代初期(西暦八百年頃)丹波の国大江山に本拠を構えた酒呑童子が、京の都へ出て金銀財宝や婦女子をかどわかすなど、悪行の数々を行うので人々の心に大きな不安を与えていた。
天子(天皇)は源頼光等四天王に命じ酒呑童子とその一族を征伐するように命じられた。源頼光等は大江山の千丈ケ嶽に分け入り苦心の後、酒呑童子とその一族を征伐し酒呑童子の首級を証拠に京の都に帰る途中この老の坂で休憩したが、道端の子安の地蔵尊が「鬼の首のような不浄なものは天子様のおられる都へ持ち行くことはならん」
と云はれた相模の国の足柄山で、熊と相撲を取ったという力持ちの坂田の金時が証拠の品だから都へ持って行くと言って酒呑童子の首を持ち上げようと力んだが、ここまで持って帰った首が、急に持ち上がらなくなった。
そこで一行は止むを得ずこの場所に首を埋めて首塚をつくったと伝えられる。酒呑童子が源頼光に首を切られるとき、今までの罪を悔い、これからは首から上に病をもつ人々を助けたい、と言い残したと伝へられ首塚大明神は首より上の病気に霊験があらたかである。
京都府京都市西京区大枝沓掛町の老ノ坂峠には酒呑童子の首が埋められたとされる首塚大明神がある。
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寛仁2年(1018年)源頼光は一条天皇より大江山の夷賊追討の勅命を賜ると、頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)四名と、嫡男・源頼国、名将の藤原保昌ら総勢50数名を引き連れて、摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行った。これが「大江山の夷賊討伐」「酒呑童子退治」として後世まで伝わる伝承である。
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大江山は平安京(京都)の北、天橋立と福知山城の中間あたりにある山で、「土蜘蛛」と呼ばれる中央政府に従わない野蛮人、盗賊らがいたらしく、「鬼の一族」と呼ばれていた。首領の名は「酒呑童子」といい、茨木童子、星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子など多くの鬼を従えていたという。
頼光らは、出家には手を出さないといわれる酒呑童子を欺くため、山伏の姿に変装し酒呑童子に接近し接待を受けると、手土産の酒に眠り薬入れて飲ませて成敗したと伝わっている。
頼光が酒呑童子の首をはねた刀は、「童子切安綱」と呼ばれ、古来より天下五剣に数えられる名刀で、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠も、この童子切安綱を所持したといわれる。現在は、国宝として東京国立博物館に所蔵されている。
この武勇により頼光は、「御伽草子(おとぎそうし)」などで、化け物・妖怪退治の第一人者と言われるようになった。「大江山鬼退治」は、能・歌舞伎としても伝わり、現代の映画・ドラマなどにも登場している。
もともと老の坂という地名はかつて大江坂が訛って老の坂になったと言われており、平安時代には四方より平安京を守護する四境の一つ。京の都に入れない魑魅魍魎は、この結界の外に集まるようになった。京都の結果と言われればオカルト好きにはゾクゾクする話だが、おそらくその結界の外は治外法権だったのだろう。
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1000年以上の長期に渡り伝承が伝わっており、おそらく山間民族との戦闘が本当にあったのだろう。この塚も本当に首が埋められた可能性がある。さて、この酒呑童子討伐には厨二病を刺激するカッコいい伝説の人物が次々に出てくる。
源頼光
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源氏の第三代当主であり幼名は文殊丸。天暦2年(948年)に生誕し治安元年(1021年)死没。享年74歳、当時にしてはかなりの長寿である。父は満仲、母は源俊(すぐる)の娘。藤原兼家に仕え、のち道長に従い、道長の死後は頼通に従った。
彼の配下には四天王と呼ばれる渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武といった屈強な配下がいた。貴族ではあるが、今昔物語や御伽草子などでは土蜘蛛の討伐や酒呑童子の退治など対化け物のエキスパートとして描かれている。
酒呑童子
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史上最も有名な鬼とされる。越後または近江の出身と言われ、大江山に居を構えて、たびたび都へ現れて略奪を繰り返した。そのため源頼光と四天王によって倒された。この頃の「土蜘蛛」や「鬼」と名がつく者たちは山深い山林に住む者たちであったとの説もある。
坂田金時
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源頼光四天王の一人。幼名は金太郎。足柄山で生まれ、鉞をかついで、熊と相撲を取った怪力の童子とされる。頼光に見出されて四天王に加わる。山伏に身を変えて大江山に行き、神変奇特酒(眠り薬入りの酒)を使って酒呑童子を退治した。実在していたのかは諸説ある。日本では紀元前23年から「すまヰ」の記述があり、金時は凄腕の相撲取りだった可能性もある。
渡辺綱
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源綱、通称渡辺源次、かなりの美男子であったらしい。酒呑童子の退治後は京都の一条戻橋で茨木童子の腕を名刀「髭切」で切り落とした男である。凄腕の妖怪ハンター、ヒルコも真っ青である。渡辺姓の祖でもある。鬼は「渡辺」姓を聞くと逃げるそうで、節分に「渡辺」さんは豆まきの必要性がないらしい。
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