「ひろゆき論」批判(7)

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 先日、生放送プラットフォーム「シラス」で作家の飲茶氏がもっているチャンネルの番組にゲスト出演させていただいた。

 当初は「飲茶さんと話すなら『刃牙』と『DEATH STRANDING』の話かな~」と思っていたのだが、放送前に飲茶氏がこの文書を読んでくれていて、番組ではおおむね、この文章の内容と、この文章を書くにあたって私が考えていることを飲茶氏とともにお話することになった。

 興味のある方は観てほしい。
 https://shirasu.io/t/yam/c/yamcha/p/230320

 そこで「ああそういうふうに誤解されることがあるのか」と思ったので、この文章でもありうる誤解にはさきに答えておこうと思う。

 飲茶氏から、私はかなり神経質に出典や論の運びを気にする人なのかと思った、と言われたのだが、じつはそんなことはまったくない。

 私がふだん文章を読むときに、この批判文で行っているような、ちくちくとした出典確認や、論旨の整理をやっているわけではない。

 そんなことをやっていたら、いくら時間があっても足りない。ふだんはもっとぼやんと文章を読んでいる。

 ではなぜ私は「ひろゆき論」に対して、そんな読みを行っているのか。その理由は各批判文のなかで、小出しにはしていたのだが、ここでまとめて書いておこう。

 私が「ひろゆき論」に対して批判を行っているのは以下の理由による。
(1)「ひろゆき論」に対する批判が存在しない
(2)「ひろゆき論」は業界関係者におおむね好評である
(3)にもかかわらず「ひろゆき論」には文章として大きな瑕疵がある
(4)単に文章としてダメなだけならいいのだが、そのダメさが他者への攻撃性にも転じている
(5)そのような文章がたんにネットに掲載されているのなら、また何もいわないのだが、もとの原稿は権威のある雑誌に掲載され、その版元が運営するサイトに「増補改訂」され転載されている

 であるから、あえて私は徹底的に細かく文章を批判することにした。ぼんやりとした批判では、そのような状況に抵抗することができないと考えたからだ。

「ひろゆき論」の土俵で戦っても仕方がない。「ひろゆき論」はすでに業界内で一定の評価を得ている。私は業界的にはアウトサイダーにすぎない。

 であるならば、アウトサイダーでもできる方法で批判しなければならない。そしてアウトサイダーでも理解できるような方法で批判しなければならない。

 それが逐語的な批判を選んだ理由だ。むろんそうすれば文章の量ははねあがる。読者の数は限定される。

 それでも業界の力学などとは関係なしに、この文章の問題を業界の外に伝えるためには、このような方法しかないと思った。

 むろんほかにもうまいやり方はあるのだろう。ただ私にはこれしか思いつかなかった。だから愚かなことをしている、と思って笑ってもらってもかまわない。

 ちなみに、私はひろゆき氏を擁護したいわけでもない。というか批判も擁護もしたくない。

 それでもこの文章で私がひろゆき氏を擁護しているように見えるならば、それはひとえに「ひろゆき論」があまりにレベルの低い文章であるからだ。

 ひろゆき氏を批判するにしても、擁護するにしても、ひろゆき氏は言論人ではないし(そう思われてはいるのだろうが)、その著作も基本的にはハウツーや人生論的なものであって、言論の舞台にあげるのにはそれなりの手続きが必要だ。

 そのような手続きが「ひろゆき論」で行われていたら、その主張の良し悪しにかかわらず、私は評価しただろう。

 しかし私が「ひろゆき論」を批判しているのは、そのような手続きを無視し、「俗情との結託」を行い、適当な文章を書き、あまつさえそのなかで攻撃的な表現を用いて、そして業界関係者がそれを好意的にとりあげているからだ。

 まあ、つまりそういうことである。

 今回は飲茶氏から直接、この文章を読んでの感想を聞けたので、ありうる誤解というものに気づけたのだが、よくよく考えるとこの文章はそんなに読まれていない。

「ひろゆき論」の方は快調であって、肯定的評価は積み重なっている。まあ評価が行われているのも、500人以下のめちゃくちゃ狭い業界のなかではあるのだが。

 しかし、その業界というのも出版関係者やアカデミシャンというのがひしめいているので、「ひろゆき論」が評価されると、新聞から依頼がきたりするのだろうし、また原稿の依頼が行われたりするのかもしれない。

 そしておおむねお小遣い程度ではあるが、そこでは原稿料がでるし、新聞とか雑誌に文章が載れば、また業界内で評価されるというループが続くのである。

 東京の片隅で、燃えるゴミへと転じそうな瀬戸際で、たんに別の仕事で稼いだお金を使って本を買い、雑誌を作り、文章を書いている人間からすると、そういうサイクルを羨ましく思わないかといえば、嘘になる。

 とはいえ、適当な文章を書いて、毛づくろい的に評価される世界なんてものにいたら、早晩発狂することも目に見えているので、その世界に入ることもできないんだろうなあ、とも思っている。

 なんだか損な性格をしているなあとも思うのだが、まあ私は私であるから仕方がないし、うだうだ言ってても仕方がないので、前に進むしかないのである。というわけで、本論に移ろう。

§ 「ひろゆき論」第6節の批判

 今回はすこし気が楽だ。なぜかというと6節は短いからだ。

「ひろゆき論」の第6節は「情報強者の立場からのポピュリズム」と題されている。

 62段落。「こうしたひろゆきの振る舞い方は、弱者の味方をして権威に反発することで喝采を得ようとするという点で、多分にポピュリズム的な性格を持つものだ」。

「こうしたひろゆきの振る舞い方」は前段の文章とはあまりつながりがよくない。

 61段落の「階級闘争」云々という部分がそこにあたると読むとおさまりが悪いので、60段落の「強者の論理」云々という部分がひかれていると思うのが妥当だろう。

 つづく文章。「しかもリベラル派のメディアや知識人など、とりわけ知的権威と見なされている立場に強く反発するという点で、ポピュリズムに特有の、反知性主義的な傾向を持つものでもあると言えるだろう」。

「リベラル派のメディアや知識人」が「知的権威」とみなされているというのに対しては、なんともいえない思いがある。私はそう思ってはいるが、それは私がやたらとその領域の文章を読んでいるからであって、ひろゆき氏はそう思ってはいないのではないか。

 それは読者の判断にまかせるが「強く反発」はしていないと思う。たんに笑われているわけだ。その笑いを「冷笑」というのは勝手だが、そのように笑われるのには、ある程度理由があるのではないか。

 たとえば、ひろゆき氏の出演しているネットニュース番組「ABEMA Prime」などで、いわゆる「リベラル派のメディアや知識人」というひとたちが、ひろゆき氏と話しているのをみてると、失望しか感じない。

 立ち回りが下手だからだ。説明も下手だし、それですこしひろゆき氏につつかれると、すぐに黙ってしまう。すこし反論してもすぐにつぶされてしまう。

 本当に専門家であるのなら、反論のカードは無限に用意しておくべきだ。そして自分が信じていることを通したいのであれば、あらゆる手練手管を使って、議論の場では勝たなければいけない。

 あの番組に出ている「リベラル派のメディアや知識人」というひとたちにはそのような切迫感を感じない。ちなみに私のようにどの業界にも守られていない書き手は、つねにそのような切迫感を感じている。

 それで議論の場では勝つための努力をしていないわりには、その裏ではぐちぐちと陰口をいったり、「ひろゆき論」のような適当な文章を業界内同人誌のようなものに載せて(ちなみに私は『世界』はそうであってほしくないとは思ってる)、それを業界のなかで互いに褒めたりしている。

 つまりなにがいいたいかというと、ひろゆき氏から笑われても仕方がないのではないか。

 であるから、この段落には筆者のルサンチマンしか感じないのであって、そのルサンチマンをもとに文章を進めているので、あまり真面目に受けとる必要を感じない。

 しかしこの節はこの文章からはじまるので、とりあげないわけにもいかなく、とりあげるとしたらこのように言うしかないのだ。だから私はこれ以降の段落を、ひろゆき氏の分析というより、たんに筆者のルサンチマンの表出として読む。

 63段落。「実際、彼のライフハックはその自己改造論にしても社会批判論にしても、自己や社会の複雑さに目を向けることのない、安直で大雑把なものであり、知的な誠実さとは縁遠いものだ」。

「ライフハック」「自己改造論」云々のあやふやさについては以前の文章で触れたので、ここでは触れない。

 しかし以前の文章で、筆者がひろゆき氏の著作から悪質なパッチワーク的引用をおこない、社会的には蔑称として扱われる言葉を、ひろゆき氏がなんの配慮もなしに使っているかのように印象操作を行っていることを指摘した私としては、「自己や社会の複雑さに目を向けることのない、安直で大雑把なものであり、知的な誠実さとは縁遠い」のは筆者自身であると書かざるをえない。

 64段落。「しかしその支持者には、彼はむしろ知的な人物として捉えられているのではないだろうか」。「ひろゆき論」が好評である状況と、これまでの批判の内容を知っている私としては、この文章は筆者の自己解説のように読めてしまい、失笑を禁じえない。

 つづき。「というのも彼の反知性主義は、知性に対して反知性をぶつけようとするものではなく、従来の知性に対して新種の知性、すなわちプログラミング思考をぶつけようとするものだからだ」。

「プログラミング思考」というものの実体は、この文章ではまったく解説されていないのだが、ここでさらなる飛翔を遂げている。「新種の知性」らしい。もう知らん。

 65段落。「そこでは歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知に対して、いわば安手の情報知がぶつけられる」。「プログラミング思考」というのがなんなのかは、はたしてわからないのだが、「安手の情報知」とかいうのはよくない。

 というのも限定が行われていないからだ。この言葉には職業として情報産業に関わっているひと、情報工学に関わっているひと、などなどいろいろな人が、自分のたずさわっている知が批判されているのだと考える可能性がある。

「いや、それは私の意図ではないのだ」といいたいのであれば、限定を行うべきである。批判対象の適切な限定を行わないのであれば、そのような言い訳をする権利はない。

「ネットでの手軽なコミュニケーションを介した情報収集能力、情報処理能力、情報操作能力ばかりが重視され、情報の扱いに長(た)けた者であることが強調される」。

 これまたここまで散々「ひろゆき論」の瑕疵を指摘してきた私からすると、著者の自己解説のように読めてしまい、失笑を禁じえない。

 著者は引用のようなスタイルで、基本的には本の表紙に書かれた言葉や帯文、そして節や章の名前を自由自在に引いているし、本文の文章を引用すると途端に表記を誤る。

 そして意図的かそうでないかはわからないが、ひろゆき氏の著作の文章はほとんど読めていないし、論旨も追えていない。そのうえでてんで間違った要約を行っているのだから、著者の知こそ「安手」ではないのだろうか。

 あと紙版からWEB版に転載したさいのミスだろうが、ルビ指定がそのまま残っている。編集者の方はこの文章を読んだらこっそり修正しておいてほしい。それともこれも文章の味なのだろうか。

 66段落。「そうして彼は自らを、いわば『情報強者』として誇示する一方で、旧来の権威を『情報弱者』、いわゆる『情弱(じょうじゃく)』に類する存在のように位置付ける。」。

 そのとおりなのではないか。著者が「情弱」といわれるひとかはしらない。しかし「ひろゆき論」だけをみると、その知は「安手」にみえる。

 その疑念を払拭したいのであれば、しっかりとした文章を書けばよかったのだ。この文章は雑誌に掲載され、そのうえでWEBにも転載されたので、もう遅い。

 信頼というのは一瞬で失われる。物書きの世界に限らず、社会とはそういうものだ。とはいえ「ひろゆき論」はおおむね好評でもって業界に受け入れられているので、社会というのはわからないものだ、と思う。

 あとルビ指定がそのまま残っている。編集者の方はこの文章を読んだらこっそり修正しておいてほしい。それともこれも文章の味なのだろうか。この繰り返しはミスではなく、文章の味である。

 そのあとに、であるから、ひろゆき氏は権威に対して優越感を持つのだ、ということが書かれているのだが、これだけぐだぐだな文章を書いていたり、それを評価している人間に対しては、誰だって優越感は持つものだ。

 私の好きなラッパーのNORIKIYO氏の「2Face」という曲の歌詞を引けば「下見りゃ下 上にゃ上がある」ということである。下を見るとおおむね奈落が広がっているものだが、そこに人がいたりすると、すこし安心する。

 67段落。「このように彼のポピュリズムは、『情報強者』という立場を織り込むことで従来のヒエラルヒーを転倒させ、支持者の喝采を調達することに成功している」。

 もし「ひろゆき論」のような文章がその「従来のヒエラルヒー」というものを構成しているのであれば、それは転倒してもらいたいし、適当なことを書いている人間が偉そうにしている状況が転倒されるのであれば、それは誰でも喝采するのではないか。

 そして、筆者がここで書いているような、ひろゆき氏の行動は「ポピュリズムの危険性を増幅させかねない」らしいのだが、この批判文ではなんども書いたことだが、だらだらと根拠も強度もない文章が続いているので、この締めが妥当なのかどうかを判断する水準には至っておらず、ただただちゃんとしろ、と言いたい。

 ここまで読んでいただいた方に感謝する。

次回→https://note.com/illbouze_/n/n9fec9f869c92

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