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あなたも、3年でプロのシナリオライターになれる!!

  モーツァルト・タッチ

                  Mozart touch


連続テレビドラマ、映画は、大勢の人、モノ、カネが動く一大プロジェクトであり、ビッグビジネスです。その起点となるのがシナリオです。そのシナリオを書くのが、シナリオライターと呼ばれるプロフェッショナルな人たちです。




(一)コンクール

 最初にお断りしておきますが、この記事は、プロのシナリオライターとしてデビューするには、どうすればいいかに特化したものです。それゆえ、シナリオの入門書、指南書ではないので、シナリオの書き方に関しては省きます。シナリオの書き方に関する本は、何冊も市販されているので、そちらを参考にして下さい。
 10人シナリオライターがいれば、10通りのデビューの方法があります。この方法論は、その言葉通り受け売りではなく、私の実体験を基に書きましたので、一読されると、
「成程、そういうデビューの方法もあるのか-----!!」
 と、納得されることでしょう。

「シナリオライターとしてデビューするには、どうするか?」
 と問われ、誰もが最初に思い浮かぶ方法としては、新人シナリオコンクールに入選して、この業界の人々に名前が知られ、華々しくデビューするというのが定番でしょう。
 しかし、意外に思われるかもしれませんが、この業界、シナリオコンクールなど、ほとんど注目されていません。
『ドラマ』『シナリオ』という専門誌には大きく掲載されますが、大手の新聞には、小さく隅の方に掲載されるかスルーされるだけで、芥川賞、直木賞のように、テレビのニュースで大きく扱われることはありません。テレビ局主催のメジャーシナリオコンクールでさえそうです。
 映像メディアなのに、もったいないことです。
 文藝春秋の社員で、自分の会社で、芥川賞、直木賞というビッグイベントを主催していることを知らない人はいないでしょう。
 しかし、テレビ局員の中には、自分が所属するテレビ局に、新人シナリオコンクールがあることさえ知らない人もいました。
 映像の業界では、それが現実です──。

「シナリオは、100%技術です」
 これは、映画監督でありシナリオライターでもあった、新藤兼人氏の言葉です。
 小説の場合は、技術に走った小説ほどつまらないものはないそうですが、ことシナリオに関しては、技術がすべてとは言わないまでも、かなりのパーセンテージを占めています。
 極論すればシナリオは小説と違って、文章のうまい下手は関係なく、文章を書くことが好きな人で、シナリオ特有の技術さえマスターすれば、誰でもなれます。
 シナリオの書き方の基本などは、その気になれば、三ヶ月から半年でマスターできます。残りの期間で、プロとしてやっていくための応用力をつければいいだけのことです。
 その後、プロとしてデビューし、この業界で生き残れるか、生き残れないかは、あなたの努力、腕、運次第です。
 今や、ライターという職業にとって必須とも言っていいキーボードのタイピング、いわゆるブラインド・タッチ(注)でさえ、私の経験から、毎日1時間練習すれば、1ヶ月でマスターできます。しかし、テレビドラマを観ていて不思議なのは、時代劇で馬に乗れるのが必須なのと同じくらい頻繁に見かけるシーンなのに、これができる俳優さんを見たことがありません。
 調査によると、日本の社会人の約7割の人が、このブラインド・タッチができないそうです。

(注) 目の不自由な人の協会からクレームがきて、“モーツァルト・タッチ”と呼ぶそうですが、あまり浸透していないようです。モーツァルトは、ピアノの鍵盤を見ないで弾けたことから、このネーミングがついたそうです。私も、キーボードを見ないで、手書きの2倍の速さで打てますし、ひらがな入力、ローマ字入力、両方できます。そんなこんなで、ペンネームにしました。

 一般社会で、超エリートと言われているのは、医師、弁護士でしょう。
 医師になるためには、医大卒業まで6年かかります。弁護士も、大学、司法修習生として勉強するので、5年以上かかります。
 現代の医師は、病気の種類も多く、新しい医療機器の操作も覚えなくてはいけないので、一人前の医師になるのには時間がかかります。弁護士も法律が複雑多岐にわたり、これまた膨大な知識が必要です。
 その点、シナリオライターは、基本的なテクニックと、応用力をマスターすれば、3年あればプロとして十分通用します。あとは、プロの階段を1段ずつ上がって、レベルアップしていけばいいのです。
 この記事を読まれている方は、きっと一日でも早く、プロのシナリオライターになって、あなたの名前と作品を世に知らしめようと思っている方々ばかりだと思います。そのくらいの大それた野心がなければ、過当競争のこの業界では生きて行けません。
 時代は一日も早く、あなたのような新しい感覚を持った、優秀なシナリオライターの出現を待っています。
 現代社会は出版不況と言われているように、活字社会ではなく映像社会ですから、メジャーなシナリオコンクールともなると、小説コンクールのように数百人の応募数ではなく、千人を超える活況です。賞金額も小説だと、せいぜい50万円から100万円ですが、フジテレビのヤングシナリオ大賞などは300万円です。
 当然、それを勝ち抜いて頂点である大賞を獲得するのは、並大抵のことではありません。
 今や、シナリオコンクールで入選するのは、応募数の多さからしてもハイレベルで、小説の世界で、芥川賞、直木賞を受賞するよりも難しいかもしれません。
 現在、シナリオコンクールも乱立気味で、話題作りのための単なるイベントになっていて、本気でプロのシナリオライターを育てようというコンクールは少ないようです。
 制作会社のプロデューサーに聞いた話では、数あるコンクールの中では、一番面倒見がいいのは、フジテレビのヤングシナリオ大賞だそうです。 
 そのコンクールで大賞を獲得すれば、いきなりゴールデンタイムの連続ドラマを書かせてくれます。そこから出てきたのが、テレビドラマで一時代を築いた、野島伸司(『高校教師』『愛という名のもとに』)、坂元裕二(『東京ラブストーリー』『カルテット』)さんたちでしょう。
 このことが、フジテレビのドラマが好調だった原因でもありました。他局もそのことに気づき、自局でシナリオコンクールを実施したのはいいのですが、フジテレビのように“人材発掘”というコンセプトが希薄で、コンクール自体がうまく機能せず、新人シナリオコンクールという名のイベントに終わってしまったのは、テレビ業界の大きな損失と言わざるを得ません。
 その点、フジテレビはコンクール自体が、“人探し”というコンセプトで、コンクールに入選しない人でも、一次審査に通っただけで、この人はプロで十分やっていける人だと思ったら、プロデューサーがフライング覚悟で、声をかけてくれるそうです。そのくらいの冒険心がなければ、なかなか人は育たないものです。
 業界の人の中には、
「えーッ、育ててもらいたいの?(甘ったれるんじゃない)」
 と、さも小馬鹿にしたような言い方をする人もいました。
 しかし、日本映画草創期、全盛期には、各映画会社で俳優のニューフェイス公募とか、助監督、脚本家を募集して独自で人材を育てていました。
 戦後、第一回東宝映画のニューフェイス採用試験で、一旦は不採用になって、電停で電車が来るのを待っていた若者がいました。何故か彼は、来た電車に乗らず、次に来る電車を待っていました。そこに、試験会場から助監督が彼を呼び戻しに来て、採用されたそうです。
 その若者を呼び戻しに行くように指示したのは、後の巨匠・黒澤明助監督(当時)でした。何故、黒澤さんは、その若者を呼び戻しに行くように言ったのか? (審査会の司会をしていた、本木荘二郎プロデューサーだという説もあります)
 たまたま審査を見ていた女優の高峰秀子さんが、その若者の野性的な演技を見て、
「クロちゃん、面白い人がいるわよ。見に来て!!」
 と、黒澤さんを呼びに行きました。それを見た黒澤さんは、その若者が不採用になったと聞いて、
「これからの日本の映画界には、彼のような俳優こそ必要です」
 と、審査員を説得して呼び戻しに行かせました。その若者こそ、後の三船敏郎さんです。
 当の黒澤監督も助監督採用試験で、たまたま面接の審査員だったのが、名匠・山本嘉次郎監督で、音楽好きの黒澤さんと意気投合し、500人の応募者の中の5人に採用されました。
 な、なんと、他の採用者は、東京大学、京都大学、慶応大学、早稲田大学卒業という超エリートの中で、黒澤さんは中卒(今でいう高等学校)でした。
 もし、そのとき審査員が山本嘉次郎さんでなかったら、もし、たまたま高峰秀子さんが、演技審査を見ていなかったら、もし、黒澤さんがロケで撮影所にいなかったら、もし、三船敏郎さんが、最初に来た電車に乗っていたら、後の世界のクロサワ、ミフネは、誕生しなかったことでしょう。
 運命とはそうしたものです──。
 昭和30年頃の映画界でも、倒産寸前だった日活映画の上層部が、松竹映画で、上がつかえてなかなか監督に昇進させてもらえなかった助監督連中に、
「うちに来たら、すぐに監督として一本撮らせてやるぞ」
 と声をかけ、まだ海のものとも山のものとも分からない、石原裕次郎をいきなり主役に大抜擢して、
「お前らの好きなようにやっていいぞ」
 と言って、起死回生を果たしました。
 そこから出たのが、中平康(『狂った果実』『変奏曲』)、今村昌平(『にあんちゃん』『楢山節考』)、浦山桐郎(『キューポラのある街』『非行少女』)といった監督たちです。
 さらに、意外と思われるかもしれませんが、プロのシナリオライターで活躍している人は、コンクール出身者より、別の方法でデビューした人の方が多いのも事実です。
 以前、ゴールデンタイムのシナリオを書いているシナリオライターで、コンクール出身者は何人いるかをチェックしたところ、2割しかいませんでした。
 昭和40年、50年代のテレビドラマ全盛期に“御三家”と言われたシナリオライター、倉本聰、山田太一、早坂暁氏は、ともにコンクール出身ではありません。橋田壽賀子、向田邦子氏も、コンクール出身ではありません。
 山田太一、橋田壽賀子氏は、ともに松竹大船撮影所脚本部の出身ですし、倉本聰氏もニッポン放送出身です。
 山田、橋田両氏の場合は、我々のように、カネを払ってシナリオを習いに行くのではなくて、逆に松竹から給料を貰ってシナリオの書き方を教えて貰えたのですから、羨ましいと言うか恵まれていると言うか、映画全盛時代の良き時代でした。
(この時代のことは、元松竹映画プロデューサーで江戸川乱歩賞受賞作家、小林久三氏の『雨の日の動物園』という名著に詳しい)
 倉本氏の場合は、ニッポン放送でディレクターをやっていて、レギュラーのシナリオライターの原稿が間に合わないときに、倉本聰のペンネームで、自ら放送原稿を書いていました。
 ある日、上司に呼ばれ、
「君は、いつもベテラン脚本家に書かせているが、最近、若手で倉本聰っていうのが出てきたから、一度会って来い」
 と言われ、会社に内緒で書いていたことがバレたと思い、会社を辞めて、シナリオライターとして独立しました。
 早坂暁氏に至っては、それまで勤めていた会社が倒産し、家でゴロゴロしていたら、NHKにいる友人から電話がかかってきて、シナリオを書いてみないかと誘われたのが、デビューのきっかけでした。
 何故、こういう現象が起きるのでしょう-----?
 それは、小説は書きたいものを書けばいいが、シナリオは注文仕事で、発注者の要望に応えなくてはいけないからです。
 つまり、コンクールは書きたいものを書けばいいが、プロのシナリオライターになったら、発注者に合わせなくてはいけないのです。家の設計図のことを考えれば、分かりやすいと思います。自分が住みたい家の設計図を書くのではなく、住む人の要望に合わせなくてはいけないのです。
 それが不得手(ふえて)な人は、シナリオライターには向いていないでしょう。そういう人は、いつまでもシナリオという表現形式にこだわっていないで、誰に遠慮せず、書きたいものを伸び伸びと書ける、小説という表現形式に転向することをお勧めします。
 テレビドラマでは、スポンサーが自動車会社なら、車の事故は扱えませんし、宗教、人種問題もなかなか難しいものがあります。
 つまり、足枷(あしかせ)が多いので、順応性がなくては、プロのシナリオライターにはなれません。しかし、小説にはそういう制約がなく、何を書いてもノープロブレムです。
 コンクールに入選しても、人に合わせることができない人、順応性がない人は、シナリオライターには向かないでしょう。私の知っている人にも、何人かそういう人がいます。そういう人は、書く才能があるのだから、シナリオという表現形式にこだわらないで、さっさと自分が書きたいものが書ける、小説に転向した方が得策かと思われます。
 小説家になって、ベストセラーを書いて、プロデューサーがその原作を、テレビドラマや映画にしたいと言ってきたら、自分にシナリオを書かせてくれるという条件を出せばいいのです。
 一度マスターしたシナリオ執筆の技術は、そうそう容易(たやす)く忘れるものではありません。ましてや、シナリオコンクールに入選するぐらいの才能があるのですから-----。
 逆に私の場合は、シナリオより先に、小説の新人コンクールに応募しようと書き始めたのですが、文章と文章の間に隙間風が吹いているようで、
「こりゃいかん。小説家になるには思いつきだけではなく、ある程度の文章力、人生経験がないと書けないな」
 と、自分の未熟さを痛感し、一度は断念してしまいました。
 そこで、シナリオの方が簡単に書けるのではと方向転換し、シナリオの書き方の本を読んで、見よう見まねで一本のシナリオを書きあげ、シナリオの新人コンクールに応募しました。
「やった、オレはとうとう日本映画界を変える、とんでもない傑作を書いてしまった」
 と思って、コンクール入選の連絡を、入選後のバラ色の人生を勝手に思い描きながら、今か今かと首を長くして待っていたのですが、そんなおいしい連絡は来るはずもなく、書いては出し、書いては出しの繰り返しで、誰もが味わう落胆、挫折の連続でした。
 あとで知ったことですが、小説と違って、シナリオは一見簡単そうなので、初めてシナリオを書くと、誰もがそんな大それたことを考えるようです。
 今でもそのとき書いたシナリオを保管していますが、今読み返すと、これじゃあ、一次も通らないし、私がコンクールの審査員だったら、2、3ページ読んだら、「最後まで読む価値なし」と、即断即決し、落選の判断をする代物です。
 セリフは、説明ゼリフのオンパレード、ト書きは映像になりそうもないことまでダラダラと書いてあり、とてもシナリオの体をなしていません。よく、恥ずかしくもなく、こんな代物を書いて、コンクールに応募して、その後のバラ色の人生を思い描いていたものだと恥ずかしいかぎりです。
 それもこれも、すべてシナリオという物をよく理解していなかったからです。家を建てるのに、設計図が必要なように、シナリオも映像の設計図なので、建築の設計図を独学で勉強しないように、シナリオも独学でマスターすることなど、到底無理ということです。
 それに気づいて、シナリオ作家協会主催のシナリオ講座に通いました。その頃は、この業界には疎く、脚本家組合が二つあるとは知らず、黒澤明、新藤兼人さんが所属するシナリオ作家協会だけだと思っていました。
 日本脚本家連盟の方は、テレビドラマの脚本家、バラエティ、ドキュメンタリー分野のいわゆる放送作家が所属し、シナリオ作家協会は、映画の脚本家が所属しているとのことですが、今はあいまいになっていて、両方に所属している作家もいるそうです。
 当然、作家組合が二つあるということは、何かあったとき、ハリウッドの作家組合のように、抗議のストライキができないということです。どちらかがストライキをすれば、ストライキをしていない方に、仕事を発注すればいいだけのことですから。
 余談ではありますが、ベテランのシナリオライターの人に聞いた話では、制作者サイドとシナリオライターの間に、何かトラブルがあった場合、放送作家協会(現・日本脚本家連盟)は相手方に書簡を送るそうですが、シナリオ作家協会の方は、直接制作サイドの担当者を呼んで抗議するそうです。
 しかし、このシナリオ講座は、基礎科はいいとして、研修科になると、現役のシナリオライターの先生が三人いて、一週間ごとに先生が替わり、ベテランの人と中堅の人では言うことが違うので、戸惑ったことを覚えています。
 その後、また独学でシナリオを書いては、コンクールに応募していたのですが、なかなか入選ラインには達せず、同じことの繰り返しかとも危惧したのですが、もう一度勉強しなおそうと、六本木にあった放送作家教室に通いました。
 この教室の基礎科では、シナリオ作家協会と同じシナリオの基本的な書き方を教わりましたが、講師としてくる先生がシナリオ作家協会のときのような映画監督、映画のシナリオライター、映画プロデューサーではなく、リアルタイムで観ているテレビドラマの脚本家やディレクター、プロデューサーの人たちで、大いに参考になりました。
 初めて山田太一氏を見たのもその教室の基礎科でのことで、一番前の席に陣取って、氏の一回きりの講義を緊張感いっぱいで聴いたものです。
 講義の最後の質問タイムで、何度か氏に質問すると、
「あなたばかりじゃ何なので-----」
 と他の人を指名されたことも、今となっては懐かしい思い出です。こういうのが教室の欠点だと思うのですが-----。
 つまりみんな高い授業料を払っているので、均等に扱わなくてはいけないということです。
 山田氏に個人的に教わりたかったのですが、当時、山田氏はバリバリの現役で忙しく、研修科の講師もなさっていなかったですし、この講義のあと、NHKのプロデューサーかディレクターと、近くの喫茶店で次のドラマの打ち合わせがあるのだとおっしゃっていました。
「現役の売れっ子のシナリオライターとは、こういうものか。いつか、自分もこういうセリフを、人前で言ってみたいものだ」
 と、憧れの目で見ながら、うらやましく思ったものです。
 リアルタイムで、そういう業界の空気を吸うことができるのも、こういう教室のいいところかもしれません。
 もし山田氏が、研修科の講師をやっていれば、受講生が殺到して、抽選でないと入れなかったことでしょう。
 早坂暁さんの講義もありましたが、さすがに倉本聰さんの講義はありませんでした。やはり、お住まいが北海道の富良野では、旅費が大変でしょう。
 二ヶ所のシナリオ教室に通った決断が功を奏し、この教室の研修科で、日本映画全盛期に、映画シナリオ123本、テレビドラマ890本を書き、“大プロ”と呼ばれていた直居欽哉氏(鶴田浩二『雲ながるる果てに』、勝新太郎『座頭市』、市川雷蔵『ひとり狼』『忍びの者』、高倉健『人生劇場 飛車角』)と出会い、やっとコンクール入選までたどり着くことができました。
 何故か、私が通っていたシナリオ教室は、シナリオ作家教室、放送作家教室も、たまたま生徒が豊作だったらしく、5人以上プロのシナリオライターになりました。しかし、今現役で書き続けている人は、私の知る限り、1人か2人だけです。
 教室の期によっては、1クラス4、50人いて、一人もプロになる人がいなかった期もあるとかで、まさに狭き門です。
 脅かすわけではありませんが、実は、そのプロのスタートラインにたどり着く前に、大勢のシナリオライター志望者が、その夢を諦め、挫折してしまうという厳しい現実があります。それほど、この業界は厳しい競争社会ですから、致し方のないことかもしれません。
 現在、日本のテレビ業界では、20人くらいのトップクラスのシナリオライターを、各テレビ局で奪い合っている状態です。
 では、トップクラスのシナリオライターになるためには、どうすればいいでしょう?
 子供の頃からの豊富な読書量、それ以降の豊富な人生経験、そして、これが一番肝心なことですが、いいコーチ(師匠)に出会うことです。
 このどれが欠けても、トップクラスのシナリオライターになるのは無理でしょう。
 さらに、“御三家”と言われた、倉本聰、山田太一、早坂暁といった、その上に“超” がつく一流シナリオライターになるには、発明王エジソンが言う所の、99%のパースピレーション(発汗・努力)と1%のインスピレーション(霊感・才能)が必要です。
 それはもう、努力だけではいかんともしがたい、遺伝を含めた“血の継承” “神の領域”と言っていいでしょう。
 直居氏からは、こんな話を聞いたことがあります。
 昭和30年代初頭、一人の若者が直居氏の自宅を訪れ、
「僕は、映画のシナリオを書きたいのですが-----」 
 と言うので、
「あなたと話していると、感覚が新しい。これからは、テレビの時代だから、テレビドラマを書いた方がいいのでは」
 と、助言したそうです。その若者こそ、テレビドラマで一時代を築くことになる、のちの倉本聰氏です。慧眼(けいがん)と言うべきでしょう。

 先ほども書きました、一般社会で超エリートと称される職業である医師、弁護士になるには、その気になって猛勉強し、難しい試験をクリアすればなれます。事実、日本の医師は、全国に30万人以上いますし、弁護士も4万人います。
 しかし、シナリオライター、小説家というフィクション作家は、試験こそありませんが、こんなにはいません。数から推測しても、現役でそれだけで生活している人は、先に書きました職業に比べ、数の上では圧倒的に少数です。ほんの一握りの人たちと言っていいでしょう。つまり、この世の中で、一番なるのが難しい職業ではないでしょうか。
 この業界は、プロのスポーツ選手同様、俳優、政治家、経営者のように、親の七光りは通用しません。実力が全てです。
 しかし、その方法、方向さえ間違えなければ、3年でプロのシナリオライターになるのは、決して夢物語ではありません。
 要は、一日でも早く書く技術をマスターし、この業界で顔と名前を知られることです。
 どの業界でもそうですが、この業界は特に、
「何人の人を知っているかではなく、何人の人に知られているか」
 が、成功のカギとなります。
 一般社会において、大学で学び、社会人としてデビューするのは、名の知れた超一流会社に入るのは別にして、それほどハードルは高くありません。しかし、スポーツ、芸能、芸術(絵画、音楽、作家)の分野でプロデビューするのは、並大抵のことではありませんし、画家のゴッホやモディリアニの例を見るまでもなく、才能、実力があれば必ず認められるという世界でもありません。
 初期の私のように、独学でシナリオを書いてはコンクールに応募している人がいますが、それではハードルの高いコンクールには入選しないでしょう。何故なら、コンクール応募作は、入選しなければ、その原稿は清掃所に直行で、添削して返却されないので、どこが悪くて一次、二次、最終に残らなかったかが分からないので、学習できないということです。
 応募してはダメ、応募してはダメの繰り返しで、進歩がないからです。その弊害を解消するためには、やはりいいシナリオコーチ(師匠)につくことが最短距離です。
 しかし、何事につけ、例外ということがあることも事実です。
 もうずいぶん前になりますが、現役の女子大生が初めて書いたシナリオをコンクールに応募して、入選したという珍しい出来事がありました。私が聞いた話では、それが最初で最後のような、唯一の事だったように記憶しています。
 その女子大生は、シナリオを書いたことがないし、シナリオ教室にも通ったことがなく、市販されているシナリオの入門書を参考にして、シナリオを書きました。
 そのシナリオは、シナリオコンクールでは珍しく、最終審査員全員一致で入選作になりました。コンクールでは、審査員の好み、考え方、見方がそれぞれ違うので、小説も含め、満場一致で入選することはまずなく、小説審査の最高峰と言っていい、芥川賞、直木賞ですら、必ず審査員の票が割れます。
 何故、その作品が高く評価されたかというと、若い女性でなくては書けない女性心理が、見事に活写されていたからです。
 つまり、審査員であるプロのシナリオライター(多分、年配の人たち)では書けない、みずみずしい作品でした。
 当然、初めて書いたシナリオゆえ、技術的にはそれほどのレベルではなかったのでしょうが、コンクールでは、“どう書くか”ではなく、“何を書くか”(注)ということが重要なポイントになります。
 プロになれば、技術など数をこなし、人の目に触れて、批判され評価されることによって、否が応でも向上します。
 そのコンクール入選者の女子大生は、そのコンクール入選のプロセス、現役の女子大生という話題性もあり、その後、映画、ドラマのシナリオ執筆の依頼が殺到し、アッという間に売れっ子脚本家になりました。
 しかし、“好事魔多し”というか、豊富な読書量、豊富な人生経験、いい師がどれも欠けていたゆえ、仕事に忙殺され、創作者としてすり減ってしまい、短命に終わり、今ではその名をこの業界で聞くことはありません。
 こういうときこそ、いい師に恵まれていれば、適切なアドバイスを受け、そういうことは回避されたと思われます。作家としての才能に恵まれていただけに、残念なことです。

(注) 私の場合も、今まで誰も書いたとのない、胆石手術の手術法をめぐる喜劇だったことが、入選したものと思われます。

 私が何故、この記事のタイトルにもなっている“プロ”にこだわるかというと、小説と違ってシナリオは、趣味でやるということが成り立たないからです。小説の場合は、同人誌、自費出版、今流行りの電子書籍という無料の自主出版で、インディーズ作家(出版社を通さないで、執筆、編集、宣伝すべて自分でやる作家)として、いとも簡単にデビューできるという手段がありますが、シナリオの場合は、あくまでも映像のための設計図なので、書いただけでは単なる紙切れでしかありません。
 映像化されて、初めて脚本料がもらえるのです。
 先ほども書きましたが、私もデビューというスタートラインにたどり着く前に、2ヶ所のシナリオ教室に通い、研修科で5人目の先生で、やっとコンクール入選という、デビューのためのパスポートを摑むことができました。
 それまでにかかった授業料は約50万円で、シナリオコンクール入賞金額が50万円だったので、「ご苦労様でした」というところでしょうか。
 50万円と言えば、こんな話を聞いたことがあります。
 あるベテランシナリオライターが思いついた、実にユニークな方法です。
 それは、シナリオを教えてもらいに来た人に対して、「前払いで50万円くれれば、必ずデビューさせてあげます」というシステムです。確かに、シナリオ教室に通ってもそのくらい必要なので、教える方としても、前払いで50万円貰えば、手取り足取り教えて進ぜようという気になり、払った方も、50万円を取り戻そうと必死になって勉強することでしょう。新人の1時間ドラマの脚本料がそのくらいですから、元本保証というところでしょうか。
 残念ながら、その人はもう鬼籍の人です。名前を聞けば、業界では知らない人はいない、有名シナリオライターでした。
 その点、シナリオ教室は、書き方は教えてくれますが、仕事を紹介してくれるアフターケアはありません。
 この記事のタイトル通り、3年でプロのシナリオライターとしてデビューするために、あなたが真っ先にすべき事は、シナリオの入門書を買ってきて、独学でシナリオを書くことではなく、いいシナリオコーチ(師匠)に出会うことです。
 その前にいかほどのものが書けるか、腕試しに独学でシナリオを書いてもいいのですが、撮影現場では一行たりとも使えないシナリオが出来上がるだけです。それは、時間とエネルギーの無駄です。
 いいシナリオコーチ(師匠)との出会いがなければ、3年でプロのシナリオライターになるどころか、永遠にプロのシナリオライターとしてデビューすることはできないでしょう。それほど、この事は最重要項目です。
 私自身の経験から、いい師に出会い、遠回りをせず、最短距離を突っ走れば、この記事のタイトル通り、3年でプロのシナリオライターになれます。
 デビューまで3年以上かけるのは、無駄な労力、遠回りです。遠回りは、プロになってからでも遅くありません。
 事実、プロになると、思い通りに行かないことばかりで、カーナビのような便利な物はないので、嫌になるほどGoalまで遠回りをさせられます。直線コースを走れる自由は、今だけかもしれません。
 直木賞受賞者を何人も輩出している小説教室で教えている講師の話では、3年教えればこの人はプロの小説家としてやっていける才能があるかどうか分かるそうです。
 この事は、スポーツの世界に例をとれば分かりやすいと思います。
 野球の場合、高校3年間で全国レベルの実績を残せば、プロ野球のドラフト会議にかけられることも可能です。
 ボクシングでも、ほとんどの人が、ジムに入門して3年あればプロデビューできますし、早い人なら1年でプロテストに合格して、プロとしてデビューできます。
「ハードパンチャーは作るものではない。生まれるものだ」
 と言われているように、パンチ力は生まれついてのものです。それゆえ、生まれついてのハードパンチを持っていれば、あとはプロで通用するテクニック(攻撃力、ディフェンス)を身につければ、3年で世界タイトルに挑戦することも、決して夢物語ではありません。
 この場合も、有能なトレーナーに出会うことが必須です。
 かつて、プロボクシングの世界に、“ミスター・ノックアウト”と呼ばれた、世界バンタム、フェザー級チャンピオン、ルーベン・オリバレス(メキシコ)というボクシング史上に残る名選手がいました。戦績88勝(77KO)13敗3分。
 彼が、ボクシングをやろうと、初めてボクシングジムに入ってきたとき、その姿をたまたまジムにいて見ていた、12人の世界チャンピオン(カルロス・サラテ、アルフォンソ・サモラ、アレクシス・アルゲリョ-----etc.)を育てたクーヨ・エルナンデスという名トレーナーは、オリバレス少年を一目見ただけで、「この少年は将来、世界チャンピオンになるだろう」と、思ったそうです。
 身長162cm、リーチ172cm(普通の人は、身長とリーチが同じ長さ)、カモシカのようなよく引き締まった細い脚、小さい顔、厚い胸板、どっしりした腰回りを見て判断したと思われます(まだ少年の面影を残したオリバレスは、もっと小柄だったことでしょう)。
 目利きとは、そういうものです──。
 元世界ヘビー級チャンピオン、マイク・タイソンも、刑務所に服役中にカス・ダマトという世界ヘビー級チャンピオン、フロイド・パターソンを育てた名トレーナーに出会い、ボクシングに人生の再起を賭け、世界チャンピオンにまで上り詰めました。しかし、カス・ダマトの死によって、心の支えを失った彼の凋落が始まったと言っても過言ではありません。
 プロ野球の世界でも、王貞治選手には、荒川博、イチローには仰木監督、新井宏昌コーチ、落合博満選手には、山内一弘という名コーチの存在がありました。
 マラソンでも、アベベにはオンニ・ニスカネンという名コーチがいましたし、瀬古利彦選手には、中村清という名コーチがいました。名選手の陰に、名コーチありというところでしょう。
 みなさんも、本気でプロのシナリオライターになるつもりならば、そういう名コーチに出会うことが先決です。
 よく見受けられるのが、シナリオを書いてコンクールに応募する前に、友達に読んでもらって感想を聞く人がいますが、これはまったくの無駄な行為です。
 シナリオは、映像のプロ(プロデューサー、監督、俳優、カメラマン、照明、音声-----等々)の為に書く映像の設計図なので、ある程度の経験、読解力が必要です。小説は読者という一般人に読んでもらう物ですが、ことシナリオは、プロがプロのために書く“映像の設計図”と言っていいでしょう。
 かつて日本映画全盛時代、イチスジ、ニヌケ、サンドウサと言われていました。
①   スジ(ストーリー・脚本家)
②   ヌケ(映像・監督)
③   ドウサ(演技・役者)
 つまり、脚本が良くなければ、どんなにいい監督がメガホンをとって、いい役者がキャスティングされていても、傑作はできないということです。
 そういう脚本が分かる読み巧者、ゴルフで言うところの、優秀なレッスンプロにつく必要があるのです。誰につくかで、その作家人生が決まると言っても過言ではありません。
 私の好きな言葉に、
「一日に千里の道を行く馬はいつもいるけれど、それを見つける伯楽は、いつもいるわけではない」という中国の諺があります。
「才能のある人はよくいるけれど、それを見つけ育てる人は、なかなかいるものではない」ということです。
 この言葉通り、名伯楽に出会うには、運が左右します。が、『孟母三遷の教え』のように、シナリオを独学で学ぶ以前に、まずは名伯楽を探すことから始めるのがいいかと思われます。
 スポーツでも、最初にダメなコーチについて、変な癖をつけると、あとあと矯正するのが大変です。まったく白紙の状態のときに、優秀なコーチにつけば、あなたの未来は約束されたようなものです。
 東京から北海道に行くのに、自分では方向が分からず、西の方に第一歩を踏み出しては、いつまで経っても、目的地の北海道にたどり着くことはできないでしょう。逆に、西に向かってどんどん目的地から遠ざかっていくようなものです。
 そんな初歩的な過ちを犯さないためにも、まずはこの業界の事をよく知っているベテランのシナリオライターに、的確なアドバイスを受けることが肝心です。
 その為にはどうするか-----? 
 シナリオ教室に通うのもいいでしょう。基礎科では、多数のシナリオライターの先生の講義が聴けます。研修科にいけば、個人的に教えてもらえます。
 前にも書きましたが、私の場合いい師に出会ったのは、2ヶ所目のシナリオ教室、5人目の先生でした。最初のシナリオ教室の研修科は、教えてもらう先生を、自分で選ぶシステムではなく、その期によって先生が違い、今回の研修科の教師は、この人たちですと、主催者側で指定してくるので生徒の方では選べませんでした。
 残念ながら、このときの教師は、三人とも私の書きたかったエンタテインメントの作品を書く人たちではなく、小説で言えば、テーマの先行した純文学風の作品を書くシナリオライターで、ドラマでは芸術祭風で、いまいちしっくりいきませんでした。
 2ヶ所目に通った教室の研修科で最初に教えてもらった先生には、
「あなたは、絵で語りすぎる」と言われ、「シナリオって、文字で絵を描くことだって入門書に書いてあったけどなあ-----?」と思い、「こりゃあ、あかん-----!!」と、その先生はラジオドラマが主戦場のライターだったので、さっさと見切りをつけて、映画の大御所と言われていた脚本家の先生の教室に移りました。
 この決断が大正解で、やっと運命の扉に手がかかったと言っていいでしょう。
 ここで、師を選ぶ場合気をつけないといけないのは、私にとっていい先生が、必ずしもあなたにとって、いい先生ではないと言うことです。
人間には、相性という物がありますから、それを考慮にいれて先生を選ぶ必要があります。
 先生を選ぶ基準は、生徒から何人コンクール入選者が出ているか、あるいは、プロになった生徒が何人いるかでしょう。
 中には、何人もコンクール入選者が出ているのに、プロになった人が少ないという現象もあります。それは、その先生が原稿を添削し、その通りに書き直せば入選ラインに達します。しかし、そのやり方では、先生が浮袋になってしまっていて、いつまで経っても、プロで独り歩きできなくなってしまいます。
 2ヶ所目の研修科の教室は、最初に通った教室とは違い、研修科では1人の先生がそれぞれ1クラス受け持っていて、希望する教室に空きがあれば入れるシステムでした。私の場合は、運良く、書きたかったエンタテインメントの映画シナリオを書く先生の教室に入ることができたことは、幸運でした。
 それが、私の運命を切り開いたと言っていいでしょう。
 まさに「人が、運とカネとチャンスを持ってくる」と言われる通り、その先生との出会いが全てでした。
「成功の秘訣は、決して諦めないことだ。成功するまで、やり続けることだ」「目的地を持たない船には、追い風は吹かない」というところでしょうか。
 それまでコンクールに応募しても、一次は通るのですが、なかなか二次まで行かなかったのが通るようになり、あっさりと最終まで残り、あれだけハードルが高かった入選というラインもクリアしてしまいました。
 その作品は、師が病気だったこともあり、誰にも添削してもらわずに書き上げました。
 しかし、その作品をコンクールに応募したとき、
「これは、ひょっとすると、ひょっとするのでは-----」
 という確かな手ごたえ、予感がありました。
 コンクール入選の連絡の電話がかかってきたときは、
「やっと、これで世に出られる!!」と、思ったものです。
 その日のことは、月並みな言葉ではありますが、昨日のように鮮明に覚えています。忘れもしない、6月1日でした。
 その電話を切ったあと、世の中がどう変わって見えるのか、自転車で多摩川土手をサイクリングしてみました。きっと今までくすんで見えた景色が、バラ色に見えるのかと思いましたが、いつも通りだったのには、ちょっとがっかりしましたが-----。

 最後にこの章の結論を言いますと、コンクール入選という感動は、一生に一度しか味わえない、何物にも代えがたいものがありますが、あくまで目的はプロのシナリオライターになるということです。その感動を実感するために、遠回りして時間を浪費するのは愚かなことです。
 プロになれば、脚本料で寄り道の資金は、いくらでも調達できます。デビュー前のカネのないときは、直線コースを走って、無駄金は使わないことです。私のように、一本の脚本料50万円以内の投資(授業料)で済まして下さい。
 コンクール入選は、この業界へのパスポートにはなりますが、座席指定のチケットにはなりません。
 新幹線で言えば、1号車から3号車、9号車から11号車の自由席のホームに並んでいても、必ず座れるとは限りません。座れるまで何本か見送らなければならないでしょう。それに耐えられることができる人だけが、この業界行きの電車に乗れます。
 私のモットーである、「忍耐する者は、欲しい物を手に入れる」 というところでしょうか。
 プロのシナリオライターとしてデビューするということは、あくまでゴールではなく、スタートラインです。この記事を参考に、少しでも多くの方が、プロデビューというスタートラインにたどり着かれることを願っています。

(二)売り込み

『コンクール』で書きました通り、コンクール入選は、この業界へのパスポート、つまりシナリオがある程度書けるという証明書にはなりますが、即デビューとはなりません。私の知る限り、コンクール入選後、永遠にデビューできなかったという人の方が多いと思われます。
 フジテレビのヤングシナリオ大賞を除いては、
「入選おめでとうございます。では、お元気で」で、お終(しま)いです。その後のフォローはありません。それが実情です。
 私の場合も、テレビ局主催のメジャーな新人シナリオコンクールに入選したものの、それがきっかけでデビューはできませんでした。
 入選したときは、
「さあ~、いよいよ待ちに待った開幕のベルが鳴る!!」
 と胸躍らせていたのですが、コンクール主催のテレビ局からは、なんの連絡もありませんでした。
 私の前の回に入選した二人が、そのときの最終審査員だったプロデューサーに、
「コンクールに入選したのに、どうして使ってくれないんですか-----!?」
 と抗議に行ったそうですが、やはり仕事は来なかったそうです。
 私のときも、そのプロデューサーが最終審査員だったので、同じような主旨(しゅし)の電話をしましたが、
「あなたのように、コンクールに入選して出番を待っている人が沢山いるので、まあ、待つしかないんじゃないですか」
 と、突き放すような冷たいお言葉でした。
 電話では埒(らち)が明かないと、直接そのコンクールの責任担当者だった、別のプロデューサーに企画書を持っていきましたが、「うちの局には、この企画書を読んで、どうこうするシステムがないんですよ」
 と言って、企画書も読まずに、その場で突き返されました。
「ないのなら、そういうシステムを作ればいいじゃないですか」
 と、抗議しようかと思ったほどでした。
 “暖簾に腕押し”というのは、こういうことを言うのでしょう。
 以前は、その局に企画を持っていけば、何かをやらせてくれるのではという期待感、冒険心があったそうです。その排他性が、その後、そのテレビ局の凋落が始まった原因だと思われます。
 後で聞いた話では、そのコンクールの責任担当プロデューサーは、正社員ではなくて、契約社員だったそうです。言っては悪いですが、アルバイトレベルの人が、コンクール責任者というのは、コンクール応募者に対して失礼でしょう。
 コンクールに応募する人たちは、みんな人生を賭けて渾身の作品を提出してくるのですから、それなりの責任のある人が担当すべきです。
 コンクールの審査員に聞いた話では、そのコンクールの主催者側の担当者が、面倒見のいい人かどうかで、入選者のその後が左右されるそうです。面倒見の悪い人だと、それでジ・エンドです。
 聞けば、そのコンクールには、宣伝費とかもろもろの費用が、1億円もかかったそうです。それなのに、コンクール後のフォローがないとは、なんとも情けない話です。
 それに、ライバル局のフジテレビヤングシナリオ大賞受賞者に、ゴールデンタイムの連続ドラマを書かせているのですから、なんとも節操のない話です。
 久米宏さん司会の『ニュースステーション』も、最初はその局に持ち込まれた企画だったそうですが、断られたそうです。
 
 物事は諦めかけたときが、成就する前触れだと言いますが、コンクール入選のときも、何度もチャレンジして入選しないので、今度応募してダメだったら、もう諦めて小説の方に転向しようと思っていた矢先でした。
 こんな話を、何かの本で読んだことがあります。
 昔々、アメリカかアフリカでダイヤモンドか何かの鉱脈を探す山師が、なかなか鉱脈にぶち当たらないので、「もう、ダメだ!!」と諦めて、ツルハシを持ち帰るのも嫌になり、引き上げて行きました。
 それから何年かして、鉱脈を探し当てる機械が発明され、それで調べると、山師が置いて行った土地に突き刺さったままの、錆びたツルハシのわずか1メートル下に、大鉱脈があったそうです。1メートルといえば、1日あれば掘れる深さです。
「成功する秘訣は、成功するまで諦めないことだ」
 というのは、どうやら真実のようです。
 業界に詳しい人の話では、どのコンクールに入選するかで、その後の作家生活が左右されるそうです。
 私と同時期にフジテレビヤングシナリオ大賞を受賞した人は、その後、NHKの朝の連続テレビ小説を書くわ、映画は書くわ、民放のゴールデンタイムの連続ドラマを何本も書くわで、今や売れっ子の脚本家になっています。
 要は、きっかけというところでしょうか。
 何でもそうですが、“きっかけを摑む” ということが、一番大変なことです。それを“親の七光り”で、いとも簡単にきっかけを摑んで世に出る人を見るにつけ、どうにも納得のいかないものがあります。政治家、経営者は、地盤看板の継承があるので理解できますが、この国では、他国に比べて、俳優で親の背中を追う人が多いのは、よく理解できません。
 外国では、ジョン・ウェインの息子、アラン・ドロンの息子、ジャン・ポール・ベルモンドの娘といった大物俳優の子供でも、成功しなかったそうです。それだけ外国のショービジネスは、厳しいということでしょう。が、日本では、名のある俳優の子供のオンパレードと言ってもいいでしょう。何がそうさせるのか、不思議です。
 一般人より家にいる時間が多いにもかかわらず、高収入だからと聞いたことがありますが、よく理解できません。

 普通、入選作はテレビ用シナリオコンクールの場合は、業界誌である『ドラマ』という月刊誌に掲載されるのですが(映画の場合は、『シナリオ』)、私の場合、それさえもありませんでした。掲載されていれば、それを読んだ制作者サイドの人(プロデューサーorディレクター)が、
「う~む、この人、なかなか面白い物を書くじゃないか。一度会ってみるか」
 とお声が掛かり、トントン拍子にデビューできるのでしょうが、そういうおいしい話はまったくありませんでした。
 私のデビューのきっかけは、想定外のまったく思いがけない所から来ました。
 そういう経緯なので、その入選作は審査員以外には読まれませんでした。
 映像化されていれば、キャスティング(そのコンクールは、作家のセンスを見るため、キャスティングを書く指示あり)のセンス、セリフのテンポの良さなどが高く評価されたので、他局のプロデューサーや、制作会社のプロデューサーから、
「う~む、この作家、センスいいな、面白いセリフを書くよな」
 と認知されたのにと思うと、残念でなりません。
 事実、『ドラマ』誌に載った選評には、
「セリフのテンポの良さが高く評価された」
 と、書かれていました。自分で言うのもなんですが、倉本聰さん流の、緩急つけた言葉のキャッチボールが得意なのです。
 ああ、それなのに、それなのに-----。というところです。
 セリフの話が出たので、ちょっと本題とは離れますが、しばしおつき合い下さい。
 私がシナリオの習作時代に、いろんなライターの書かれたシナリオを読んだり筆写して感じたことは、テレビドラマのシナリオの書き方は、倉本聰さんの書き方が理想形ではないかと思います。
 

─────────────────

  来る太郎。
      ×   ×   ×
  椅子に座って話している太郎と次郎。
太郎「それで-----」
次郎「だからさあ-----」
太郎「-----」
次郎「そういうことよ-----」
太郎「うん、そうか、そうだよなあ-----」
      ×   ×   ×
  去っていく太郎。

(× × ×は、時間経過を表す記号です)
(倉本さんの場合は、「-----」ではなく、「──」棒線です)

        ─────────────────

 これは、倉本さんのシナリオスタイルを私なりに真似て書いた物ですが、たったこれだけの短いセリフとト書きでも、前後のト書きを読めば二人の人間関係が分かり、セリフによっては、これだけ凝縮されたセリフでも感動が伝わってきます。
 いわゆる断定的なセリフではなく、倉本さん特有の曖昧(あいまい)なセリフです。確かに、人は日常生活の会話では、こういう曖昧なセリフをよく言っているものです。
 それと対照的なのが、橋田壽賀子さんのセリフでしょう。
 シナリオ教室や、シナリオの入門書では、セリフは三行以内に書かなくてはいけないと教えますが、橋田さんのセリフは、長ゼリフが特徴で、一人のセリフが台本の1、2ページも続くことはザラだそうです。それゆえに、橋田さんの脚本は、公表されたことがなく、私も一度も目にしたことはありません。
 伝え聞くところによると、橋田さんの脚本は、セリフだけでト書きが一切ないと聞きました。何故なら、演出家がいつも気心の知れた常連で、ト書きを書かなくても、どういう動作、芝居をすればいいか演出家には分かるそうです。
 
 さて前置きが長くなりましたが、この回の本題に入ります。
 コンクールの次のデビュー方法といえば、売り込みでしょう。
 しかし、この売り込みという方法も、コンクール同様、向き不向きがあります。
 私も以前、某大手飲料メーカーの飛び込み営業の仕事をしていたことがあり、赤字だった販売所を1ヶ月で黒字にしたほどの営業力がありましたが、この業界はガードが堅く、テレビ局に飛び込みで企画の売り込みに行っても、入り口に守衛がいて、アポがないと絶対に入れてくれません。
 昭和40、50年代のテレビドラマ全盛時代には、
「ちょっと赤坂に来たので、寄ってみました。新宿に来たので、寄ってみました。渋谷に来たので、寄ってみました」と、気軽にTBS、フジテレビ、NHKに入れたらしいですが、今は守衛が立っていて、アポなしでは、まず中に入れてくれません。
 電話でプロデューサーにアポを取ろうとしても、
「今、忙しいので」
 の一点張りで、なかなか容易に会ってはくれません。
 昔は、ちょっと近くに来たので寄って、雑談の中からいい企画が生まれ、ドラマ史上に、あるいは映画史上に残る傑作ができたそうですが、今はそんなことは夢のまた夢、古き良き時代の話です。
 現在のように、やれ企画書だ稟議書だと言って時間をかけているうちに、今が旬の企画が旬でなくなってしまいます。企画は、採れたての野菜同様、旬が命ですから、時機を逸すると商機を失ってしまいます。
 報道の分野でも、ニュースの語源は、“新しい”を意味する言葉ですが、ニュースペーパー(新聞)やテレビのニュースは、現在では、ワンテンポもツーテンポも遅れて、瞬時に報道されるネットニュースに比べ、最早ニュースとは言いがたいものがあります。
 ビジネスは、何よりスピードが大切です。特に生き馬の目を抜くこの業界は、早い者勝ちです。
「それと同じ企画、自分も考えていたんだけどなあ-----」
 では、この業界では遅いのです。たとえ盗作であろうと、先に作品化した方が勝ちです。
 盗作とは真逆の、こんな話を聞いたことがあります。
 日本映画史に残る、ある傑作映画の裏話です。
 その作品は、某シナリオ教室で、一生徒さんが教室の卒業制作で提出した映画のプロットでした。
 数年後、そのプロットを目にした映画関係者(プロデューサーか脚本家か監督)が、これを映画化しようと思い立ち、それを書いた人をシナリオ教室の名簿を頼りに、アパートに訪ねて行ったそうです。しかし、彼はもう引っ越してそこにはいませんでした。
 登録しない限り、プロットには著作権はありません。(注)
 しかし、その映画関係者は良心的な人で、彼の承諾を得ようと、わざわざ彼の出身地まで訪ねて行きました。
 しかし、彼はもうシナリオライターになることを諦め、生まれた土地で結婚し子供もでき、家族と共に、平和で人並みの生活を送っていました。
「あなたの書いたこのプロットを、映画にしたいので、ぜひ使わせてもらえないだろうか?」
 と、その映画関係者が言うと、
「はい、いいですよ。もう私は、シナリオライターになろうなどと、大それた夢は持っていませんから、どうぞ、ご自由にお使い下さい」
 と、彼は迷うことなく答えたそうです。
 もし、シナリオ教室で、そのプロットに目を止める人がいて、その時点で彼に声を掛けてくれていれば、彼の人生は変わっていた筈です。シナリオライターになるという夢を実現して、今では売れっ子のシナリオライターとして、山田太一、倉本聰氏のように、名を成していたかもしれません。
 人の一生は、ちょっとした行き違い、すれ違いで大きく変わってしまいます。
 人生とは、そうしたものかもしれません-----。

(注) どこかに企画書を登録すれば、その時点で、当方は、この年月日に確かにこの企画書を受理しましたという封をして、その上に年月日の判を押してくれるそうです。そうしておけばアイデアを盗まれたという場合、訴えればこれが証拠となって裁判で有利になります。

 もとよりシナリオは、小説と違って作品ではなく、商品と言っていいでしょう。それゆえ芸術ではなく、ビジネスという感覚でやらないと失敗します。つまり、ドラマや映画の企画書は、ビジネスの企画書を書く感覚で書いた方がいいようです。下手に肩肘張って、
「自分は、芸術をやるんだ!!」
 と企画書を書いていては、いつまで経っても企画は通りません。
 芸術祭賞というのがありますが、あれは、視聴率度外視で、こむずかしい題材を書いて、賞を狙って書く物らしいです。
 小説で言えば、ストーリー主体のエンターテインメントではなく、テーマ重視の純文学というところでしょう。
「うちの社は、文学してます」
 とステイタスを保つために、赤字覚悟で、売れない文芸雑誌を出しているようなものです。
 経験上、企画の売り込みはお手の物なので、プロデューサーとタイミングが合って、コンタクトができて企画書を渡すことができたとしても、まず返事は来ません。しびれを切らして、電話をしても、
「いやー、バタバタしていて、まだ読んでないんだよ。読んだら、こっちから電話するよ」
 と言われます。しかし、その後、連絡が来ることは、まずありません。
 どういうわけか、「バタバタしていて-----」というのが、業界用語なのか、10人中、半分以上がこの言葉を発します。
「引っ越しでもしとったんかい-----!?」
 と、思わず突っ込みを入れたくなります。が、そんなことを言ってはいけません。あくまで営業は、下手(したて)に下手にが原則です。高飛車、タメ口は厳禁です。そんな態度をとろうものなら、すぐに出入り禁止になってしまいます。
 キー局のプロデューサーは、給料も社会的地位も高いので、上から目線で、妙なプライドを持っている人が多いのも事実です。
 その点、女性のライターは得かもしれません。
 一時期、“オヤジ転がしのお姉ちゃんライター”と言われたように、ルックスに恵まれた人は、時代劇ではありませんが、
「愛(う)い奴、近(ちこ)う寄れ」となります。
 何故かこの業界の女性ライターは、
「道を間違えたんじゃないの? 女優になった方がいいんじゃないの?」
 と思うほど、ルックスに恵まれている人が多いです。まあ、仕方がありません。小説は、「作品さえよければ、容姿は問わず」というところがありますが、シナリオの場合は、小説と違って、個人作業ではなく、プロデューサーやスタッフとの打ち合わせがありますから、共同作業という面が強く、人に好かれないと具合が悪いようです。
 それに、今はいわゆるF1層(20~34歳)、F2層(35~49歳)と言われるテレビドラマのメイン視聴者層がターゲットですから、その年齢のシナリオライターが重宝(ちょうほう)がられます。
 制作会社のプロデューサーに聞いた話では、今は昔と違って、
「よろしくお願いします」
 と、シナリオのすべてをライターにお任せではなくて、あらかじめ局のプロデューサーが、ストーリー、キャラクターを作っていて、パズルを埋めていくように、リアルタイムでその年齢層を生きている女性ライターの、リアルなセリフを求めているそうです。
 そういうやり方では、どういう現象が起きるかというと、山田太一、倉本聰、向田邦子氏などのような、作家性が出てこないということです。
 もう賢明なるこの記事の読者はお分かりでしょうが、作家性が失われたということは、どのドラマもテレビ局こそ違え、右向け右、左向け左で、金太郎飴のような、既視感満載のドラマになってしまいます。ついでに言わせていただければ、金太郎飴現象は、作品だけではなく、制作者サイドの人にも言えます。
 かつて映画、テレビ業界の草創期には、現在のように大卒の受験エリートの集まりではなく、学歴は関係なく、玉石混交(ぎょくせきこんこう)で、ダメな人はからっきしダメだが、優秀な人は、飛びぬけていたそうです。
 その代表が、黒澤明監督、木下惠介監督(ともに中卒)、溝口健二監督、新藤兼人監督(ともに小卒)さんたちでしょう。
 しかし、今は、この業界は大卒しか採用しないので、発想が似たり寄ったりで、人としても苦労していないので、面白みに欠ける人が多いのも事実です。
 かつて、ダスティン・ホフマン主演の、『トッツィー』という傑作映画がありましたが、売れない男優が、女装して女優になったとたんに売れっ子になったというストーリーです。
 残念ながら、シナリオライターは、男と女では発想、タッチが違いますからその手は使えません。と思っていたら、少女漫画などの原作者が男なのに、読者が女の子なので、作者名を女性の名前にしていると聞いたことがあります。
 まあ、夢を売る職業ですから、商魂たくましいと言うか、何というか-----。
「売れれば、それが正義だ!!」というところでしょうか。
 あなたも、男女を問わず、「愛い奴、近う寄れ」と思われるようにしましょう。
 そうすれば、いつか道は開けます。嫌われれば、その“いつか”は、永遠に訪れないと覚悟しておいて下さい。あなたの後ろには、順番待ちをしている大勢のシナリオライター予備軍がいることを、忘れてはいけません。
 これは、大手出版社の小説雑誌の編集長から直接聞いた話ですが、小説家はシナリオライターとは逆に、わがままで、あまり人に好かれない人の方が不思議と成功するそうです。
 シナリオと違って、共同作業ではなく、あくまで編集者は、伴走者的な位置取りなので、作品さえよければそれでいいみたいです。「嫌な奴」と思われても、作品が良ければノープロブレムです。
 それゆえに、小説家は個性的な人が多いです。曲者ぞろいと言ってもいいかもしれません。
 ある高名な推理作家の人は、出来上がった原稿の中の、1ページか2ページぐらい、わざと抜いて編集者に渡して、その旨、編集者から連絡が来たら、
「あれッ、抜けてた?」とすっとぼけて、あとで取りに来させていたそうです。
 そうかと思えば、原稿を取りに来た編集者を外に待たせて、二階から「いちま~い、にま~い、さんま~い」と、番町皿屋敷のように、投げて渡していたそうです。
 その作家は、小卒の学歴で、編集者はみな大卒のエリートなので、学歴コンプレックスがトラウマになっていたのではと思われます。シナリオライターがこんなことをすれば、二度と仕事は来ないでしょう。
 自分のルックスや性格に自信がなければ、ペンネームを使用して、打ち合わせには、アシスタントか個人マネージャーを行かせて、決して姿を見せない、年齢も本名も明かさない覆面作家、謎の作家、“現代の写楽”を目指すのも手かと思われます。

 営業は、商品を売り込むだけではなく、自分を売り込むことでもあります。相手に気に入ってもらえないと、次はないと思って下さい。真剣勝負のつもりで、気を抜かないで対面して下さい。不用意なたった一言が命取りになります。
 極力、嫌われることは慎みましょう。それが、売り込みの基本です。
 営業の基本は、饒舌(じょうぜつ)ではなく、相手の話をよく聞くことです。相手が話し終わったのを見計らって、タイミングよく、こちらの言い分をさり気なく言うと、すんなり受け入れられます。“自分が自分が”では、商談はうまくいきません。
 シナリオライターは、自分で営業もやるのだったら、ライターの顔だけではなく、ビジネスマンの顔も持たなくてはいけません。
 ディベート(討論)の達人でなくてはいけません。
 この業界の事ではありませんが、大手家電量販店で初めて携帯電話を買ったときに経験したことですが、参考までに-----。
 対応してくれたのは若い男の店員で、まだ新米らしくこちらの質問に、
「ちょっ、ちょっと待って下さい」
 とパンフレットを見ながら、気の毒なくらいに汗を掻きながらたどたどしく答えていました。私には、その一生懸命さが心に伝わり、その店員から、記念すべき初めての携帯電話を買いました。
 ひょっとすると、その店員にとって、私が初めての成約客だったかもしれません。
 私も、以前飲料メーカーの飛び込み営業をやっていたときに、初めて成約したお客さんの顔、名前、居住地を今でもハッキリと覚えています。営業経験をした人にとって、初めて成約してくれたお客さんというのは、それほど記憶に残っているものです。
 営業の仕事を始めるときに、研修期間中に先輩営業マンに言われたことは、この一生懸命さが、相手に伝わることが大事だということでした。
 その後、何回か携帯電話を買い替えましたが、中にはセールストークを丸覚えで、スラスラ言えるのはいいのですが、こちらの目を全然見ないので、まったく誠意、一生懸命さが伝わらず、その店員からは買いませんでした。
 営業とはそうしたものです──。

 プロデューサーは、連続ドラマの仕事が進行中だと、忙しくて新人シナリオライターの企画書など、読んでいる時間はありません。ちなみにシナリオができているからと、シナリオを持ち込んでも、100%読んではくれません。嫌な顔をされるだけです。
 この業界は、最初に企画書ありきです。1に企画書、2に企画書、3、4がなくて、5に企画書です。
 野球の格言に、『バットは振らなきゃ、何も始まらない』というのがありますが、この業界も、企画が通らなくては何も始まりません。
 一般の商品は、その商品を買うかどうかの決定権を持っている人に、アプローチするのが成約の鉄則です。
 私も新人の頃、制作部のプロデューサーに企画書を書いては出し、書いては出ししていたのですが、なかなか通らないので、ひょっとして、この業界は、制作部より編成部の方が決定権を持っているのではと思い直し、某テレビ局の編成部に飛び込みで企画を売り込みに行ったことがあります。
 たまたま、その編成部の人が、今度深夜のドラマ枠のプロデューサーをやるとかで、企画書を書いてきてくれないかと頼まれました。
<なんて、ついてるんだ!! やっとツキが巡ってきたぞ!! やはり、営業の鉄則は、断られても断られても、数をこなすことだな>
 と、飲料関係の営業をやっていた頃の感覚を思い出したものです。しかし、何本書いても企画は通りませんでした。
 このとき、オンエアされた他の人が書いて採用された企画のドラマを観ましたが、
<う~む、自分の書いた企画書の方が面白いのになあ----->
 と思ったことは、一度や二度ではありません。
 それは、『世にも奇妙な物語』のプロットを、制作会社に何度も持ち込みに行ったときにも感じたことでした。
 この業界、ボツになった企画やコンクールで次点になった作品の方が面白いという話は、制作者サイドや審査員からよく聞く話です。
 そのテレビ局の編成部のデスクの上には、持ち込み原稿が積み重ねられていて、
「持ち込み原稿がこんなにあるんだけど、忙しくて読めないんだよね。君、これ読んでドラマになるかどうか、感想を聞かせてくれる」
 と言われ、その原稿を持ち帰って読んだことがあります。
 その原稿は、某大手出版社が主催するメジャーな小説コンクールで、入選はしなかったものの、二次(最終候補5~10本の手前、50~100本ぐらい)まで通過した作品でした。
 そのことが、持ち込み原稿に同封された作者の手書きの手紙に、切々と書いてありました。
 その頃、私もそのコンクールに応募して、やはり二次まで通ったことがあったので、
<そうか、売り込みは、我々シナリオライター志望者だけでなく、小説家志望の人からもあるんだ。みんなデビューのきっかけが欲しいんだなあ----->と痛感したものです。
 しかし、その原稿は、私の読んだ限りではドラマには不向きかと思われ、その旨、プロデューサーに伝えました。
 そういえば、某映画会社の企画部に企画書を持ち込んだときも、デスクの上に、市販されたマンガ本が山のように積み上げられていました。
 これは、小説の話ですが、ある作家志望者が、エージェントに作品を見せたら、「つまらない」と原稿を突き返されたそうです。
 しかし、その作家志望者は諦めないで、他のエージェントにその作品を見せました。そのエージェントは、「面白い」と言って、出版社に原稿を持ち込んでくれました。しかし、いつまで経っても返事はなく、諦めかけていた頃、出版社から出版してもいいという返事が来ました。
 その持ち込み原稿も、多くの持ち込み原稿と一緒に、その出版社の社長のデスクの上に、積み上げられていました。それを、社長の8歳になる子供が偶然手にして読んで、
「パパ、この本、面白かったよ」と言ったのがきっかけで、出版に至りました。
 その本は、やがて世界的なベストセラーになりました。
 その本こそ、J・K・ローリング氏の書いた、『ハリー・ポッターシリーズ』の第一話です。
 世の中、どこにチャンスが転がっているか分かりません。
 今や、書いた作品がことごとくハリウッドで映画化されるベストセラー作家、スティーヴン・キング氏も、何度も何度もエージェントの家のポストに原稿を放り込んで、やっとエージェント契約を結び、現在の成功があるといいます。
 スタンダールの不朽の名作『赤と黒』は、初版はたった30部しか売れませんでした。世の中、何が起きるか分かりません。
 最後の最後まで諦めてはいけないということです。
 しかし、この業界の仕来りなのか、企画が通ったとしても、シナリオは書かせてはくれません。
 一応、業界の相場として、企画が通れば、3万円が銀行口座に振り込まれます。しかし、それだけのことで、シナリオは実績のあるシナリオライターに発注されます。
 視聴率最優先の民放テレビ局では、致し方のないことかもしれません。高いカネを払っているスポンサーにとっては、視聴率が取れるシナリオライターでなくては、納得してくれません。
 前章でも書きましたが、今、各テレビ局が奪い合っている視聴率の取れるシナリオライターは、20人前後です。
 日々、熾烈な視聴率競争が繰り広げられている、戦場のような現場で、実績のない無名のシナリオライターに書かせる余裕などありません。
 大体が、ベテランのシナリオライターは、企画書をあまり書きたがりません。企画書を書く時間があったら、シナリオを書いた方がいいという考えだと思われます。彼らが企画書を書いても10万円が相場で、シナリオを書いて100万円~200万円貰った方が効率がいいからでしょう。
 今はなくなりましたが、以前日本テレビで、2時間ドラマの草分けとも言うべき、火曜サスペンス劇場、通称“火サス”という枠がありましたが、企画書はペラ(200詰め原稿用紙)で50枚ぐらい書かされます。
 私も制作会社のプロデューサーに頼まれて、書いたことがありましたが、そんな枚数を書く時間と労力があるのなら、短編小説を書いた方がいいのではと疑問を持ちながら書いていました。
 逆に、NHKの企画書は、A4用紙1枚です。そのくらいの枚数なら、腕の見せ所、書いてやろうじゃないかという気になります。
 ちなみに、川端康成氏の傑作短編小説『伊豆の踊子』は、400詰め原稿用紙で、50枚ぐらいしかありません。
 プロデューサーは、口をそろえたように言います。
「今回は、シナリオは書いてもらえないけど、次回は書かせてあげるから、今回は泣いて下さい」
 しかし、次回必ず書かせてくれるという保証はありません。それが現実です。そういう仕打ちが何回も繰り返されます。
 私のシナリオの師である直居欽哉氏の逗子の自宅に、何度か行ったことがありますが、あるとき先生の奥さんが、
「うちの主人も、最初の頃、何本も企画書が通ったのに、シナリオを書かせてくれなくて、悔しい思いをしたんですよ」
 と、おっしゃっていましたから、どうやらこういうことは、今に始まったことではないようです。
 こういうときに、ハリウッドのようにエージェントがいればいいのですが、日本にはそういう気の利いたシステムはありません。
「私、書く人。あなた、売る人」という分業システムがあればいいのですが、日本にはまだありません。
 最近、作家のマネジメント会社ができつつありますが、まだ確立されていないようです。
 マネジメント料は、脚本料の15~20%が相場らしいです。
 しかし、二次使用(再放送の場合、脚本料の50%もらえる)もマネジメント料をもっていくらしく、問題になっているようです。
 私も、一度、大手映画会社のプロデューサーに、そういうことをやっている会社の人を紹介されて、実際に仕事をしたことがありますが、本来なら、制作会社のプロデューサーとサシでやるところを、間にマネージャーが入って、企画書の段階でゴチャゴチャ言うものだから、やりにくくてしょうがなかったことがあり、一度で懲りてやめました。
 このときは三人でしたが、それでも『船頭多くして船山に上る』ということを痛感しました。
 この業界に詳しい人に、
「シナリオライターに、マネージャーは必要ですかね?」
 と相談すると、
「ぼったくられるだけだから、やめた方がいいよ。アメリカと違って、日本では、そのやり方はうまく行かないと思うよ。間に余計な人(マネージャー)が入ると、嫌うプロデューサーもいるしね」
 と言われました。確かに、どの業界もきっかけを摑むのが大変ですが、一回きっかけを摑んで売れれば、向こうから仕事が入ってくるので、マネージャーは必要なくなるかもしれません。
 きっかけだけ摑んで、
「あとは、自分でやるからいいです。もうマネージャーは必要ありません」
 なんて言ったら、
「なんだ、こいつ。利用するだけ利用して、恩知らずな奴だ」
 と思われ、逆に潰しにかかるかもしれません。
 狭い業界です。いい噂は、なかなか拡散しませんが、悪い噂は、アッという間に拡散します。下手をすると、その噂が命取りになるかもしれません。
 それに、毎回ギャラの15%~20%マネジメント料を取られていては、確かにもったいない話です。
 聞いた話では、売れっ子になれば、一ヶ月で100本の仕事の依頼の電話がかかってくるそうです。中堅クラスの脚本料が、1時間ドラマで、100万円ぐらいですから、その依頼を全部こなせば、単純計算して1億です。その15~20%のマネジメント料だと、千五百万~2千万円というところですか。イタリアの高級外車フェラーリが1台買える額です。そうなると、マネージャーなど必要なくなるでしょう。
 ハリウッド映画のように、1本映画のシナリオを書けば、1~10億円貰えて、プロフィットシェア契約(興行収入の何%かを貰える)をすることができれば、繁雑な契約を自分だけでチェックするのは大変なので、エージェントが必要でしょう。
 ちなみに、アメリカでは、俳優でもシナリオライターでも、エージェントがいないと仕事が来ないそうです。
 アメリカのグラミー賞に、二度ノミネートされたこともある私の親戚が、国際的に活躍するクラシック音楽家で、アメリカの大手エージェント会社に所属しているようです。
 私も以前、ある人にハリウッドのエージェントを紹介してもらいましたが、残念ながら契約には至りませんでした。アメリカのショービジネスは、日本と違って厳しい競争社会ですから、ハードルが高いようです。
 これは一般にはあまり知られていないことですが、今、日本で一番ノーベル文学賞に近い作家と言われている村上春樹氏には、アメリカの大手エージェント会社ICM(インターナショナル・クリエイティブ・マネジメント)の敏腕エージェント、アマンダ・アーバン(通称ビンキー)の存在があります。
 欧米には、こういう作家エージェントの存在が、才能のある作家が世に出やすいシステムになっています。最近、日本にも作家エージェントができつつありますが、原稿を読んでもらうだけで、3~5万円も取られてしまいます。それだけカネを払ったからといって、必ず契約に至るとは限りません。
 ちなみにアメリカでは、原稿を読んでもらうだけでカネを取るのは、もぐりのエージェントだと言われています。お互いに、足元を見られないように気をつけましょう。

 一般社会の売り込みと言えば、不動産、車、生命保険がありますが、この業界の売り込む商品は、テレビドラマ、映画と言った、映像の基となる企画書です。
 いい企画を考えて、何人もの制作会社の人が読んで、「面白い。すぐに映像化できる」と絶賛されても、即あなたに脚本執筆の依頼が来ることは、ほとんどありません。
「悪い、僕はあなたに脚本を書いてもらうつもりだったんだけど、局のプロデューサーがどうしても視聴率的に、名のあるシナリオライターがいいって言うんだ。だから、今回は泣いて。次回で必ず、書かせてあげるから」
 と、言われるのがオチです。そんなことは最初から決まっていたことで、シナリオは、すでに実績のあるシナリオライターに発注済みです。
 長い間温めていた企画が、人の手に渡り、鴨が葱(ねぎ)を背負(しょ)って来る状態で、悔しい思いをするのは、あなただけではありません。こういうことが繰り返されると、やっていることがバカバカしくなり、そういう仕打ちに耐えられない人は、この業界から去っていきます。
 あたら才能がありながら、こういう理不尽なことで、優秀な人たちが、あれほど憧れていたシナリオライターになることに見切りをつけ諦めるのは、もったいないことです。しかし、それが現実です。
 かといって、宮本武蔵のように、名のある武芸者に果たし状を叩きつけて相手を倒したり、道場破りをして名を上げるという戦法はとれません。第一、倒す相手は誰だよって話です。
 もうひと昔もふた昔も前に、あるシナリオライター志望の若者が、何度も何度もテレビ局のプロデューサーに企画書を持ち込んでいました。が、とうとう一本も映像化されなかったそうです。
 いつの間にか、その若者は、そのテレビ局に足を運ばなくなりました。それから数年後、そのプロデューサーが、小説の月刊誌を手に、
「今度、小説現代の新人賞をとった作品、面白いなあ-----」
 と、他のプロデューサーに言いました。それを聞いたプロデューサーは、
「それ書いたの、以前、あなたの所によく企画書を持ってきていた○○君ですよ」
 と言いました。その若者こそ、その後、出版業界で一時代を築くことになる、五木寛之さんです。
 こんな話も聞いたことがあります。
 あるテレビの時代劇で、プロットを公募したそうです。そのとき、多数の応募作品の中から入選したプロットを映像化しようと、担当プロデューサーが、その若者にシナリオを書かせました。
 しかし、何度書き直しをしても納得するシナリオにならず、もう限界だと思って、ベテランのシナリオライターにシナリオを依頼しました。
 その後、その若者は小説の新人コンクールに応募して、その作品が入選し、小説家として華々しくデビューしました。
 彼の書く作品は時代にマッチしたのか、ことごとくベストセラーとなり、長らく小説家の長者番付1位に君臨していた松本清張氏を抜いて、1位に躍り出ました。
 その若者こそ、赤川次郎さんです。

 こういうことを回避するためにはどうすればいいでしょう?
 前回のコンクールの項で書きましたように、良きアドバイザー、師が必要になります。そういう人が傍にいてくれれば、その人と共同脚本という形で、クレジットタイトルに名を連ねることができ、無事デビューできます。そして、何本かそういう形でシナリオを書き、実績を重ね、プロデューサーとの信頼関係を築くことができれば、そう遠くない日には一本立ちができます。
 そのときのアシスタントプロデューサーとの打ち合わせの後か、ドラマの打ち上げの飲み会の席で、
「僕がプロデューサーになったときには、一緒にやりましょう」
 と言ってくれるかもしれません。結構こういう話はあります。私も一度言われたことがありますが、そのアシスタントプロデューサーは、何か嫌なことがあったのか、この業界に嫌気がさして、この業界から去っていきました。そういう人が多いのも、この業界の特徴かもしれません。何せ、入れ替わりの激しい業界です。“去る者は追わず”といった、シビアな世界です。
 クレジットに名前が出れば、しめたものです。そのドラマなり映画なりを観ていた他のプロデューサーから、お声が掛かるようになります。
 ここでも、以前書きましたが、
「何人の人を知っているかではなく、何人の人に知られているか」
 が、重要なポイントになります。
 政界でよく言われる、「悪名(あくみょう)は無名に勝(まさ)る」というところでしょうか。
 そういう良心的な師につくことが、この業界のデビューの方法としては、理想の形だと思います。
 良心的で実績のあるシナリオライターについていれば、見ず知らずのシナリオライターに、みすみす功を持っていかれるという、最悪の事態は回避されます。
 そのときの脚本料は、制作会社なり、テレビ局で払ってくれますが、3、7にするか、4、6にするかは、その先生との相談で決まります。
 脚本料では、直居氏からこんなことを聞いたことがあります。
 黒澤明監督作品は、一人で書くことはなく、すべて共同脚本ですが、小国英雄、橋本忍、菊島隆三といった、日本の映画史に名前を残す錚々(そうそう)たる脚本家です。しかし、共同脚本だからといって、脚本料は分配式ではなく、一人で書いたときと同じ脚本料を、黒澤さんが東宝に請求してくれていたそうです。そうなれば、みんなやる気にならざるを得ないでしょう。
 直居氏は、黒澤作品の常連脚本家だった菊島隆三さんとは、軽井沢の土地を一緒に買って、隣同士に別荘を建てたほど仲が良かったので、黒澤監督や三船さんの裏話をよく聞かされたものです。
 残念ながら、私の場合は、師が高齢だったこともあり、もうほとんど現役を引退していた状態だったので、共同脚本という形でのデビューはできませんでした。
 
 最近、米倉涼子、柴咲コウさんなど、大物女優が大手芸能事務所から独立する現象が続いています。
 きっと、大手の芸能事務所に所属していても、制作者サイドからのオファーが来るのをひたすら待っているだけでは、フラストレーションが溜まるからでしょう。
 ふと立ち止まって考えたとき、自分のやりたい仕事、つまり方向性が事務所の考えと違っていることに気づいたのでしょう。
 そうなると、“独立”という二文字が、ドンドン膨らんでいきます。しかし、独立したものの、なかなか思い通りにいくものではありません。
 そういうとき、ハリウッドのようなエージェントシステムがあれば、うまく行くのですが、日本にはまだそういうシステムはないようです。
 ハリウッドでは、エージェントが自分の抱えている監督、脚本家、スター俳優をセットで映画会社に企画を売り込みに行くそうです。そうすれば、その俳優さんに合った作品が作れるという好循環が生まれます。
 かつての黒澤明監督作品が、いわゆる“黒澤組”と呼ばれ、このシステムに近かったようです。監督・黒澤明、脚本・小国英雄、橋本忍、菊島隆三、俳優は三船敏郎、志村喬、加東大介、千秋実といった常連でした。それゆえ、あれだけの作品に恵まれ、結果として、"世界のクロサワ、ミフネ"が誕生したと言えます。
 最近、韓国のスター、イ・ビョンホンの事務所がそのことに気づき、イ・ビョンホンに合った企画を、監督、脚本家のセットでハリウッドに売り込んでいるそうです。
 このことは俳優さんだけでなく、制作者サイドの人にも言えます。自分のやりたい企画をやりたいと、テレビ局の看板プロデューサーが、親しい仲間であるディレクターなどと共に、テレビ局を辞めて独立します。
 しかし、今までは、東京キー局の中にいたから企画も比較的簡単に通ったのですが、独立するとなかなか思い通りに企画は通らなくなります。みんな、自分の実力で仕事をしていたと思っていたのでしょうが、いい仕事ができたのは、テレビ局に所属していたからです。芸能事務所のマネージャーや社長さんが、
「○○さん、○○さん」と崇(あが)めていたのは、その後ろにテレビ局という大組織があったからです。それが独立して、一個人になったとき、急に態度が冷たくなることはよくあることです。
 大いなる勘違いというところでしょうか。
 芸能界には、
「俳優殺すのには、刃物はいらない。下手なマネージャーをつければいい」
 という言葉があります。
 俳優さんにとっては、どこの芸能事務所に所属しているかで、運命が決まります。
 いくらルックスに恵まれて、演技もうまくても、それだけではこの芸能界では成功しません。売れっ子の俳優を何人も抱えた大手の芸能事務所に所属することが、成功の秘訣です。
 制作者サイドのプロデューサーの顔は、売れっ子の俳優を大勢抱えた芸能事務所の方に向いています。
 そう思って、私も大手芸能事務所に文化人枠で入れてもらおうと思い、最大手の芸能事務所の社長さんに手紙と作品を送りました。幸い、その社長さんは、物わかりのいい人で、しばらくして担当の人から連絡があり、その事務所所属になることができました。
 しかし、残念ながらその担当者は、マネージャー業の人ではなく、シナリオに関しても、まったく分からない人でやりにくく、見切りをつけて、別の大手芸能事務所に所属しました。
 その事務所は、今流行りのネットドラマを配信していて、企画を探しているというので、「待ってました!!」とばかりに、今まで制作会社、テレビ局、映画会社に通らなかった企画を次々と提出しました。これだけ出せば、一本ぐらいは通るだろうと思って期待していたのですが-----。
 それから数日後、その担当者から会いたいという連絡があったので、<スワッ、企画が通って、ひょっとして監督もやらせてくれるのでは!?>と、喜び勇んでその会社に行きました。
「私の勘違いで、企画書を出したら、うちの会社の担当者に、ネットドラマは、うちは配信だけで、制作は制作会社に丸投げで、うちから企画書を出しても、ダメらしいんです。無駄足させて、すいませんでした」とのこと。
 やっと念願のメジャーデビューできると、小躍りして行っただけに、梯子を外されて地下に真っ逆さまに落下した気分でした。 
 表参道の雑踏の中を歩きながら、
<いつになったら、自分は、この雑踏の中から抜け出して、メジャーな人間になれるのだろう-----?-----?>
 と思いながら、渋谷駅までの道のりが遠く感じられました。
「あたら才能がありながら、このまま自分は、この雑踏に埋没してしまうのか-----」
 と思うと、足取りの重かったことを今でもハッキリと覚えています。「また、負け戦だった」という、黒澤明監督『七人の侍』のラストの、侍のリーダー・島田勘兵衛(志村喬)のセリフが頭の中をよぎっていました。
 その後、歌手のPV(プロモーションビデオ)の仕事を依頼され、何度か企画書を頼まれて書きましたが、この業界は生き馬の目を抜くスピードが必要なのに、その担当者はとにかく返事が遅い人で、イライラのし通しでした。
 結局、その仕事も、相手の歌手がドタキャンしてしまい、日の目を見ませんでした。普通は、ここまで拘束期間が長く、何回も企画書を書き直せば、キャンセル料として何万円かのギャラが発生するのですが、
「この埋め合わせは、次の仕事で必ずしますから」
 と言われ、ノーギャラでした。そして、“次の仕事”はとうとう来ませんでした。
 こういう無責任な人が多いのも、この業界の特徴です。
 しばらく経って、その会社に電話をすると、その担当者は会社を辞めたとのことでした。この業界、そういうことが多いです。
 これにて、私も見切りをつけてその芸能事務所は辞めました。
 その後、『作家マネジメント』でネット検索し、10社以上のマネジメント会社に問い合わせてみましたが、ほとんどがなんの返事もありませんでした。中には、「私のTwitterにフォローしてくだされば、あとで連絡方法をDMします」とあったので、フォローしましたが、なんの連絡もありませんでした。
 どういうわけか、小さいマネジメント事務所は返事一つ来ません。作家マネジメントに特化している会社だから、小回りが利くと思ったのですが、電話で問い合わせても、電話に出た女性は、何も把握していないらしく、
「まだ返事がないのなら、今、上層部で検討中ではないですかね。もう少しお待ち下さい」
 と、要領を得ない返事でした。
 結局、そういう曖昧な会社は、マネジメント契約しても、うまくいかないと思われ、こちらから見切りをつけて、その後問い合わせをしませんでしたし、結局返事も来ませんでした。
 その点、大手の事務所は、企画書の売り込みやマネジメントの問い合わせの手紙を書いて出したり、メールを送信すると、大体返事が来ました。
 一番記憶に残っているのは、やはりディズニー・ジャパンでしょう。
 外資系なので、どの部署に問い合わせていいのか分からず、直接代表取締役の外人社長に手紙と企画書を郵送しました。
 世界のディズニーだから、自分のような無名のシナリオライターなど、相手にされないだろうなと諦めかけていたら、
「私どもの会社では、持ち込み原稿は採用しないという社内規約がありまして、残念ですが-----」
 と、丁重な断りの手紙が担当部署から来ました。ここまで断りの理由を具体的に書いてくれれば納得です。と同時に、やはり世界的な一流企業は違うなと感心したものです。
 やはり、人に頼るより、自分の事は自分でやった方がいいと思い直し、初心に帰って、個人営業を再開しました。
 某大手映画会社のテレビ部に、以前からつき合いのあるプロデューサーがいたので、その人に企画書を持っていくと、しばらくして電話連絡があり、
「この企画、面白いので、フジテレビの夜10時の連続ドラマの枠に持っていきます」
 と具体的な色よい返事がありました。
 その企画書は、シナリオを習っていた先生にも見せたら、
「この企画、面白いから、どこかに持っていったら通るよ」
 と言われていた自信作でした。
<これで、自分もやっと念願かなって、メジャーデビューだ!!>
 と、大いに期待していたのですが、しばらくして当のプロデューサーから電話がかかってきて、
「いやーッ、悪い。今度、念願かなって、映画部のプロデューサーになることができて、そっちに異動になったんですよ。この前の企画、後輩のプロデューサーに頼んでおいたので、連絡があると思います」とのこと。
 しかし、引き継いだプロデューサーからは、その後、なんの連絡もありませんでした。無理もありません、人から引き継いだ企画など、やりたがる奇特な人はいないのは世の常です。
 もう一つの自信作であった企画書を、女優のFかEさん主演で、別の大手映画会社に持ち込むと、これまた担当プロデューサーが興味を示してくれました。が、「面白いので、上の人に見せたのですが、残念ながら通りませんでした」とのことでした。
 この映画は、渥美清さんの『男はつらいよ』のように、シリーズ化できた作品だっただけに、企画が通ってシリーズ化されていれば、この二人の女優さんのどちらかは、渥美清さんのように、国民的俳優になっていたかもしれません。
 しかし、その作品は、捨て置くにはもったいないので、今、最もテレビドラマで視聴率の取れる女優、Aさんのマネージャーに見せたのですが、またしても通りませんでした。
 それではと、NHK朝の連続テレビ小説の主役をやって大人気になった、Nさんの事務所にもアプローチしてみました。しかし、本人が企画書を読んでくれたのですが、承諾を得られなかった残念企画です。
 やはりこういう交渉事は、間にプロデューサーが入らないと、まず無理でしょう。映画会社で企画が通ってからの出演依頼だったら、所属事務所も俳優も本気で検討してくれるのでしょうが、企画も通っていない、一脚本家の持ち込み企画など、まず通る可能性はゼロに近いでしょう。
 ドラマ制作会社の社長さんの話では、
「企画を通す最終責任者である、テレビ局の上層部の連中は、企画書なんて読んでも分からない人が多い。企画書より、誰が主役をやるかで企画は通る。今、旬の俳優のスケジュールを押さえて、出演の承諾を得られていれば、それだけで企画は通る。一旦企画さえ通れば、もうこっちの物で、その企画書通りやらなくていいんだから」
 と言われたことがあるので、そのことを実践したのですが、またしても負け戦でした。
 それではと、今度は、“ドラマのTBS”と言われた全盛期のTBSの中核にいて、今は独立して制作会社をやっている元TBSのプロデューサー&ディレクター(TBSは、両方を兼ねる)の大山勝美さん(山田太一『岸辺のアルバム』『ふぞろいの林檎たち』、倉本聰『あにき』『白い影』)の会社に、得意の飛び込み営業を掛けました。
 私の経験上、大体、営業は電話アポより、タイミングさえ合えば、直接行って交渉した方が確率が高いようです。電話を掛けると、大体が今忙しいのでと言われ、会ってくれない確率が高く、アポ取りの連絡を待っている間に、結局うやむやになる確率が高いようです。
 渋谷区富ヶ谷にある大山さんの事務所、『カズモ』を訪ね、入り口にあるインターホンを押すと、大山さんが出てこられました。
インターホン越しに、訪問の要件を伝えると、たまたま時間が空いていたらしく、会ってもらえました。
 私が、大山さんの以前所属していたTBSのシナリオコンクールに入選したことから、親近感を持っていただき、部屋でこちらの話を30分ぐらい聞いてくれました。
 もちろん帰り際に、企画書を渡して帰ったのは言うまでもありません。
 それからしばらくして、大山さんから電話があり、
「今、テレビ局に持ち込むドラマの企画を検討しているところなので、企画会議に来て下さい」
 と言われ、カズモに行くと、もう一人若いシナリオライター志望者の人が来ていました。
 大山さんの話では、大山さんが関係している菊池寛賞のシナリオ部門の受賞者で、その賞からシナリオライターが育っていないので、何とかしなくてはと、その人を企画会議に呼んだとのことでした。
 その会議には3、4回出席しましたが、テレビ局で企画が通らなかったのか、結局自然消滅してしまいました。
 かつてのテレビ局のトップクラスのプロデューサー&ディレクターですら、なかなか企画が通らないのですから、我々個人が企画を売り込みに行っても通る確率は、“限りなくゼロに近い”と思った方がいいでしょう。
 どうせやるなら、超一流の映画監督にと考え、当時乃木坂にあった黒澤プロダクションに電話をしてみたところ、「そういうことでしたら、直接スタジオの方に企画書を送って下さい」
 という返事でした。声からして、以前テレビで聴いたことのある、黒澤監督の息子さんの久雄さんだと思われました。
 映画の企画書を送ってしばらくして、当時横浜の緑区にあった
黒澤スタジオに電話で問い合わせると、
「黒澤は、自分の書いた物しかやりません」
 と、事務所の女性に一蹴(いっしゅう)されてしまいました。
 しかし、それからしばらくして、当の黒澤明監督からハガキが来ました。その思いやりに、黒澤明氏が何故、“世界のクロサワ”に成り得たか、垣間見たような気がしました。
 その昔、市川雷蔵主演『眠狂四郎』シリーズのシナリオを書いた星川清司氏(後に、小説『小伝抄』で直木賞受賞)も、プロになる前に習作シナリオを黒澤監督に送ったら、
「今は忙しくて読めません。頑張ってください」
 との返事が来たそうです。
 やはり、一個人でも世界的な業績を残す人は、上から目線ではなくて、思いやり、気配りがあるのだなあと感心しました。
 
 こうして、私の企画書売り込み作戦は、連戦連敗でした。
 それも、その筈です。この業界には、“センミツ”という業界用語があり、千本企画書を出しても、三本しか通らないということです。驚くべき通過率の低さです。
 電話営業の世界でも、100回電話してそのうち1つアポが取れても、次はそういうのが100回あって、そのうちの1つしか成約につながらないそうです。
 それが、営業というものです。
 これでは、いくら個人で売り込みに行っても通らないわけです。
 この売り込みというやり方も、よほど面倒見のいいプロデューサーに出会わないと、扉は開かないようです。
 しかし、こうして実現しなかった売り込みも、『捨てる神あれば拾う神あり』『人は見ていなくても、神は見ている』と諺(ことわざ)にある通り、諦めなければ意外なことで実現するものです。
 

(三)依頼・紹介

『コンクール』は、宝くじを買うより当たる確率は高いかもしれませんが、入選まで時間がかかりすぎて、あまりお勧めできません。
『売り込み』も、“センミツ”(千本企画を出して、3本しか通らない)と言われるぐらいの企画の通過率の低さでは、コンクール同様、時間がかかり過ぎます。
 私の経験上、私もそうであったように、デビューの仕方では、『依頼・紹介』という今回の方法が一番安全かつ、確実だと思われます。
 私の場合、一応テレビ局主催のメジャーな新人シナリオコンクール受賞者ですが、フジテレビのヤングシナリオ大賞と違い、他のシナリオコンクール同様、単なるイベントになっていて、フォローはありませんでした。フォローがあれば、一気に超売れっ子シナリオライターに駆け上がって、各テレビ局が奪い合っている視聴率のとれる脚本家20人の中に入っていたでしょう。そう思うと、残念でなりません。要は、時の勢い、運というものでしょう。その時流に上手く乗れないと、一気にブレークするのは難しいと思われます。
 私は、喜劇を書かせてもらえれば、誰にも負けない自信があります。が、残念ながら、喜劇が理解できるプロデューサーは、なかなかいないものです。
 どこかに、ハリウッドにおける製作・監督フランク・キャプラと脚本ロバート・リスキンのコンビのような、プロデューサーはいないものですかね-----。
 ちなみに、フランク・キャプラは、『或る夜の出来事』『オペラハット』『我が家の楽園』の3作で、3度アカデミー監督賞を受賞しています。
 
 一般社会でも、就職する場合、この紹介というのが、信用という点からも、一番採用される確率が高いでしょう。信用を第一とするこの業界も、同様のようです。
 面倒見のいいプロデューサーであれば、すぐにでもシナリオを書かせてくれる確率も高いというものです。プロデューサーとしても、紹介してくれた人との信頼関係で、企画書だけ書かせて、シナリオは他の人に書かせますということはありません。あっても、1回か2回というところでしょう。
 私のシナリオの師である直居欽哉氏の逗子の自宅に行ったとき、雑談の流れの中で、プロデューサーを紹介してくれるという話になりました。業界人の中には、「無駄話はやめてくれる」と、雑談を嫌う人がいますが、この雑談というのが、一見無駄話のようで、結構いい流れに導いてくれるものです。
 麻雀をやっている最中に、誰かの発言に触発されて何気なく言った一言が、
「うん、それ面白いね。その話、もっと膨らませたら、映画か連続ドラマにならないかな?」
 という話になって、それがきっかけでヒット作映画や話題の連続ドラマになることがあります。
 渥美清さんの代表作、映画『男はつらいよ』も、ある映画関係者が公衆電話をかけていたら、その隣に車寅次郎と同じ服装、キャラをした男が、「おいちゃん、オレはよう-----」と、泣きながら電話をかけていたそうです。
 それを見た映画関係者は、撮影所に帰って、みんなの前で、
「さっき、電話をかけてたら、隣に面白い男がいたんだ」
 と話し、それがきっかけで、あの国民的映画が誕生したという話を、元松竹の映画プロデューサーに聞いたことがあります。
 雑談の話では、まだまだいくらでも書けるのですが、一つのキーワードから、話が次々と飛ぶのが、一般人としては私の欠点なので、この辺でやめておきます。
 しかし、この連想ゲームのように、一つのキーワードに触発され、次々とアイデアが湧くというのは、作家としては非常にいい傾向で、業界ではこういうのを、引き出しの多い作家と言われます。
 富士山を水源とする柿田川の湧き水のように、アイデアが次々と浮かぶようでなくては、プロとしてやっていけません。
 私の場合、書いていてアイデアに行き詰まるということがありません。逆にアイデアが2つも3つも4つも湧いてきて、どっちの表現にするか迷うのが常です。
 この記事にしても、投稿したあとで読み直すと、ここはこうした方が良かった、ああした方が良かったとアイデアが次々と浮かび、5、6回修正して再投稿するのが、いつものパターンです。
 それは、絞(しぼ)り取った雑巾(ぞうきん)を、もう一度、さらにもう一回絞って、アイデアを絞り出すようなものです。
 ハリウッドでは、一度出来上がったシナリオを、さらに磨き上げるライターがいます。そういう役目の人を、ポリッシュ(磨く)ライターと言って、映画のラストのクレジットタイトルにも、ちゃんと表記されると聞いたことがあります。
 紙の媒体と違い、それが可能なのが、このnoteのいいところです。私のように投稿後も何度も読み直して、その都度アイデアが浮かぶクリエイターにとっては、願ってもない媒体です。

 さて本筋に戻り、当時、なかなかデビューのきっかけが摑めず右往左往していた私が、藁をも摑む思いで、その話に飛びついたのは言うまでもありません。
 その話のあった数日後、直居先生に紹介してもらったプロデューサーに電話をして会う約束をし、後日喜び勇んでそのプロデューサーを訪ねて行きました。
「今度、刑事ドラマをやろうと思っているので、企画書を書いてきてくれる」と、願ってもない申し出でした。
 早速、警視庁に取材に行き、何本か企画書を書きましたが、またしても通りませんでした。というか、よくよく聞くと、ただ刑事物のドラマをやりたいというだけで、具体的に誰が主役で、どこの局のどの枠でやるかということが決まっていないので、それ以上話が進みませんでした。
<なんだ、ひょっとして、アバウトな依頼で、単にオレの腕を試しただけなのか-----!?>と思い、
<おーし、それなら、オレの直居教室免許皆伝の腕、とくと見せてやろうじゃないか!!>
 と思って、以前書いたシナリオを持っていくと、
「この本、面白いから、ちょっと預からせてくれる」
 との予想通りの返事でした。
 その作品は、シナリオ教室の研修科で、直居先生にプロットを提出したものでした。
 そのプロットを見せた頃、トム・クルーズ主演の日米合作映画(戦争映画で、『ラスト・サムライ』ではない)が進行中だった直居氏は、
「よくできたプロットです。これをハリウッドに持ち込んで映画化したら、世界的センセーショナルを巻き起こすんじゃないかな」
 と、言われたことのある作品でした。
 案の定、その企画はその制作会社段階では通ったのですが、
「局で企画が通ったら、シナリオは、他のライターに書いてもらうから」とあっさり言われ、
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ。このシナリオを書くのに、どれだけの資料を読み、何回書き直したと思ってるんだ!!」
 と、思わずキレそうになったほどでした。
 直居先生にもそのことを伝えると、そのプロデューサーとは一緒に仕事をしたことはなく、直居先生が以前書いた映画のシナリオを、テレビでやりたいとの連絡があった程度の知り合いだそうです。
 やはり、そういう希薄な関係では、うまく行かないようです。
 こういうことがあるので、よほど信頼できるプロデューサーにしか、企画を持っていかない方がいいです。
 幸い、その企画はいまだに映像化されていないので、著作権をとっておくために小説にして出版しました。
 この作品は、出版当時からいろんな人に、「英語版は出してないの? 題材がいいから、これは英訳して、外国の人に読んでもらった方がいいよ」
 と、言われていました。
 ハリウッドのエージェントにも、
「ハリウッドのプロデューサーにシナリオを持って行くと、読んでもらうだけで50万円ぐらい取られるから、英語版の小説にした方が映画化の近道かもしれないよ」
 とアドバイスを受け、英語版もAmazonのKDPで出版しました。
 実際、英語圏の市場は日本の11倍あり、世界中がマーケットと言っても過言ではなく、アメリカ、イギリス、ブラジル、インド、カナダ、フランスなどでも買ってくれた人がいました。
(『ヒロシマは晴れているか』→『Is Hiroshima Sunny?』)
 こうしておけば、勝手に映像化されたとき、盗作だと訴えることができます。
 プロデューサーと刺し違えるぐらいの覚悟がないと、この業界では生きて行けません。自分を安売りしてはいけません。断固として、主張し闘うことです。それで出入り禁止にするようなプロデューサーは、たいしたことはありません。そういう人とは、仕事をしなければいいだけのことです。自分と相性、感性の合う人と仕事をすればいいだけのことです。
 黒澤明監督など、実質、本木荘二郎、田中友幸プロデューサーとしか仕事をしていません。
 そういうプロデューサーに出会うことが、この業界で成功する秘訣かもしれません。
「日本の映画界が、欧米に比べて一番劣っているもの、それは俳優でも脚本家でも監督でもない、プロデューサーだ」
 そう言い放った黒澤監督は、東宝の誇る両エースプロデューサーに恵まれた幸運な監督でした。

 しかし、運命の女神は、いつ、どこで微笑んでくれるか分かりません。
 ある日、家に帰ると留守番電話のランプが点滅していました。また何かの勧誘か、アンケート調査の依頼だろうと思いながら何気なく再生すると、
「ある人に、あなたの書かれた小説が面白いということを聞いたのですが、是非、その小説を読ませていただけないでしょうか」
 と、メッセージが入っていました。
 その電話は、あるテレビ制作会社のプロデューサーからでした。あとで知ったことですが、その制作会社に私の小説を紹介してくれた“ある人”とは、大手広告代理店の元副社長でした。
 ある日突然、幸運が私の頭上に舞い降りてきた瞬間です。
 目的を持って生活している人には、ある日突然、追い風が吹いてくるということでしょう。
 その小説というのは、シナリオ形式でも小説形式でもいいという、あるコンクールに応募した作品でした。シナリオはできていたのですが、規定枚数をオーバーしていたので、小説に書き直した物です。
 普通、コンクールはテレビ局、某シナリオ団体、出版社が主催者ですが、そのコンクールは、新聞、雑誌にもデカデカと応募要項が発表された、某大手企業主催のコンクールで、賞金も大賞500万円という破格の物でした。
 企業が主催のコンクールですから、入選者からプロの作家を育てようという気はサラサラなく、あくまでその主催者企業の、世間の注目を引くための宣伝効果を狙ったものと思われます。
 その証拠に、そのコンクールからは、私の知る限り、一人もプロの作家は出ていないようです。
 そういう経緯なので、間に某大手広告代理店が入っていました。
 その関係で、私の応募した作品が、応募総数1,300本中の最終審査候補(5~10本)か、その一歩手前の50本以内に入っていたらしく、捨てるにはもったいない作品だと、広告代理店の人か審査員の人か主催者側の人が、その元副社長に話したものと思われます(詳しいことは不明)。
 この場合、コンクール主催者側の人が良心的だったから良かったですが、コンクールは、アイデアの宝庫なので、アイデアだけパクられることが多いのも事実です。私も、某テレビ局主催のコンクールに応募した探偵物のシナリオが、別のテレビ局の刑事ドラマに、そっくりそのままパクられたことがあります。そのときは、登場人物の名前まで同じでした。コンクールの一次審査は、テレビ局の人がやるのではなく、外部に丸投げなので、こういうことが起こると聞いたことがあります。
 確かに、コンクール入選の秘訣は、“どう書くか”ではなく、“何を書くか”です。そういう点では、この小説は、見事にその的を射た作品でした。(『銀幕の彼方』改題→『企画の王様』)
 数日後、その制作会社にその作品を持っていき、読んでもらいました。そのプロデューサーも制作会社の社長も面白い作品だと言って、某テレビ局の上層部の人に読んでもらったらしいのですが、制作のゴーサインは得られませんでした。
 私のシナリオの師である直居先生にもこの話をすると、
「う~む、テレビ局の連中には、この作品の良さは分からないよ」
 と言われ、妙に納得したものです。
 こういうときに、黒澤明監督の名参謀・本木荘二郎のような、企画が通るまで決して諦めない、敏腕プロデューサーがいれば、何とか企画が通って映像化され、大きな賞でも取れるのですが、そういう人には、なかなかぶち当たらないものです。
 ここでまたまた本木荘二郎の名前が出ましたので、ご紹介しておきます。
本木荘二郎(もとき そうじろう)-----昭和30年前後、映画『ゴジラ』のプロデューサー・田中友幸と共に、東宝の両エースプロデューサーと言われた人です。
 古い映画人や、映画通の人なら知っているでしょうが、一般の人には馴染(なじみ)のない、世に知られていない名前です。
 しかし、彼がいなかったら、黒澤明監督作品、『姿三四郎』『羅生門』『七人の侍』『生きる』は、誕生しなかったかもしれません。当然、世界のクロサワ、ミフネも世に出ることはなかったであろうことは間違いないほどの、映画界ではビッグネームです。
 黒澤監督の記念すべき監督デビュー作『姿三四郎』は、黒澤さんが、まだ出版されていない『姿三四郎』の新聞広告を見て気に入り、
「本木さん、この原作使用許諾(きょだく)、取ってきてよ」
 と、頼み込んだそうです。
 しかしその作品は、まだ出版されていないのにもかかわらず、松竹、日活といった老舗の映画会社が、すでに作者の富田常雄氏にアプローチしていました。
 それゆえ、当時まだ新興映画会社の東宝では、とても取れないと思われていました。が、口八丁手八丁の敏腕プロデューサー本木荘二郎が、その原作使用許諾をものにしました。
 一説では、富田氏の奥さんが、1941年12月号の雑誌『映画評論』に掲載されていた、黒澤さんが書いた『達磨寺のドイツ人』のシナリオを読んでいて、
「あなた、この黒澤明って人、いいシナリオ書くわよ」
 と旦那さんに推薦したのが、きっかけだったという説もあります。
 この本木荘二郎は、黒澤監督が世界に飛躍した記念すべき映画『羅生門』でも、重要な働きをします。
 当時、黒澤監督は東宝を離れていたので、本木プロデューサーは、大映に企画を持ち込みました。
 当時の大映製作担当重役の前で、登場人物に成り切って本読みをして、口説き落として製作に漕ぎつけました。
 この『羅生門』という映画では、もう一つ興味深い話があります。この映画の脚本を書いたのは、当時まだシナリオライターとしてデビューしていなかった、橋本忍という無名の若者でした。
 その脚本は、橋本氏が師匠の伊丹万作監督(伊丹十三監督の父)に提出していた習作シナリオでした。伊丹監督死後、そのシナリオは佐伯清監督(映画『昭和残侠伝シリーズ』)から、黒澤明監督の手に渡り、映画化に至りました。
 前編で書きました黒澤明、三船敏郎の奇跡のような東宝映画会社への採用同様、これまた奇跡のような幸運です。
 私のシナリオの師である直居欽哉氏も、特攻隊の生き残りで、戦後脚本家を目指し、映画会社に企画を持ち込むも、すべて断られたそうです。直居氏が成すすべもなくなり、生活苦に追い詰められて、一家心中しようかと思っていたところ、その頃、映画スターの地位を確立しつつあった映画俳優鶴田浩二さんから、
「あなたの書かれた作品を、是非私にやらせて下さい」
 と連絡があり、デビューできたと直居氏から聞きました。
 その作品こそ、特攻隊を描いた日本映画史に残る名作、『雲ながるる果てに』です。
 その後直居氏は、123本の映画シナリオと、890本のテレビシナリオを書き、“大プロ”と呼ばれるほどの売れっ子脚本家になりました。
 こういった人と人の出会い、その後のジャパニーズ・ドリームは、戦後の混乱期、高度経済成長期前夜だったからこその、奇跡だったのかもしれません。

 話がかなりそれてしまいましたので、元に戻します──。
 結局、私の書いたその小説は映像化されなかったのですが、そのプロデューサーが私の才能を高く買ってくれ、知り合いの東京電力の社内番組を制作している制作会社の社長を紹介してくれました。
 幸運にも、今、東京電力の各施設(横須賀の火力発電所、高輪のお寺の下にある地下変電所-----etc.)をドラマ仕立てで紹介するPRビデオを作る企画があり、シナリオライターを探しているということでした。 
 その話は、トントン拍子に進み、その作品で念願のシナリオライターデビューを果たしました。
<物事は、うまくいくときは、こういうものなんだなあ----->
 と思ったことを、昨日のように鮮明に覚えています。
 その作品は、『源内先生の電気探訪』という題名で、江戸時代のマルチ天才、平賀源内が長崎の出島で、“時空転換機”という携帯タイムマシーンを手に入れ、現代にタイムスリップしてきて、東京電力の施設を探訪するという話です。
 このドラマ仕立てのPRビデオはなかなか好評で、
「源内ちぇんちぇい(先生)の次の作品、まだできないの?」
 と、東京電力の社員の幼稚園児の子供さんが、毎回出来上がるのを楽しみにしていたそうです。
 結局、一話約15分番組を5本執筆しました。
 プロットをプロデューサーの要求通り、何度も書き直す作業は、実戦向きの私にとっては、楽しい作業でした。プロデューサーのアドバイスに触発されて、知識の引き出しから次々とアイデアが湧いてくるから不思議です。やはり、自分は、コンクール向きではなく、実戦向きだと痛感したものです。
 その作品の2本目か3本目の作品だったと思いますが、プロデューサーと制作会社の社長(エグゼクティブ・プロデューサー)と喫茶店で打ち合わせをしているとき、
「源内先生が、浄瑠璃(じょうるり)の台本を書いているとき行き詰って、気分転換に時空転換機で現代にタイムスリップしたら、ちょうどその浄瑠璃をテレビで放送していて、それを見た源内先生が、“そうか、ここはこうすればいいのか!!”と気づいて、元の江戸時代に帰って作品を完成させるっていうのは、どうでしょうか!?」 
 と、アイデアを喋ると、
「うん、それ面白いね!!」「君、凄いよ!!」
 と驚いていた二人の顔を、今でも鮮明に覚えています。
 私としては、とっさに思いついたことを喋っただけなんですけどね-----。
 典型的なカウンター・パンチャーなので、相手の言葉に触発されて、いくらでもアイデアが浮かびます。
 相手が、どこから攻めてきてもカウンターが打てるので、「どっからでも、かかってきんしゃい!!」という心境です。
 私のやり方は、初稿でOKが出ることはまずないので、最初から渾身の決定稿を目指さず、まずはパイロット版(試作品)を提出し、相手の力量といってはおこがましいですが、その反応を見て、この人はどういう考え、性格の人で、この番組で何を目指し求めているのかの探りを入れます。
 ボクシングで言えば、まず第1ラウンドで、ジャブで相手との距離感を測り、相手の得意技と弱点を探り、フィニッシュブローはどれにするかの、様子見というところでしょうか。
 シナリオは頭脳ゲームなので、1を聞いて10を知るぐらい頭脳明晰で、要領よく立ち回らないと、過当競争のこの業界では生き残れません。生真面目に馬鹿の一つ覚えのように、マニュアル通り真正面からワンパターンで攻めても、相手を倒すことはできません。
 小説は感性だけで書けますが、シナリオは感性+理性がないと無理です。数学的思考能力が必要です。方程式ではなく、幾何学のように、この線とこの線がこうなって、∴(ゆえに)こうなるという思考方法です。鶴亀算、詰め将棋を解読できるほど、頭が良くなくてはなれない職業です。
 性格的、志向が合わない監督やプロデューサーだと、ここで笑わせよう、泣かせよう、感動させましょうと計算して書いたシーン、セリフを、勝手に現場で削除されてしまうことがよくあります。そういうときには、
<この人、センスないなあ-----。ここが、このドラマ(映画)の伏線or芝居どころorコメディリリーフなのに-----。これなら、自分で監督した方がよかったな>
 と、何度思ったか分かりません。
 この業界は、才能のある選ばれた者の集まりですから、“センス無き者は、去れ!!”というのが、私のポリシーです。

 物事はひとつうまく行き始めると、まるで歯車がカチッとハマったように、すべてが順調に動き始めるものです。
 そのPRビデオを書いていたときに、私の小説を制作会社に紹介してくれた、大手広告代理店の元副社長に初めてお会いする機会がありましたので、紹介のお礼を言うと、
「君の書いた広島を舞台にした映画のシナリオを、制作会社のプロデューサーに渡されて読ませてもらったが、あれ、なかなか面白かったよ」と言われたので、
「プロデューサーや直居先生に見せたら、日本では大道具的に製作不可能。ハリウッドで超大作級の製作費をかけないと、無理だと言われたのですが-----」
 と言うと、その作品が大いに気に入ったらしく、知っているハリウッドのエージェントに見せてくれました。しかし、そのエージェントも読んで面白いと言ってくれたのですが、残念ながら実現には至りませんでした。
 それから数年後、捨て置くには忍びない作品だと思い、別ルートで伝手(つて)を頼って、ロサンゼルスにいる映画『007』のプロデューサーに電話でコンタクトを取ると、来週仕事で日本へ行くので、そのときに会いましょうという願ってもない返事でした。
 数日後、そのプロデューサーと、ホテルのロビーで会ったとき、
「これを映画化すれば、映画史上に残る傑作になるだろう。しかし、ハリウッドでやるのだったら、主人公はアメリカ人に書き直さなくてはいけない。今のところ、映画化の可能性は10%だな」
 と言われました。あとは誰が演(や)り、誰が監督するかで可能性は一挙に跳ね上がります。
「監督は、『プラトーン』や、『7月4日に生まれて』などの戦争映画の傑作がある、オリバー・ストーン監督がいいと思うのですが」
 と、ダメもとで言ってみると、
「うん、いいね。彼とは、弁護士が一緒なんだよ」
 とのことでした。
「ハリウッドの映画は、どこで作られているんだい?」
「撮影所じゃなくて、法律事務所さ」
 というアメリカンジョークがありますが、それほどアメリカ社会は契約社会で、ハリウッドでは弁護士が絶大な力を持っています。
 つまり、ビジネスライクなアメリカのショービジネスは、アバウトな日本と違って、優秀なエージェントと弁護士が不可欠なようです。
(一)コンクール (二)売り込み でも書きましたように、
「何人の人を知っているかではなく、何人の人に知られているか」
 が、成功のカギです。
 念願のシナリオライターデビューを果たした後、
「最近、いろんな所で、君の名前を聞くようになったよ」
 と直居先生に言われたときは、ジーンときて涙が出そうになったほど、うれしかったものです。
 倉本聰作品流に言うと、「グッときていた-----!!」というところでしょうか。
 この業界は、人に名前を認知されることが必要です。企業がテレビコマーシャルに高いカネを払っているのも、自社商品の認知度を高めるためです。
 その宣伝効果を高めるためにも、企業にとっては、視聴率の高い番組でスポンサーになることが重要です。そんなドラマを制作するには、視聴率の取れる優秀なシナリオライターが必須です。
 あなたも、キー局のテレビ局が奪い合っている20人の、そういう超売れっ子シナリオライターになれるように、腕を磨きキャリアビルドしましょう。そうすれば、企画の通る確率の低い売り込みなどしなくても、仕事の依頼が来るようになります。
 私のシナリオの師である直居氏は、映画全盛時代には製作者サイドから、
「今度、石原裕次郎で青春物を、市川雷蔵で股旅物を、勝新太郎で時代劇を、高倉健でヤクザ物をやりたいんだが-----」
 という依頼が、次々と舞い込んできたそうです。
 今なら、「今度、キムタクで、米倉涼子で、綾瀬はるかで、こういうのをやりたいんだが-----」と、依頼が来ることでしょう。
 そのとき、その依頼に応えられないと、この業界では生き残れません。
「普通の世界なら未熟は恥じる事ではない-----だが、俺たちの世界では、未熟な者に、“いつか”は、決して訪れない」(『ゴルゴ13』 ~第147巻 三人の狙撃手)
 倉本聰、山田太一、橋田壽賀子、向田邦子さんのように、余人をもって代えがたしと言われ、この分野の作品では誰にも負けないというジャンルを開拓すれば、この業界で生き残れます。
 皆さんも、一人で試行錯誤を繰り返して遠回りすることなく、いい師を見つけ、直線を走って、3年でプロのシナリオライターとして、デビューされることを切に願っています。
 プロとしてデビューしてからが、本当の勝負です。
 プロ野球の世界では、
「二軍は野球を覚える所、一軍は野球をする所」と言われています。この業界も、プロになってからが本当の戦いです。プロ野球の公式戦のように、それまでと違って、あなたの書くことすべてが、公式記録として残ります。
 成功する秘訣は、成功するまで諦めないで、バッターボックスに立って、バットを振り続けることです。
 
 橋田壽賀子さんが言っていましたが、
「作家を志す人、あるいは、作家という職業の人には、作家の業(ごう)なのか、どういう訳か、身の回りで不思議なことが起きる」
 とのことです。いわゆる“災い体質”ということでしょうか?
 そう言われてみると、私もよくそういう体験をしました。
 プロになる前、生活費を稼ぐために働いていると、不思議とテレビのトップニュースになるような事件事故に出くわしました。
 どういう訳か、一番多いのは火事です。芝の高層マンションの火事とか、渋谷駅近くのスパの爆発とか、千葉県柏市の工場の爆発炎上とか-----。副都心線渋谷駅ホームでの、死傷殺人事件というのもありました。その日、残業がなければ、タイミング的に私が被害者になっていたかもしれない時間帯でした。
 中でも一番印象に残っているのは、『東京電力OL殺人事件』です。あの事件最大の謎にして、事件のカギを握ると言われている被害者の定期券が、殺人現場とはおよそ縁のない巣鴨の民家の庭で見つかっている事実です。
 ひょっとすると、その定期券を渋谷区円山町の駐車場で拾って、無意識に豊島区巣鴨まで運んだのが、私かもしれないのです。
 興味のある方は、拙著、短編小説『栄光の死角 ~東電OL殺人事件異聞』を参照して下さい。

 プロとしてデビューする一番いい方法は、プロのシナリオライターのアシスタントとして実地訓練を経験し、どうやって一本のシナリオが、作品として映像化されるのかのプロセスを見聞することです。
 脚本執筆の依頼、打ち合わせ、シナリオハンティング、ロケハン、俳優、スタッフの前でのライター本人の本読み、撮影現場の見学など、これから自分の生きて行く世界はこんな所なのだと、肌でそのプロセスを感じて修得することが大事です。
 私も経験しましたが、助監督をすると、シナリオがどうやって映像化されるかがよく理解できます。ちなみに、黒澤明監督、木下惠介監督、山田太一氏も助監督出身です。やはり、現場を体験するのが、一番いい勉強法で近道かもしれません。
 あとは共同脚本という形をとれば、すぐにプロとしてデビューできます。そういう良心的な面倒見のいい師に出会うと、意外とスンナリとデビューできます。
 あくまでデビューはスタートラインで、本当の戦いは、デビューしてからです。
 大事なことは、誰に人を紹介してもらうかです。
 私もデビューする前、デビューしてからも、何人かの人に人を紹介してもらいましたが、紹介する人が悪かったら、紹介してくれる人、紹介してくれる人、使い物にならないというか、ピント外れの人ばかりで、いつまで経っても埒(らち)が開かない状態が続いて、イライラしたものです。そういう状態を回避するためにも、最初にいい人に出会うことです。
 一般社会でも、いい先輩、上司に恵まれることが大事ですが、この業界は特にそうです。そのためにも、その起点である良き師に出会うことが最重要課題です。
 良き師は、良き人脈を持っているものです。
 それが全てです──。

「俺は、師事する人間を間違えた事はない。だから、今日まで生き延びてこられた」(『ゴルゴ13』~第155巻 一射一生)

         (了)

 


 


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