六 山へ

どうしてこうなってしまったのかは分からない。

 部活が始まる前に、良平と二人で着替えて時とは考えられないほど落ち込んで、翔太はロッカーから着替えを取りだす。

 いきなり行われた入部テスト。結果は一セット取ったものの三セットあんなに取られ敗北。一セット取れて入るが、内容としてはかなりの実力差があった。

「終わった人は解散ね。今日はまだ仮入部期間だから、全員相手するにはちょっと時間が厳しいのよ」

 試合が終わった後、安奈は翔太に目もくれずそう言った。完全に、翔太のことなど眼中にないように。

 そのときの翔太は抜け殻のようにただ立ち尽くしているだけだった。

 そのまま、気づいたら更衣室にいて、今も何も考えられないままもぞもぞと着替える。

 靴下をはいて、着替え終わった翔太が、半ば無意識に鞄に手を伸ばした時、ロッカーから一枚の紙がひらりと床に落ち、翔太は視線を向ける。

 それは、自分の名前が書かれた卓球部の入部届けだった。

「ひっ」

 思わず、しゃくりあげる声が出る。視界がにじみそうになり、鼻の奥のほうがつんと痛くなるのがわかった。更衣室には誰もいないが、それでも唇をかみしめ、目からあふれようとするものを必死に食い止める。

 やっと見つけたと思った、この学校での居場所。ここでならやっていけると思った、居心地の良い場所。それが手から滑り落ち、届かない場所へと行ってしまった、なくしてしまった。

 翔太は溢れそうになる涙をぬぐうと、入部届けをそのままに、鞄を持って更衣室を出る。そこで誰かとぶつかりそうになり、翔太は顔をあげる。そこには、悔しそうな表情をした良平の顔があった。

「俺も、負けた」

 ぼんやりとした頭で、その言葉だけを聞くと、翔太はまた茫然とした表情で歩き出す。自分でもどこに向かっているかわからない状態で、ただ足だけを前に出す。

 良平とも、もう一緒に部活はできないのだ。

 後ろで良平が何か言っていた気がしたが、翔太の耳には入ってこなかった。

 気がつくと、翔太は屋上へと続く扉の前に立っていた。どうしてここに来たのか自分でもわからないまま、翔太はぼんやりと扉を見つめる。そのまま扉を開けようとして、翔太はあることに思い当る。

 今は昼の昼食の時間ではないため、楓はいないはずだ。

 翔太はぼんやりとした頭で、扉わきの掃除用具入れの裏を覗き込む。そこにあるはずのカギを取りだそうとしたが、しかしそこに鍵はなかった。

 ぼんやりとした頭で驚きつつも、まさかと思いドアノブに手をかける。すると、ドアは昼食の時間と同じようになんなく開いた。

 そこに、夕暮れの日を浴びた楓が、いつもの場所で山のほうを見つめていた。

 翔太は驚きながらも、一歩足を出して屋上へと出る。そこで楓がこちらを振り向き、視線があった。楓のが少しだけ驚いたような表情をする。毎日会うたびに、翔太には楓の微妙な顔の変化が少しだけわかるようになっていた。

 なんと声をかけていいのかわからず、翔太は二、三歩楓に歩み寄る。その間も楓はこちらを見つめていて、その視線はあったままだ。

 やがていつも弁当を食べる位置にたどりついて、翔太は足をとめた。なぜだか、楓にはこれ以上近づくことができなかった。

「もしかして、放課後毎日ここにいるの?」

 無意識のうちに翔太の口から疑問がこぼれる。対して楓は、コクリと一度うなずいただけだった。

「何時まで?」

「四時半くらいまで」

 ちょうど仮入部の時間が終わる直前である。今日は翔太の仮入部が早めに終わったため、翔太がここにきても会えたことになる。

「なんで、ここに?」

 翔太がそう尋ねると、楓はすぐには返事をせず、すっと視線を前に戻す。翔太もその視線を追う。視線の先には、楓が昼食の時間中、ずっと見続けている物があった。

「山を、みているの」

 返ってきた返答は、はかなげで、しかしピアノの音色のような優しい雰囲気を含んでいた。その言葉は小さく発せられたにもかかわらず、風に運ばれたように翔太の耳にしっかりと届いた。

「山に、行ってみたいから」

「…いけないの?」

 楓に視線を向けて、翔太は問いかける。楓は無言で、一度だけうなずいた。

 そのどこか悲しげな、はかなげな横顔を見て、翔太の心のどこかが刺激を受けた。

 針で少しだけつつかれたような、どこか物悲しくなでられたような、そんな感覚。

 その感覚の正体を、翔太はそっと探る。胸の中のもやもやした概念が少しずつ輪郭を現していくうちに、その中身がだんだんとわかってきた。

 自分の求めるものが手に入らない、その感覚を、楓はおそらく、入学してから、もしかしたらそれ以前からずっと味わってきているのだ。そこに行きたいのにいけない。手を伸ばしてもつかめない。それはおそらく、翔太が先ほど味わった感覚と似たものだろう。

 自分の中の苦しみは、いまだ残っている。求めていたものが手から離れていった感覚は、今でも手に取るように分かる。その苦しみを確認しようとすると、心がとてつもなく苦しくなり、目をそむけたくなる。そんな苦しみを楓はずっと抱えているのかもしれない。

 翔太は視線を山に戻す。かすかにかすんで見えるほど、その山は近くにはないし、しかし、見える分だけ遠くもない。山と行っても一つの山があるだけではなく、山脈のようにいくつもの山が連なっている。ここからでは見えないが、おそらくあの山の向こうにもまた同じような山があるはずだ。どこまで行っても、山、山、山。楓が行きたい山がどれかは分からないが、その山脈地帯のどこかではあるはずだ。

 いつの間にか、翔太の心の中ではもう決まっていた。見えない力に後押しされるように、翔太は口を開く。

「ねえ、あそこに、一緒に行ってみない?」

 いつもの無表情が、完全に驚いているとわかる表情になって、楓が翔太のほうを振り向く。翔太は無意識のうちに笑って、言葉を付け足す。

「行きたいなら、行けばいい。お金がないなら、僕が出す。だから、一緒に行こうよ」

 しばらく、沈黙が降りた。お互いに視線を合わせたまま、見つめあう時間だけが過ぎる。

 やがてゆっくりと、楓の表情が驚きから少しだけ笑顔に変わり、コクリとその首が縦に振られた。

「連れてって」

 その表情は、今までの楓の表情の中で、もっとも決意のこもった、美しい笑顔だった。

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