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『教養』という宗教

 結局のところ、教養ってなんでしょうか。世の中には、教養主義であったり多面的なものの見方であったり、実体のよく掴めない言葉が跋扈しています。少しだけ、よく考えてみることにします。

辞書を引いてみよう

 言葉について調べるとき、もちろん辞書を引くでしょう。以下、抜粋です。コトバンクには頭が上がりません。

きょう‐よう ケウヤウ【教養】〘名〙
① (━する) 教え育てること。教育。
② 学問、知識などによって養われた品位。教育、勉学などによって蓄えられた能力、知識。文化に関する広い知識。

精選版 日本国語大辞典

教養 きょうよう culture
精神文化一般に対する理解と知識をもち,人間的諸能力が全体的,調和的に発達している状態。教養の内容は,その所有者が存在する社会の文化によって異なる。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

 自分でも手許テモトの辞書を引いてみました。

きょう-よう キヤウヨウ 【教養】
②単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる。「人文主義的-」

広辞苑 第四版

 基本的にどの文献を調べても、教養という言葉が英語やフランス語のcultureという単語から来ていると書かれています。では、cultureとは。

cul-ture /'kʌltʃə||-ər/n
1 ▷IN A SOCIETY◁ [C, U] the ideas, beliefs, and customs that are shared and accepted by people in a society.
~~~~~
3 ▷IN A GROUP◁ [C, U] the attitudes and beliefs about something that are shared by a particular organization.
~~~~~
4 ▷ART/MUSIC/LITERATURE ETC◁ [U]  activities that are related to art, music, literature etc.
~~~~~

LONGMAN CONTEMPORARY ENGLISH

 このcultureという単語が「耕作」を意味する語彙に由来していることは言わずと知れた豆知識かもしれませんが、本筋からは外れますので放置しておきます。

 これまでの4つの辞書を見比べてみるだけでも、だいたい世間では教養がどのように捉えられているのか、わかってきそうです。

 つまり、教養とは、特定のコンテクストにおける文化的理想(たとえば芸術や音楽、文学といったもの)が秩序立って総合的に身についていることを意味しているようです。って言っても、やっぱりちょっとよくわかりませんでした。


「教養を身につけよう」 でも、どうやって?

 やっぱり、教養って、よくわからない。それでは、「教養」という言葉がどのような文脈で使われているのか、教養を身につけるためにまず何をするかを考えてみましょう。

多分違うargument

 このargumentは多分違います。

 いや、もしかしたら違わないかもしれません。知識がない人のことを「教養がある」とは、少し言い難いですよね。教養という状態は、何かしらの知識を有していることを前提としていてもおかしい話ではありません。

 どんな知識? 東京大学の入学式で、前期教養課程の意義について、教養学部長が次のような式辞を述べていました。

以前、私は、クラスの学生を集めて面談をしたことがあります。
その際に、「将来どの学科に進学し、そのあとどうしたいと思っているのか?」という、未来の自分の姿を語ってもらいました。
まだ、入学直後の学生たちでしたが、私が感じたのは、自分の将来を具体的に語るのに必要なボキャブラリーが残念ながら不足しているということです。
少なくとも、一年後の進学選択までには、自分がなりたい姿、敢えて言えば「夢」でしょうか、それを具体的に活き活きと語ってほしいと思っています。
その意味では、前期課程を、「自分の夢を語るためのボキャブラリーを育む時間」にしていただきたいと思います。

初代学部長の矢内原忠雄先生は教養学部前期課程の理念について、「ここで部分的専門的な知識の基礎である一般教養を身につけ、人間として偏らない知識をもち、 またどこまでも伸びていく真理探求の精神を植え付けなければならない。その精神こそ教養学部の生命である」と述べています。

令和6年度東京大学学部入学式 教養学部長式辞

 ここで、「人間として偏らない知識」と語られているのは、文字通りのヒトのことでないのは明らかでしょう。では、夢を語るのに足りる語彙、人間として偏らない知識とはどのようなものでしょうか。

個人的な思い出話

 数年前の話になりますが、オーケストラに所属している友人の招待で、きちんとしたホールでのオーケストラ鑑賞にいったことがあります。そこでは”ちゃんとしたオーケストラ”が2曲程度演奏されました。前日の夜更かし、ホールの暗い照明、フカフカな椅子や素晴らしい演奏などが災いし、眠りへの誘いに打ち勝つことに精一杯だった話はおいておきます。

 そんなことより、何よりも私に災いしたのは、「いったい、今演奏されているのは曲全体のどこら辺なのだろう」というのがわからなかったことでした。山頂に立って「ヤッホー!」と叫ぶように、曲が終わった時点で拍手をしたいのですが、果たして何合目にいるのかがわからないということです。その時は、周りに合わせるという最善の選択をできたことで、難を逃れることができました。

「エウレカ!」の瞬間

 この前、YouTubeで小澤征爾の指揮するチャイコフスキー『弦楽セレナーデ』を聞いていたところ、演奏が終わるとタチマちに大きな拍手が沸き起こったことに驚きました。会場にいるほとんどの観客が、いつ終わるのかがわかっていた様子です。

 なるほど! これが教養か!

つまり、教養は知識に他ならない

 人間の集まりの中で共有されている〈べき〉知識のことが、教養なのだと自分なりに納得できました。

 実は、これまでの文章中にいくつか仕掛けておきました。それぞれ、教養なのかどうかチェックしてみましょう。

  1. 言葉について知らなかったら、辞書を引くという行為

  2. 「手許」と書いて(テモト)と読むということ

  3. cultureという英単語が、耕作を意味する語彙に由来しているということ

  4. argumentという英単語の意味が、調べずともだいたいわかるということ

  5. 「弦楽セレナーデ」とだけ聞いて、「ああ、あの曲ね」となること

  6. オーケストラの演奏終了がわかるということ

  7. 「エウレカ!」にまつわるアルキメデスの話を知っているということ

 これらのことが身についている人は、教養があると言えるでしょうか。

言えそう……!

 1については、ちょっと常識じみたところはあります。他の項目についても、常識との線引きは少し難しいですね。

 では、こういう知識はどうでしょうか。

  1. 「鹿尾菜」と書いて(ヒジキ)と読むということ

  2. quizという英単語が、なんかよくわからない語源であるということ

  3. Pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosisという英単語を知っているということ

  4. 上の図「多分違うargument」を見て、「ああ、あのネタね」となること

言えなさそう……だよね?

 教養とか常識と呼ぶには、少し物足りない感じがします。それよりも、豆知識や蘊蓄っていう感覚に近いです。

 私なりの定義を、下のようにまとめてみました。

  • 常識:みんなが知りうる知識で、生きていたら身につくもの

  • 教養:みんなが知りうる知識で、努力して手に入れるもの

  • 蘊蓄:みんなが知り得ない知識

 さて、材料が揃ったので、本題に入ります。

教養とは、皆が作るもの

 これまでの議論を振り返ってみると、少し気になることがあります。

ほんなら、教養って、めちゃくちゃ変わりうるよね?

 たとえば、音楽(とりわけクラシックなもの)鑑賞が非常に一般的な社会を考えてみましょう。そこでは、小学生が九九を覚えるように全人民が古典的な楽曲を知っているとします。そのような社会においては、音楽史的な知識は教養から常識へと変遷します。

 「歴史」という科目が義務教育カリキュラムに組み込まれていない世界を想像してみましょう。そこでは、アルキメデスが風呂から溢れる水を見て「エウレカ!」と叫んだ逸話も教養ではなく蘊蓄になりうるでしょう。

 現に、実際の歴史を参照すれば明らかなことですが、皆が常識のように知っていたからこそ成立していた枕詞というものは、もはや試験のための知識に過ぎなくなっています。技術的な制約が厳しく、極めて先端的な知識であった深層学習という概念も、今となっては多くの人が知っています。

 知的トレンドに左右され、蘊蓄・教養・常識は互いに干渉しあい、混ざり合い、完璧に異なるものに変わっていきます。それは、長期的に見ればいつの時代にも普遍的なものです。

ちょっと休憩をしましょう。(Dream.ai によって作成)

教養なんて消せる。みんなが望めば。

 今日、教養とされている知識の多くは、長い目で見ればいずれ淘汰され、蘊蓄になるでしょう。敢えて言えば、全員を無意識に操作することができれば教養というものはいくらでも改変できるでしょう。

 私たちが普段、目指しているような(もしくは憧れているような)"教養人"というものは、もしかしたら物凄く不安定な存在なのかもしれません。私は、義務教育のレールに従い、学校という理想的な空間の中で勉学に励み、今春、大学に進学しました。

 しかし、教養というものが不安定である以上、いつ、この社会的構造が崩壊してもおかしくない話です。理想的な人生、善悪の峻別なんて、コロッと変わってしまうのかもしれません。

 そんなことを思いながら、明日からの生き方を考えてみます。

 こんなクソ長いブログを読んでくれてありがとうございました。

 またいつか、お会いしましょう。

(4,449文字)

芸術にしても民主政治にしても、それからごく日常的な挨拶とかエチケットといったものも、およそこういったすべての知的フィクションは、考えてみればみんななんとなくいやったらしい芝居じみたところがあって、実はごくごく危なっかしい手品みたいなものの連続で辛うじて支えられているのかもしれない。

庄司 薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

参考文献・サイト

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