見出し画像

いなす にがす

茅葺きの仕事をしていたり、農村で暮らしていると、よく「いなす」や「にがす」という言葉を使う場面に出逢います。

漢字で書くと「往なす/去なす」や「逃す」で、一見するとネガティブで消極的な印象を受けますが、実際はそうでありません。

例えば茅葺き屋根の修復をしていて、予期していなかった損傷を発見した時や、台風などで雨漏りしてしまった時など、その損傷に真正面から向き合っていると工期も予算も合わなくなってしまうし、雨漏りの下には現在進行形の生活があるので、本格的な解決は将来に託し、応急処置をしてその場をしのぎます。

田植え前に畦が崩れて水漏れしてしまっていたとしたら、一先ずそこいらにある杭や板で水を漏れないようにし、本格的な畦の補修は稲の収穫が終わってからにします。

村の中でトラブルを起こしてしまったり、誰かとケンカをしてしまった時などは、善悪の判断や勝ち負けを付けずに、喧嘩両成敗でその場を納めたりします。

いくつかの例を並べてみても、何だか手を抜いていたり、うやむやにしているだけのように感じる人も多いと思いますが、実はこれらは自然の中や、村のような狭いコミュニティの中で、前に進みながら生きてゆくための立派な知恵だということに気付かされます。

田畑で米や野菜を作っている人ならわかると思いますが、播種や収穫の時期は限られており、そのタイミングを逃すと自然の恩恵を受け取る事が出来ません。
当たり前の事ですが、自然は人間の都合にはお構い無しで移ろい続け、待ってくれたりする事はありません。

そして村とは「群れ」の事で、自然の中で群れないと生きる事が出来なかった時代は、村で生まれて村で死ぬような事もごくごく当たり前のことだったようで、
そんな閉じたコミュニティでトラブルを起こすと「村八分」と言って、
火事と葬式以外は面倒を見てもらえなくなってしまいます。

嫌な事があって逃げたくなっても、今のようにどこか違う所へ気軽に引っ越せたり出来ないので、逢いたくない人と逢う機会が死ぬまで続くような状況になってしまう。

生きている以上、兎にも角にも前に歩き続けなければならないので、
目の前で起こる問題全てに、真正面から向き合って解決しようとしていたら、
季節の移ろいに置いて行かれて旬を逃してしまうし、逢いたくない人を避けて生きれるほど、村は広くはありません。

そういう兎にも角にも前に進まなくてはならない環境や状況の中で、「いなす」と「にがす」という知恵は、生まれて磨かれてきたのだと思います。

問題や課題やストレスなどに真正面から向き合いはしないが、自分の傍らに常に置いておき、朝が来て夜霧が晴れてゆくように、雨が降って川底の泥が流されるように、大風で折れた木がまた上に向かって立ち上がるように、時間の経過に委ねることによって和らいだり、変化したり、時に忘れ去ってしまったり。
前に進む過程の中で、時間をかけて少しずつ解決や解消をしてゆく。

そしてそうやって生きてさえいれば、良い事だって季節の恵みと同じように
向こうからやってくる。

「いなす」「にがす」は移ろい続ける自然の中や、村という閉じた世界で共に生きてゆくための、そして生きる事を肯定するための、情深く前向きな知恵なんだと思います。

相良育弥

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?