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不思議なカフェの話を聞いた

不思議なカフェの話を聞いた。

 疲れた人の目の前にふと現れ、心休まるひとときを与えてくれる。

 どこにあるのか、営業時間はいつなのか。それらのことが一切不明な、本当に存在しているかも不確かなカフェ。

 しかし一度そこに行けば、必ず疲れを癒してくれる。

 会社の同僚に聞いた都市伝説を、景子はそのとき真に受けなかった。真に受けなかったというよりも、そんな話に真面目に耳を傾ける余裕がなかったと言ったほうがいいかもしれない。

 就職と同時に親元を離れ、上京してきたのが七年前。三つ年上の会社の上司と結婚し、ちょうど五年前に子供を授かった。しかし夫の浮気が発覚して、子どもが二歳のときに離婚。以来シングルマザーとして働きながら、育児に追われる毎日。

 景子の心と体は、育児と仕事の両立で少しずつすり減っていった。人一倍責任感の強い性格も手伝って、自分に割り当てられた仕事をきちんとこなし、子育てもだれに頼るわけでもなく、基本ひとりで行った。会社側の配慮で残業の少ない部署に異動することはできたが、休日も子育てに追われる日々は予想以上の早さで景子を消耗させていった。

 何もかも投げ出してしまいたい、もう今日眠ったら明日は頑張れないかもしれない。そんなことを何度考えたかわからないころ、景子は気づいたら、見たことのないカフェの中にいた。

(あれ、私、いつここに来たんだろ?)

 ぼんやりする頭で、景子は周りを見回す。明治時代、文明開化期を模した内装に、それに合わせた木造の机や椅子。天井ではゆっくりとファンが回り、静かに空気をかき回していた。暗くもなく明るくもない電球の明かりは優しい色で、心を落ち着かせてくれる。

 見たことのない光景に戸惑っていると、景子が座るカウンターの奥から声がかけられた。

「いらっしゃいませ」

 景子は店内に向けていた視線をカウンターへと戻す。そこには、カッターシャツを着た白髪混じりの男が立っていた。

「ようこそいらっしゃいました。ここのマスターを勤めています、キウサギといいます」

 軽く腰を曲げて挨拶をする男に、景子は慌てて会釈を返した。

「ご注文は、いかが致しましょう?」

「あ、えーっと・・・」

 尋ねられて、景子は急いでメニューを探した。しかし、カウンターのどこを見てもメニューが見当たらない。

「あの、メニューっていただけますか?」

「申し訳ございません。当店、メニューはおいていないのです」

「え?」

 予想外の返答に、景子は戸惑う。

「当店はお客様が望む物を出すことを心情としていますので、メニューはおいていないのです。その代わり、お客様からいただいた注文には全てお応えいたします」

 そう言われて、景子はますます戸惑う。メニューが置かれていない上に、注文には全て答えるなんて、いよいよもって普通ではない。

「あの、一応どんな物が頼めるかだけでも参考になるものが欲しいんですが?」

「もしお困りでしたら、本日のお勧めをお出しすることもできますが?」

「オススメ?」

「はい、本日のオススメは『シェイ・ハイツ』の特性カフェオレとショートケーキとなっております」

 その言葉に、景子は驚きを隠せなかった。キウサギと名乗った老人が挙げたのは、景子のお気に入りのカフェの名前と、そこの看板メニューだ。離婚して子育てに忙しくなってからは一度も足を運んでいないが、結婚当初までは行くこともあった。全国版の雑誌にも紹介されるほどの有名店で、入店するにはいつも長蛇の列に並ばなければならないが、それだけの味と価値のある商品をおいていると、景子は評価している。

「じゃあ、それで」

「かしこまりました」

 ニッコリと笑って、キウサギが準備に取り掛かる。

今日のおすすめが、たまたま景子のお気に入りだとは考えられないだろう。しもそも店名まで指定されているのがおかしい。なぜ、この男が景子のお気に入りの店をしっているのか。『シェイ・ハイツ』でないこの店に、そこの商品が置かれていることもおかしい。それとも、自分の知らない『シェイ・ハイツ』がほかにもあって、自分は偶然そこに来てしまったのだろうか? それにしては、いくらなんでも人がいない。店内には自分以外の客は見当たらず、ウェイターなどもいない。ここにはキウサギと、自分しかいないように思えた。

「あの、ここってなんていうお店ですか? 私、知らずにここに来てしまったんですが・・・」

「ここはどこでもないですよ。あなたが必要と思ったからここに来た、それだけです」

 容量を得ない答えがキウサギから返ってくる。彼はカウンターの下でコーヒーを淹れているようで、下を向いたままの返答だった。

「ここは疲れを癒す場所です。忙しい毎日に疲れ、心も体もすり減らしてしまった方が、つかの間の休息を得るための、そんな場所です」

「休息を、得るための場所」

 景子はキウサギの言葉をゆっくりと繰り返す。その意味が頭に染み込んでくるのに、少し時間がかかった。

「そのため当店では、メニューを用意せず、お客様が一番心休まる商品を出すようにしているのです」

 そう言いながら目の前に出されたのは、ゆっくりと湯気を立てるカフェオレと、皿に盛り付けられたショートケーキだった。カフェオレの匂いと、ショートケーキのほのかな甘い香りが混ざり合い、景子は思わずため息をつく。久しぶりに漏らした、心の緊張を解いた際に出るため息だった。

「いただきます」

「どうぞ、お召し上がりください」

 笑顔と優しい言葉に促され、景子はカフェオレを一口飲む。程よい苦味とミルクのまろやかな舌触りが口を満たし、コーヒー豆のいい匂いが鼻を通り抜ける。再びため息をついてから、今度はフォークを手に取ってショートケーキを一口食べる。カフェオレの味が微かに残る口に、程よい甘さが広がって、思わずうっとりした気分になった。

 景子はしばらくの間、黙ってカフェオレとケーキを口に運んだ、一口飲むたび、一口食べるたび、景子はため息を漏らした。そのため息とともに、それまで溜め込んでいた疲れが少しずつ出ていく気がした。

 やがて景子はカフェオレとショートケーキを全て食べ終えた。景子が黙って食事をしている間、キウサギはなにも言わずに食器を拭いていた。こちらを見つめるわけでもなく、かと言って完全にこちらを無視するわけでもない。ほどよい距離感で、景子のそばにいてくれた。

「よろしければ、カフェオレのおかわりもありますが?」

 景子が食べ終わって人心地ついた時を見計らって、キウサギが声をかけてくる。景子は「それじゃあ」といってカップを差し出した。

「もう 一杯いただけますか?」

「かしこまりました」

 キウサギはカウンターから取り出したポットのカフェオレを、新しいカップについでいく。景子が差し出したカップを受け取ると、新しくカフェオレを注いだカップを景子の前においてくれた。

 景子は新しいカップを両手で持ちあげ、大事にもう一口飲んだ。カップを両手で持っていると、手から伝わるカフェオレの温かさがじんわりと体に染み込んできた。景子は飲むともなしにカップを両手に持っていたが、やがてポツリと、口を開いた。

「こんなゆっくりできる時間、本当に久しぶり」

 キウサギは無言で皿を拭き続けていた。視線も皿に向けたままだったが、景子はかまわず続けた。半分は独り言のようなものだったので、聞いてもらっていようとそうでなかろうと、気にはしなかった。

「毎日毎日、子育てに追われて、仕事に追われて。自分だけのホッとできる時間なんて、もうずっと取れてなかった。嫌になっちゃった」

 はあ、と景子の口からため息が漏れる。今度のため息は、疲れを外に出してはくれなかった。

「地獄なんて言うつもりはないし、傍から見れば働ける上に子どももいるから十分幸せなんでしょうけど。それでも、やっぱりしんどい。

 周りが残業していても、私は子どもの迎えがあるから定時で切り上げる。まわりも事情を察してくれてるんでしょうけど、それでもどこか嫌な視線は向かられる。帰ったら帰ったで子どもの世話をしながら家事をこなさなきゃいけない。その上保育園で行事やなんかがあるとその準備までしなきゃいけなくなる」

 思わず顔が下を向く。自分がこれだけ心と体をすり減らしているのに、それを誰かがいたわってくれるわけでもない。それが当たり前のことなのだと、やるべきことをするのは大人として当然だと何度も自分に言い聞かせてきた。それはわかっているのだが・・・。

「もう、頑張ることに疲れちゃった」

 自分は一体、なんのために、何を目指して頑張っているのか。昔は知っていた気がするのに、今ではそれすら分からなくなってしまった。

 もう、何もかもに無気力になってしまっていた。

 カフェオレに口をつける。苦味が先程より増した気がした。景子が口をつぐんでしまうと、再び店内は沈黙に包まれた。しばらく、キウサギが皿を拭く音と、景子がカフェオレを飲む歳の食器の触れ合う音だけが響く。

 やがて、カップの中身が半分ほどになったころ、キウサギがゆっくりと口を開いた。

「お一人で、歩いてこられたのですね」

 その言葉が比喩表現だということはすぐにわかった。そう、景子はここまで、ひとりで歩いてきたのだ。

「長い長い道のりを、ここまでお一人で来るのはさぞ大変だったでしょう。それは、歩いてきたあなたでなければわからない苦しみだと思います」

「・・・はい」

 視線をカップに落としたまま、景子は頷く。無理に慰めるでも、共感を示すわけでも、まして過度の同情を寄せるでもないキウサギの言葉。その言葉は、自然と景子を頷かせていた。

「それでも、ここで投げ出すこともできない。あなたはそれも知っているはずです」

 カップを握る景子の手に、思わず力がこもった。先程まで感じていた穏やかな気持ちが、少しずつ冷えていく。リラックスしていた気持ちが、少しずつ緊張をおびはじめた。

「すべてを放り出して、遊ぶ生活を送りますか? 逃げ出すために、ビルの屋上から飛び降りますか? そんなことしても意味がないことを、あなたは理解している。だから今あなたは満身創痍になりながらも、毎日必死に闘っている。なにより・・・」

 そこでキウサギが皿を拭く手を止め、カウンターの下から一枚の画用紙を取り出した。それを景子の目の前に広げて見せる。

「あなたには守るべき人もいる」

 その言葉とともに目に飛び込んできたのは、一枚の絵だった。それを見て、景子の息が詰まった。

 クレヨンで描かれた一枚の絵。下書きもない、色を最初から直接塗りたくった絵。拙い絵は人が二人いることが分かるだけで、実際に何をしているのかもわからない。それでも二人の顔は笑顔に包まれており、幸せそうなことが伝わってくる。

 五歳の息子が描いた絵だった。

「右が息子さん、左が家でごはんを作っているあなただそうですね」

 キウサギに説明されるまでもなく、景子にはそれがわかっていた。先日、息子が保育園で描いた作品をもって帰ってきたとき、息子が笑顔で説明してくれたことだった。

「保育園では『楽しい絵』というテーマで自由作品を描かせた。まわりの友達が友人と遊んだり、家族でピクニックに行ったりする絵を描く中、息子さんが描いたのは、日常のなにげないこの一コマだったそうです」

 それも景子は知っていた。息子の担任の保育士から聞いた説明だった。

 両手で持っていたカップを置き、景子はそっとその絵を持ち上げた。ゆっくりと、息子の作品を眺める。

「それが、あなたの息子さんが見ている世界なんですね。大好きなお母さんと、二人でいるのが、息子さんにはなにより『楽しい』ことだったのでしょう。たぶん息子さんは、きちんとあなたが頑張っていることを見てくれていると思いますよ。だからこそ、この絵がかけたのだと、私は思います」

 景子の視界が徐々に滲んでいく。画用紙に、雫が一つ、二つと落ちた。

 頑張りたくない。何もかも投げ出したい。その気持ちは今も変わっていない。しかし、頑張らなければいけないことも強く感じていた。

 息子が描いた絵に感動して、頑張る力をもらえる。自分の頑張りを、きちんと見てくれている人が居る。それで元気をもらい、生きる活力を得るというのは、フィクションの中のことだけだと、景子は思う。辛い気持ちは変わらないし、頑張る気力なんてもう絞り尽くしてしまっている。今すぐにでも全て投げ出してゆっくり休んでもいいのなら、景子は迷わずそうするだろう。しかし、景子のその心をつなぎとめているものが、息子の存在だった。

 自分が今投げ出すわけにはいかない。この絵を描いた、この楽しいひとときを守ることが出来るのは自分だけなのだ。それがわかっているから、きちんと理解できているから、景子は今まで歩いてこれたし、これからも、歩いていくはずだ。後ろ向きの心を、力任せに前に向かせ、ボロボロになりながら突き進んでいくのが景子の人生だった。

景子の喉から、嗚咽が漏れる。胸の中でごちゃごちゃになった思いは、涙となって溢れ続けた。胸に息子の絵を抱いて、久しぶりに流す涙はなかなか止まってくれない。視界が滲み、頭がぼんやりとし、右も左もわからなくなってきた頃に、キウサギの声が染み渡るように頭の中に聞こえてきた。

「これからも、あなたは歩き続けなければなりません。それは辛く、苦しく、長い道のりです。ただ、守るべきもの、あなたのことを見てくれている人がいることを、どうか忘れないでください」

 泣きすぎてめまいがしてくる。泣きながら、真っ黒な暗闇に落ちていく感覚を覚えながら、キウサギの最後の一言が妙に頭に響いてきた。

「またのお越しがないことを、お祈りしております」






 頭の上の方で、目覚ましのなる音が聞こえた。一秒もならないうちに、景子の手がその音を止める。

 目を開けると、息子の寝顔が目に入ってきた。寝顔は安らかで、見ているこちらの心を少しだけ落ち着かせてくれる。

 いつもと変わらない朝だった。カーテンの隙間から朝日がうっすらと差し込む自宅の寝室で、景子はゆっくりと起き上がり伸びをする。いつもどおりの息子の寝顔と、少しだけ涙で濡れた自分の枕。枕元には、先日息子が保育園で描いてきた絵。

 ぼんやりする頭で、景子はさきほどまで見ていた夢を思い出す。寝覚めは今日も最悪で、すでに起きたくないと心が叫んでいるが、その声を抑えるのが、いつもより少しだけ楽にできた。

 今日をどのようにやり過ごそうかと頭が働き始める。前向きになどなるわけもない。それでも、景子はゆっくりと立ち上がって台所に向かった。

 後ろ向きに前進する景子の一日が、今日も始まる。

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