想失

 事務室に鍵をかけ、オフィスをでる。外にでると、肌を刺すような冷気が身を包んだ。

 今日も終電帰りだ。会社に入って三年。入社当初以来、終電以外で帰った記憶が数える程しかない。私はマフラーを巻き直し、疲れきった体を引きずりながら駅へと向かう。

 こんなに夜遅くでも街には多くの人がいる。私と同じように会社帰り風の人、お酒が入り、大声をあげながら数人で連れ立って歩く人。雑踏の中、私はひとり、うつむき加減に歩いていく。

 夜の道にはネオンが灯り、街のなかに光の芸術を作り出していた。もうすぐクリスマスなのだと、不意に思い出す。

 歩行者信号が赤になり、横断歩道の前で立ち止まる。周りには多くの人が、私と同じように信号待ちをしていた。その中に、私の知り合いは一人もいない。人の群れが、まるで街を彩るネオンのようだと私は思った。光ることで存在感を出しているネオンは、しかし周りを優しく包み込むような光は出さない。私の周りにいる人も、存在感はきちんとあるのに、その存在感が他者に安らぎを与えることはなかった。都会では、全てが無機質だ。

つながりのない人が大勢いることで逆に孤独を強く感じた。寂しさに押しつぶされそうになるのをこらえながら、私はだれかに会いたいと願う。

 ふと、街のネオンに既視感を覚えた。昨年のちょうど同じころ、ここで同じように信号待ちをしたことがあった。街を彩るネオンと、道行く人を眺めながら、キレイだね、と隣にいるだれかに呟いた。その相手が、やわらかにこちらに笑いかける・・・。

 私は我に返り、隣を見た。もちろんそこには誰もいない。しかし私は、思わず隣を見てしまったことでショックに襲われていた。隣を見てしまったことにではない。今の今まで、その記憶を忘れてしまっていたことに対してだ。

 それは、去年のクリスマスに彼といっしょに街へ遊びに来た時の記憶。私は彼にべったりで、彼も私をとても大切にしてくれた。しかし、そんな日々はやがて終わりを迎えた。三か月前、唐突に告げられた別れ。どれだけ話しても、何を言っても、彼の気持ちを私に引き戻すことはできなかった。

 別れた当初、彼のことが忘れられなくて毎晩枕を涙で濡らした。この気持ちは一生拭うことが出来ないと思った。いつまでたっても私は彼のことを忘れられない、振り切れない。そう思っていたのに・・・。

 私は今の今まで、彼のことを忘れていた。孤独を感じたとき、今までなら隣にいてほしいと考えたのはいつも彼のこと。しかし、今日は違う。私は「だれかに会いたい」と思った。彼に会いたいとは思わなかった。

 信号が青に変わる。動き出す雑踏に流されるように、私も歩き出す。歩きながら、心臓が早鐘をうち始めた。そのリズムに急かされるように、いつしか私は小走りになっていた。ホームに到着し、終電に乗り込む。落ち着きなく電車にゆられ、四つ目の駅で降りると、自分のアパートへと向かった。乱暴に鍵を開け、靴も脱ぎ散らかし、私は部屋のクローゼットを開ける。衣服がしまってある奥、未練たらしく保管しておいた彼との思い出の品。その一つ、学生の頃二人で撮ったプリクラを見た。

 笑顔の私と彼が写っていた。震える指先で、そっと彼の顔をなでる。今までなんども見ては、心に安らぎをくれた笑顔。しかし今は、その笑顔をみてもなんとも思わなかった。自分の知り合いが、自分といっしょに写っているだけだった。

 大きなため息が一つ漏れる。同時に、私の中で何かが終わった気がした。これが吹っ切れるということなのだ。一生拭えないと思っていた胸の痛みが、今はまったく感じられない。こんなに苦しい想いをするなら、今すぐにでも忘れたいと思っていたもの。過去に私を縛り付けていたそれが、今なくなったのだ。

 これで私は前を向いて歩き出せる。だから、悲しむことなんて何もない。なにもないはずだった。それなのに、なぜか涙が止まらない。プリクラの写真を胸に押し付け、うずくまるように額をフローリングの床につける。目から溢れるもので視界が歪み、息がひきつる。口から、うめき声にも似た嗚咽がもれる。

 言い知れない喪失感が私を襲う。自分のなかにあった綺麗なものが、跡形もなく消え去っている悲しみがとめどなく押し寄せてくる。なくしたものの穴を埋めるように写真を胸に抱き続けたが、私の胸が満たされることはもうなかった。

 彼の声は聞こえない。たった今写真を見たはずなのに、どんな顔だったのかも曖昧になる。たった一人の部屋の中、想いを失くした私は泣き続けた。

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