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海猫の映画文学探訪記/『ジャンヌ・ディエルマン』

明けましておめでとうございます。
一年の計はお正月にあり、と子供の頃に読んだ、宮沢賢治だったかの短編の中で、猫が言っていたような気がします。
匿名でSNSを興すのは初めてなのですが、人生の行きがかり上、最近映画を見る機会が多くなり、その備忘録として今年はnoteを書いてみることとしました。映画のアナリーゼ、批評というよりは、自分の感性のための記録として機能させていこうと思います。

早速、年をまたいで鑑賞したアケルマン監督による『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』について。
(以下ネタバレを含みます。)


『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』
年末に少し重い作品をと思い、そのまま年を越して渋みのある新年の映画鑑賞となりました。


主人公のジャンヌ・ディエルマンの日常が、俯瞰的に淡々と長回しのショットで描写されていきます。鑑賞者はじっと彼女を観察し、また特徴的な足音や料理の音を聴きながら、視点としての自分の立ち位置を考える時間を与えられます。まるで美術館のインスタレーションのようだと思い、また村上春樹の「アフターダーク」という小説の第3の視点的な存在を思い出しました。それほどに、ディエルマンの動きはまるで誰かが見ている事を知っているかのように、ほとんど機械的に動き続けます。映像に飽きることはないとはいえ、ストーリーとしては何も起こらないことに少々不安を覚えながら、やや冴えない息子への不気味さを感じたりするままに1日目が終了となります。
2日目は同じように始まり、同じテンポで1日が進んでいきます。この方はどうやらかなり潔癖症だなと思い、のわりにテーブルをダイレクトに使った料理法などに文化の違いを感じたりします。と2日目の来客のあとに、ここまで淀みのなかったディエルマンの動きに小さなバグが生じていくことが分かります。ジャガイモは迷った末に捨て、少しずつ1日のスケジュールがずれはじめます。真っ直ぐの線のようだった彼女の1日が、少し滲んでいく様子が描かれ、しかしその初めてみえる人間らしさにどこかに安心を感じたり。2日目が終わります。
3日目も同じようなテンポ感ではありますが、何か違和感を感じるシーンが増え、印象的だったのは預かった赤ちゃんを彼女が抱き上げると号泣するシーン。何か噛み合わない、そんなもどかしさ、こういうついてない日もありますよ、と彼女を励ましたくなるような気もするも束の間、来客の男を鋏で刺すというクライマックスで、その後呆然ともう血で汚れた手も拭かずに机に佇むディエルマン。


○女であること、演技をするということ

彼女の日常は誰に見せるものでもないのに、ディエルマンは女として母として終始何かを演じているように見え、対象的に素っ気ない受け身の息子、ベッドの上でだらだらとする男、など男性はそのままの姿で社会に受容されているという描きかたをしているというのが、この映画の持つ問いのように感じます。
人として生きていく上で何かを纏い演じる場面は少なくないですが、外れない仮面を付けさせられて生きていくような、そんな息苦しさ、そして周囲との連帯もないと、人はこのように日常に追い詰められていく。
その苦しさを同じ時間軸で味わう。本当の彼女の姿とは何かを考える。あれ私は。

一つ対照的に思い出したのは、「この世界の片隅に」の主人公の家事の様子と、ディエルマンの家事の様子の違いです。主題も違うし、比較できるものではないですが、何か目の前の事象に自分のファンタジーを持てる人の強さ、のようなことも考えました。



と、こんな感じで、映画や読んだ本などを記録していきたいと思います。果たしていつまで続くのでしょうか。

ちなみに注釈するほどのことでもないですが、映画に関しては素猫ということで、道楽としての文章なので、もしこの文章を目にする奇特な方がいらしても、ご容赦下さいますよう。
それではごきげんよう。

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