1990年8月31日。

数日前に16歳の誕生日を迎えた私は、人生で初めて「この後どうすればいいかわからない」という感情に襲われた。
明日は2学期の始業式だ。

夏休みの課題が、全く終わっていないなんて。

ありえないことだった、それまでの自分には。
地元では一番の公立進学高に無事合格し、幸い実家と同じ市内で、出身中学校の隣に建っていたので、私は計6年間ほぼ同じ道を自転車で通学していた。
中学校から高校まで、酷い部内いじめに遭いながらも、「いじめてる奴らの思うツボ(おそらく私の退部)だけにはなってやるもんか」という根性だけで吹奏楽を続けてきて、ほぼ毎日部活に通ってた生活は変わらないはずなのに、なぜ中学校の頃にはかなり余裕を持って終わっていたはずの課題が、全くというほど白紙に近い状態で残っているのか、自分の中ではそう簡単に落としこめる問題ではなかった。

結果として私は、どうすればいいのかわからなくなって、翌日9月1日の学校をサボった。
何のことはない、単に朝から「学校行きたくない」と言い張って布団から意地でも出なかっただけで、意外と簡単に8月31日問題はするっと終わってしまったのだった。
気の合うあまりに、結局高校3年間担任してくれた中年の男性教諭が9時半だかに電話をかけてきたのは覚えている。
母が困り果てた声で「行きたくないとか言ってて・・・テコでも起きてこないんです。」と訴えたら、担任はなんで来ないのか、来れないのかすぐにピンと来たようで、「まぁ、今日は無理しなくてもいいですよ。彼女もたぶんどうすればいいか困ってるんですよ。明日は来いよ、とだけ伝えて下さい。」と言って電話を切った。
たぶん、彼は彼なりに、既にベテランの域に達した教員生活で、私のように初めての挫折のようなものにぶち当たった子たちの扱い方なんかお手のものだったのだろう。

結局私は翌日、何もなかったかのように登校した。
一番量的に残っていたのは、1学期に通知表で赤点をもらった数学のワーク。
おそらく数学科の先生方が寄ってたかって、あちこちの問題集を寄せ集めて作ったのであろう、それでも一応町の印刷屋には出したっぽい、ピンクに近い赤色の薄っぺらい表紙に校歌の一文と校章が描かれて製本された、「●●高専用ワーク」。
これを期末考査終了後(7月上旬)に300~500円くらいの副読本扱いで校内で売るのだ。
当時は「なんでやりたくもねえもん買わされるんだよ」と思ってたのだが、高校は義務教育ではないのだから、自費負担は当たり前である。
私はその3分の1も出来ていなかった。
いや、理解できないのだから出来るわけがないのである。
当時は問題文を読んでも、立式ができなかった。
ポイントとなる数字がどれとどれで、それがどんな規則性を持って立式に至るのか、全く理解できなかった。

教師の目から見て、ほぼ真っ白なワークを仕方なく提出したら当然呼び出されて怒られた。
「何やってんだよ!全然やってねーじゃんか!やる気ねえのかよ!」と怒鳴られて、「やる気だけで解けるなら苦労しとらんわ!出したくてこんな状態で出しとるわけじゃねえわ!」と涙を溜めた目をキッと上げて睨み返して叫んだのは覚えている。
私はいじめを誰も救ってくれなかった中学校の3年間を経て、とりあえず自分から動けるものは動いていかないと何も変わらないと悟り、手近な大人である教師にはもともとの負けず嫌いから来るいっぱしの反抗を見せて噛み付くやっかいな女子高生になっていた。
中でも一番まともにずっと見捨てず向き合ってくれた、当時30歳なりたての若い男性教諭にはその分一番反抗したが、彼の丁寧で面倒見の良い指導のおかげで、私はセンター試験で数1が84点、数2で78点という高得点を叩き出すまでになった。
彼は現在、母校の校長である。

国語も、英語も、現代社会も、理科1も、何が出たとか全く記憶にない。
しかし同時に、どれもやり遂げた記憶がない。
その程度の高校生でも、初めて迎える「挫折した9月1日」の壁は高かった。
その後、教育の分野に進み、あまり長くはないのだが、ちょっとしたご縁から生きづらさを抱える子どもたちと多く接する仕事に就いた私は、自分なんかよりはるかに高い壁の前で途方に暮れるしかない子どもたちをたくさん見てきた。
世の中は30年前とは比べ物にならないくらい厳しくなり、私のような根性やら意地やらでは解決できない程、学校を取り巻く環境は複雑化かつやっかいになっている。
当時の私の青臭い根性は、今の学校環境では到底通用するとは思えない。

だからこそ今、声を上げて叫ぶ必要があるのだ。
「しんどければ、学校なんて行かなくてもいい」。

逃げていいんだ、そんなところ。
無理してその足を動かして学校に向かったとしても、おそらくいいことなんか1つもない。
それなら、無理して学校に向かうエネルギーを、反対に学校から逃げるエネルギーとして使ってみよう。
前者にはおそらく救いはない。
しかし後者には、かろうじて救いの手を差し伸べようとする人々が増えてきた。
もちろん、後者を選んだとしても、苦しい日々は続くかもしれない。
しかし、前者より少しはあなたの前途に一筋の光が差してくる可能性があるのだ。

私のなかなかまとまらない文章をここまで読んで下さったあなたには、きっと聡明な頭脳と辛抱強さがあるはずだ。
その頭脳で、とりあえず苦しい選択をやめる方向を向いてみよう。
その後はその後。
人生も、日本も、まだ少しは捨てたもんじゃなかったりするのだ。

少なくとも、こんな企画を立ち上げて広めようとしている方々がいる限り。

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