「ひろゆき論」批判(9)

 前回の文章の末尾で「え!?まだ続くの!?」と思ったひともいるだろう。不思議ではない。私もそう思っているのだから。

 文章というのは書き手の意識を超えている。あらゆる表現の媒体というのは媒体自体の力を持っている。

 媒体というのは文字、絵、音、映像などのことであって、ふつうにメディアと書けばいいのだが、その表現ではあまり通りのよくない要素も含まれるので、あえてここでは媒体と書く。

 媒体はそれ自体でメッセージを発し、そしてそれ自体で作り手の意図しない表現とメッセージを生みだす。

 であるから、ある表現をみるとき、作り手の意図というものだけを考えても仕方がない、その媒体が発しているメッセージと、その媒体が生み出してしまっている表現、作り手が媒体にいかに縛られているか、それを考えなければいけない。そのような主題が私の思考全体のなかにはある。

「ひろゆき論」の批判文を書いているとき、私はたまに息抜きで著者のことを批判したりもするが(そして「息抜きなんて軽い気持ちで他人を批判するな」というひともいるだろうが、記された批判が妥当であることは、つねに私は文章のなかで示してきたのだから、別にやってもいいかなとは思っているし、気持ちは軽いかもしれないが、批判をするための準備作業には相当な時間をかけている)、じつはもっとも重要だと思っているのは文章という媒体の問題だ。

 言葉はそれだけで論を推進する力をもっている。たとえば私は段落の頭に「だから」や「つまりは」という言葉を多用するが、その三、四文字を書いた時点で、もはやその段落で書くべきことは決定され、私は行頭に置かれた三、四文字に導かれて、ただただすでに引かれた線をなぞっているだけという、感覚に陥ることがある。

 このように書き手の無意識にはたらきかけ、論の道行を決定してしまう言葉の力に、どのようにして抵抗するか、それこそが文章を書く人間にとって、なにを書くか、どのように書くか、という問題のまえに直面するべき至上命題であって、そのことが私の意識から離れたことはない。

 であるから、私は順接の言葉の末尾にあえてアイロニーを配置し、言葉が書き手を無意識に導いてしまう結論から、なんとか距離をとろうとするのだ。

 ところで私が本当に多用しているのは、前の段落の冒頭にも置かれている「であるから」、という言葉であることは、この批判文を丹念に読んだひとにはお見通しのことかもしれない。

 書くときの態度は読むときの態度と一致する。それは必然ではないが、書き手を志す人間はそうあるべきだ、という願いとして私のなかにある。

 だから私は枝葉末節のようにみえる言葉遣いの問題をあれだけ執拗に批判するのであって、それは、著者がどれだけ誠実な人間であろうとも、それとは関係なしに文章という媒体を経ることで表出してしまう無意識のようなものを批判したい、という意図があるからだ。

 文章というのはじつは「なんだって言える」ものだと、私は考えている。

 いかに論証的にみえる文章であっても、じつはその文章が論証的にみえるということ自体が、ある制度や装置のなかで保証されることだ。私はそのような観点でもって文章を読むし、文章を書く。

 私がことこまかに、そして長々と文章を書くのは、私が制度に登録された人間ではないからであるし、ネット上で書く文章というのは、そもそもそのような制度や装置への回収可能性が薄いものだと思っているからだ。

 制度から離れていること。それには良い面もあるし、悪い面もある。良い面。とにもかくにも自由に文章を書ける。悪い面。自由度が高すぎる。あまりにも大きな自由は書き手の問題意識を曖昧にしてしまうし、書き手から自制を奪う機能も持つ。

 であるから、私がネットである程度まとまった文章を書くとき、書き手としての生命を賭けると自分に言い聞かせて書くわけで、逆に書き手を志望する人間の文章を読むとき、文字面でなんと言おうと、その覚悟がみえない文章には退屈しか感じないのだ。

 その覚悟というのは、つまりは書き手としての自分と読みてとしての自分を分離し、書き手としての自分に対して、読み手としての自分を立て、その視点から書き手としての自分に対して常に刃をつきたてる、というものであって、多分に自己破壊的なものである。

 そのような覚悟を他人に求めることは、どうやら、このご時世ではある種の暴力として認知されるようだが、所詮物書きという人種など、そのような突飛な覚悟をひとに示していくことでしか、自身の存在価値を世間に説明する手段はないと思っているので、同じ書き手を志す人間に対して、私はそのことを求めることをやめないのである。

 覚悟が伝わらなければ、そもそも文章など、読まれない。内容の良し悪しは二の次だ。まず伝えるためにこそ、覚悟を示さなければならない。

 さていろいろと書いたのは、つまりはこの批判文もまた私の覚悟のひとつの表現形式であって、文章の内容が伝わっているかは置いておくとして(いや、頑張って書いたので読んで考えてはほしいのだが)、稿を重ねるにつれ、文章が開かれる数というのは増えているので、ひとまず最低限の目標は達成したと考えている。ほんとうに最低限の最低限だが。

 そもそも内容に自信がなければ、そもそも文章など公開しないわけであって、これだけ手間をかけて文章を書いている以上、いちど読まれればある程度、問題の所在は読者に伝わると考えている。

 むろん、読者が私の主張のすべてに納得することはないだろうし、私もそんなことは求めてはいない。

 しかし、問題がない、あるいは、くだらない、と判断された文章をとりあげて、そこに状況の問題を折り込み、ひとまず後続および外部の読者がその文章を生産的に読めるようにする、という作業意図は、最後まで読んでくれたひとにはあるていど伝わっているはずだ。私はそう信じている。

 そのようにして、世界に放られた文章のなかに入り込み、その内在的論理を逐一点検し、ときにはその文章を切り刻むかのように各所の綻びを批判し、次の読者にその文章を読むさいの導きを提示する。

 私はその試みこそが、人文知の衝動だと考えている。だから、私は自分がやっていることこそが人文知であると認識してやまないのであるが、それはひとまずの私の意見であって、その認識の妥当性についてはまた読者ひとりひとりに判断していただきたい。

 しかしそのように認識しているということもまた表明しなければ、誰にも検討してもらえないのである。

 ながながと導入を置いたのは、今回とりあげる節が「ひろゆき論」の最後に位置するものであって、さしあたり元文章にあたっての批判というものは、今回で最後になるからだ。

 名残惜しい、と思っているはずもないのだが、すくなくとも今回の分を書き終えれば、私はこういうものを書きました、というふうにひとつのセットにして紹介ができるので、すこし気合ははいる。

 では、はじめよう。

§ 「ひろゆき論」第8節の批判

「ひろゆき論」の第8節は、この文章全体の締めである。なのでこれまで以上に丁寧に読んでいかなければならない。

 85段落。「元来、プログラミング思考を追い求めていけば、いわゆるシステム思考に行き着くはずであり、そこではシステム論的な複雑さ、つまりさまざまな要素から成るシステム全体の複雑さをどう制御するかという点が眼目になってくるはずだ」。

「プログラミング思考」という言葉は、この節の直前には登場しない。もっとも距離が近いのは、第6節であるが、そこでも、その言葉が主題になっているわけではないので、それが主題になっている文章となれば第2節まで遡らなければならない。

 そしてその文章を解説した批判からもすでに7回分の懸隔が存在するため、ここでもういちど、著者が「プログラミング思考」という言葉でなにをいっていたかを確認してみよう。

 しかし著者は「プログラミング思考」という言葉を明確に定義づけているわけではない。それでもその能力について筆者が自身の意見を開陳している箇所となれば、第11段落となるだろう。全文を引こう。

「そうした能力とは、『論理的思考力、創造性、問題解決能力』などだが、より具体的には、『情報整理術、俯瞰で物事を見る目、相手に合わせて指示するやり方、物事を効率化する方法、数値化する力、優先順位を見極めること、仮説を立てる癖、論破力、シミュレーション力、仕事を熟練させる方法、アイデアを形にする能力、模倣するショートカット術』などだという(文献10)」

 ちなみにこの文章は第2回でとりあげたが、それ以前の文章の出典を確認しているなかで、著者のあまりに自由自在な引用のスタイルに辟易としていた私は、この文章の出典確認について「だからといって私が探すわけではない」といって、確認作業をサボっていた。

 まさか7回も稿をまたいで、またここに戻るとは思わなかったが、出会ってしまったので、いちおう確認しておこう。

「文献10」として指示されているのは、2022年にSBクリエイティブから出版されたひろゆき氏の著作『プログラマーは世界をどう見ているか』である。

 まず「論理的思考力、創造性、問題解決能力」。この言葉は「はじめに」の「プログラミングをすることで得られる能力」という節の冒頭に登場する。その箇所以外には登場しないので、その節からの引用で確定である。引いておこう。

「日本では、2020年からプログラミング教育が必修化されましたが、プログラミングのスキルを身につけるだけではなく、その学習を通して、論理的思考力、創造性、問題解決能力を育成する側面にも注目していると、文部科学省はいっています」

 とあり、さきほど書いたとおり、この三要素の並記は、ここに引いた部分以外ではあらわれないので、それをひろゆき氏の言葉であるかのように引くのはいささかミスリーディングだ。

 ひろゆき氏が紹介しているように、文部科学省の見解資料から言葉をひくか、ひろゆき氏が文部科学省の意見を紹介している、という文脈を補足すべきだ。

 さて、各省庁の発表資料のインターネット公開はすすんでいる。

 文部科学省のサイトで検索をしてみると、この言葉は、2016年6月3日に行われた「小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議(第3回)」の配布資料のなかに登場することがわかる。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/122/attach/1371784.htm

 横道にそれてしまうが、言及することになった以上、その文章も読んでみようと思い、実際に読んだところ(そんなに長くはない)、この文章はさまざまな意見に配慮して構成されたきめ細やかな文章であることがわかった。

 そも初等・中等教育に特別な関心をもっていたので、これを機に日本のプログラミング教育の進展と現状を調べてみようかとも思いたった。

 なによりも私はいま小学生・中学生が受けているという、プログラミング教育についてなにも知らない。職業プログラマーの倫理として、その教育に関してもなにかが意見できるようになるための勉強の必要性を感じた。

 ところで、ひさしぶりにこういうイヤミをいうのだが、「ひろゆき論」の著者は、ひろゆき氏がわざわざ文部科学省の見解であると記している三要素については、深掘りの必要も感じなかったようであるし、それが文部科学省の文章にあらわれることも著者は紹介する必要性を感じなかったようだ。

 WEB公開にあたり「増補改訂」がなされたうえでも、その補足はされていないので、読者としては著者がそう考えたのだと思わざるをえない。

 つぎに「情報整理術、俯瞰で物事を見る目、相手に合わせて指示するやり方、物事を効率化する方法、数値化する力、優先順位を見極めること、仮説を立てる癖、論破力、シミュレーション力、仕事を熟練させる方法、アイデアを形にする能力、模倣するショートカット術」というながながとした部分である。

 この文章は書物の本文の言葉としては、いささか破綻している。そのためこちらもまた表紙や帯文から引かれた言葉かと思った(なにをいっているんだ、と思うひとは第3回の批判を読んでいただきたい)。

 しかしこの文は本文のなかに置かれていた。それは『プログラマーは世界をどう見ているか』の「はじめに」の「プログラミングをすることで得られる能力」という節の終わりのほうにあらわれる。

 なぜそのような文章が本文のなかにあらわれているのか。それは役割の問題であって、その文章の全体をみればわかる。

「本書では、プログラミングを身につけることで副産物的に得られたり気づけたりする能力、具体的には、情報整理術、俯瞰で物事を見る目、相手に合わせて指示するやり方、物事を効率化する方法、数値化する力、優先順位を見極めること、仮説を立てる癖、論破力、シミュレーション力、仕事を熟練させる方法、アイデアを形にする能力、模倣するショートカット術などについても、言及していきます」。

 そう。この文章はその本でとりあげられる内容を列挙して紹介する箇所にあらわれる。研究書のはじめの章の末尾で、その本の章構成が紹介されるような部分にあたる文章なのだ。であるから、このような列挙形式の文章となっている。

 ところで、アカデミックな文章作成のスタイルにおいて、そのような書物の構成が紹介されている列挙部を、その書物を記した著者の言葉として引くことは一般的なのだろうか。原理的には可能だろうが、それをするべきかいなか、という問題については、私にはなにもわからない。

 さらに、「ひろゆき論」本文とこの批判文をならべて読んでくれているひとにはわかるだろうが、この文章が引かれている段落の前にも、もとの文章の要素が登場している。

 すなわち10段落にある「『プログラミングを身につけることで副産物的に得られ』る能力が」という部分のことだが、著者はあたかも自身の目で、

「副産物的に得られる能力」→「その能力の列挙」

という流れを、要約したかのようにみせかけているのだが、それはひろゆき氏が自身の著作を紹介するために記した文章から意図的に一部を欠落させることによって作られたものであり、このような引用を行ったうえで出典を細かく明記しないという態度は、アンフェアといわざるをえない。

 つまりは丸パクリじゃないか、という話であるし、丸パクリするにしてもパクる場所は選べよ、という話であるし、出典は細かく明示せよという話である。

 さて、なんのはなしだったかといえば、「ひろゆき論」最終節のはじめの段落を読むにあたり「プログラミング思考」という言葉が登場したので、あらためてその能力について著者がどのように書いているかを確認しようとしたのだ。

 しかし、結局のところ、なにが書かれているかのかはよくわからなかった。

 そして「文献10」すなわち『プログラマーは世界をどう見ているか』という書物は、「ひろゆき論」のなかでは一度しか引かれておらず、そしてそこで引かれた文章も「はじめに」という冒頭の章からのみであるので、あいもかわらず不誠実だと思わざるをえないのだ。

 今回の文章の読解に戻ろう。そのような「プログラミング思考」を追い求めていけば、「いわゆるシステム思考に行き着くはずで」あるそうだ。

 このあとにつづく「システム思考」の性質記述からみて、ここで著者が念頭においているのは、ジェイ・フォスターによる『システム・シンキング――問題解決と意思決定を図解で行う論理的思考技術(日本能率協会マネジメントセンター)』における、「システム思考(というか元の文章では「システム・シンキング」)」のことだと思われる。

 しかし、当書を読み、そして職業プログラマーであるところの私からすれば、その「プログラミング思考」とやらの必然的な発展形態として「システム・シンキング」があるといわれると疑問を感じざるをえない。

 システムという言葉でそのふたつは共約できるが、それはたんに「システム」という4文字の言葉が共通しているだけであって、プログラミングが向かいあう「システム」と、「システム・シンキング」における「システム」とは内実も背負った歴史的な文脈が異なる。

 そのふたつが共通しているというのはひとつの主張としてはありうるが、論証が行われるべき事柄であり、そのような論証が行われていないのであれば、多少読みがいはあるのだが、それもないので、著者による感想か、それとも「システム」という4文字にひかれて筆が滑っただけなのかは「ひろゆき論」という文章を読むだけでは判断できない。

 ちなみに私は、この批判を書くにあたって「ひろゆき論」の著者が書いたものを可能な限り入手して読んだのだが、そのような論証が行われている箇所は見つけられなかった。

 なので、著者がこのことを論証済みの事柄として認知しているという可能性はないと、いまのところは思われる。だからただ感想を記しただけか、筆が滑ったのではないかと思う。

 さて読者のかたも薄々お気づきだろうが、ことここにいたり、私はただひとつの段落を吟味するために8000字近くをすでに投じており、そしてまだその段落の半分すら読めていないのである。

 これはこの批判文のなかでももっとも遅いペースであり、そのことに私自身も驚いているし、とうとう最後の節かと思ってここまで読んでいる読者もおなじく驚いているのではないかと思う。

 前回の末文と、今回の冒頭の文章からもわかるとおり、私は最後の節の批判をさっさと終わらせて、また別のことをこの批判文の枠組みのなかではじめようと考えていた。

 しかし、ここまでの文章量から考えて、そのスタートを今回切るのは難しそうなので、次回以降に譲ろうと思う。まずは8節の批判を終わらせよう。

 85段落の末文に飛ぼう。というのも中身がすかすかだからだ。

 正直この「ひろゆき論」の全体の文書が段落の末文だけを読めば、だいたい言いたいことはわかるのだけれど、その言いたいことというのもえらくスカスカなので、初読のときにも私は驚いたのだ。

「しかし彼の思考はそうした発展性を持つものではなく、あくまでも未熟なレベルに留まっている」

「プログラミング思考」の必然的発展形態が「システム思考」であることは、はたして既知の前提とされ、ひろゆき氏の思考にはそのような発展性を欠いており未熟である、らしい。

 感想から転じた文章なので真面目に読む必要はないが、この文章の構造を覚えておくと、すぐあとの段落で下手なリフレインが行われていることに気づけるだろう。ちなみに下手なリフレインは行わないほうがいい。

 ところで、著者の書きぶりでは「プログラミング思考」の必然的発展形態が「システム思考」ということになっていた。

 ではそれが「必然的」発展形態であるのであれば、ひろゆき氏の思考にその発展性が欠けていることを筆者はどのような枠組みで説明するのか。

 たとえば「プログラミング思考はシステム思考に『なりうる』」と書けば、そのような図式は簡単に整理できる。

 プログラミング思考のなかにはシステム思考の萌芽が含まれる。そしてその芽を芽吹かせるか否かは、その知の担い手の努力次第だ。

 この図式を使えばひろゆき氏の思考にその発展性が欠如している、という主張はしやすい。事実問題がどうであれだ。

 しかし著者は「プログラミング思考を追い求めていけば、いわゆるシステム思考に行き着くはずであり」と書く。

 それは可能性の図式とは違う。何度も書く通り必然的発展の図式だ。そのふたつは明らかに異なる。

 では、著者はそのような矛盾についてどのように考えるのだろうか。私が思うになにも考えていないと思う。つまり著者はこの矛盾を矛盾だとは考えていない。

 それはその矛盾を解消するような論証がすでに著者によって行われているからではなく(その論証がないことはすでに確認した)、著者が原理的に異なるふたつの感想を抱いていて、その和合を試みることなく、あくまで感想の論理で文章を記してしまっているからだ。

 これが冒頭に記した文章の力(あるいは魔力であり)、その力に著者が自覚的でないために、完全に矛盾する言葉を、ひとつの段落の距離すら隔てることなく書いてしまうのだ。

 このような言葉の力に駆動されて著者が書かされてしまった矛盾を指摘することは、思想や哲学の世界では「脱構築」、あるいはそのような観点でもって文章を読むことは「脱構築的読解」と呼ばれる。

 そしてなぜそのような試みが必要なのかといえば、そのような脱構築が要されるようなポイントにこそ、文章が書き手と読者を支配するときの無意識の論理があらわれるからだ。

 どういうことか。「ひろゆき論」の全体の観察から得られた知見は、

(1)まず著者はひろゆき氏の著作をまともに読んでいない、そして読む気すらない。これはさんざん指摘してきた引用の不備にあらわれている。

(2)にもかかわず、著者はひろゆき氏を批判したいと思っている。それは論証を欠いたネガティブイメージの批判対象への付加という身振りにみてとれる。

(3) (1)と(2)のあいだに葛藤がある。著者はひろゆき氏に向かいあいたくはない。しかしひろゆき氏を批判したい。そのため著者はある装置を作る。つまりは「支持者」である。

 著者のいう「支持者」には顔がない。著者はそれを複数の蔑称でしか指示できない。その蔑称を実際に世間で向けられている人間がいることなど著者にとっては関係がない。

 なぜなら著者はそもそも具体的な他人の顔(この文章の場合はひろゆき氏の顔)から眼を背けるためにこそ、空虚な指示語としての蔑称に逃れたのだから。

 なお、この点をより深読みするのであれば、方法論的難しさとは別の問題として、著者がひろゆき氏のインターネット生配信についてまったく言及しないことの意味も考えることができるだろう。つまりは精神分析的な問題だ。

 さて、私はこの批判文で「ひろゆき論」にあらわれた言葉の差別性について、いくどとなく注意を喚起してきた。しかし、私は著者を「差別主義者」ということはなかった。むしろそう書ければ簡単だった。

 しかし、この文章をはじめて読んだときに私が感じたのは、経験的他者に対する先鋭化した攻撃性と、その言葉があまりにも淡々と記されているところにあらわている無邪気さ、という矛盾だった。

 それはとても居心地の悪い経験だったし、この批判文の構成を複雑にもした。

 つまり、私はなんどとなく著者に対してイヤミをいってきたし、別にそのすべてが本心からではないという気もさらさらないのだが、にもかかわらず、第1回の文章を知人から「抑制的すぎる」といわれるほど冷たいトーンで記したのは、じつはつぎのような理由による。

 つまり、私は、この著者は自身が無法な文章作成をしていることも、そしてそのなかで経験的な他者への配慮を失い、ただひたすらに差別的な志向をもつ文章を連ねていることも、なにもかもわかってはいないし、そしてどれだけこちらが言葉を重ねても、そのことが伝わることはないのではないか、とはじめから感じていたのだ。

 それは私がこの著者に対してなんらかの偏見を抱いているからでは(多分)ない。なにしろ「ひろゆき論」を読むまで、私は著者のことを知らなかった。私は「ひろゆき論」という文章でしか、この著者に触れあっていない。

 そしてその文章を読んだときに私が感じたのは、さっきとは別の言い方でいえば、私がなんだかんだいってその文章が読めてしまうということと、どれだけ破綻した文章であっても、そこで著者がやろうとしていることがわかってしまうということと、そしてにもかかわらず私は決定的にこの文章に同意できないということの葛藤であった。

 私はこの文章を読めるし、しかし、読めないのだ。

 そこには私が親しんできた言葉と似たなにかはあるのだが、その背後にある意志というものが、これまで私が親しんできたものとは決定的に違う。

 つまり私は「ひろゆき論」を読むことで、フロイトのいう「不気味なもの」に出会ってしまったのであり、私が言葉を尽くして批判したかったのは、著者ではなく、その「不気味なもの」なのだ。

 その「不気味なもの」を討つためには、今回とりあげた段落にあらわれるような文章全体における決定的な矛盾が登場するのを待たねばならなかったし、その矛盾の決定的さを明らかにするべく、それまでの文章の道行を逐次明らかにするしかなかった。

 むろん第1回から書いていたように、そのような形式にからめとられてしまったことは、私にとって決定的な失敗としてある。

 脱構築的読解という方法をとった時点で、文章量の爆発的増大は予約されており、そもそも読者の数は限定されるのであるから、よりジャーナリスティックに、より扇動的に「ひろゆき論」の欠如をあげつらうべきであったし、実際数少ない「ひろゆき論」批判はその形式をとっている。

 しかし、私はそれをしたくなかったし、それをしたくなかったのは、私が親しんだ言葉の形式が不気味なものに転じたときに、そもそも私はそんな言葉に親しんだことはなかったと、自分を騙しとおせるくらいには器用ではなかったからだ。

 つまり、この批判文のこれまでは、じつはジャーナリスティックなものではなく、実存的な文章作成作業であった。

 私が前回方針転換を予告したのは、この実存的な作業というのをそろそろやめないといけないと感じたからであるし、その作業に弄していてはこの文章が持つ、より具体的な効果に対する批判を貫徹できないと感じたからだ。

 そう。なので私は次回からまったく違うことを始める。ゆえに、逐次的な文章批判作業はもうそろそろ終わりにしなければならない。

 あらためて書くならば、今回の冒頭で私があのようなことを記したのは、ぼんやりと制度や装置に依存し流通している言葉が、いつしか現実の他者との接点を失い、敵は敵、味方は味方、という原始的な友敵分割を強化するための道具へと変貌してまう、ということをあくまで著者の意図からは離れた場所で示したいという思いがあったからだ。

 私には著者がひろゆき氏の言葉として記した蔑称の数々に不幸にも紐づけられてしまった現実の友人たちと家族たちがいる。

 であるから、私は「ひろゆき論」の内容以前に、その形式を受け入れることができない。

 にもかかわらず、私は人文的と読まれる文章を読み漁ってきたから、このような形式が「ありうる」ということもわかる。

 その葛藤がまず私に「ひろゆき論」の批判を書かせた。しかし、ひとまずの作業を終えなければならない。速度をあげよう。

 86段落。末文に注目せよ。

「しかし彼の知はそうした総合性を持つものではなく、単純で生半可な、それゆえに安手のレベルに留まっている」

 これは85段落の末文のリフレインだ。その前に連ねられた文章には、85段落の読解で示した決定的矛盾の別の版があらわれている。

 そのためこのリフレインは必然だ。しかし、その矛盾を私の手で分析することはしない。もう十分だと思うからだ。これを読むひとに任せる。

 87段落。矛盾と矛盾が総合されると、当然のことながら、矛盾が露出する。それがどのような矛盾か。それを私の眼で分析することはしない。もう十分だと思うからだ。これを読むひとに任せる。

 88段落。矛盾の弁証法のさきに示されるのは、未来への道筋ではなく、ただただぬかるんだ現在である。

 みながこの文章を結論として読む。ただそれは結論ではなく、この文章が書かれた起源である。

 その起源とはどのようなものか。それはこれまでの文章で十分に示してきた。これ以上、私の心で分析することはしない。考えるバトンはこれを読むひとに託した。私は別のことをはじめる。

 突然ながら、以上で「ひろゆき論」批判の第一部を終える。

 ここまで読んでいただいた方に感謝する。

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