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【掌編小説】奇跡

保育園からの帰り道。
3歳の息子・アユムのちいさな手をひいて、わたしは訊いた。まだ残る薄桃色の桜の花びらが、はらはらと風に舞っている。

「下の名前で呼んでいいですか?」

菜々緒に似ているそのひとは、アイラインをしっかり引いた、アーモンド型の目を見開いた。
アユムとおなじクラスの、レンくんのママだ。

「初対面なのに、ごめんなさい……。でも、地元まで一緒のひとに、ここで出会えるって奇跡だなって……」

わたしの故郷は、飛行機を使わないと行けない島。まさか、東京の片隅で同郷のひとと会えるなんて。

そのひとは、ふふっと微笑んだ。
「そうですね……。わたし、ユカです」
「わたし、マキです。よろしくお願いします!」

島で見ていたのより優しげな、でも透明感のある青空が、目の前に広がっている。






産後3ヶ月で仕事復帰して、フルタイムで働くわたしの唯一無二のママ友で、親友のユカちゃん。市も地区もおなじところに住んでいて、アユムを夫に預けてよく飲みに行く。

カウンターから焼き鳥の匂い漂う居酒屋で、レモンサワーをちびちび飲み、同居嫁の大変さ、義両親の味方ばかりする夫の愚痴を、いつも聞いてもらってる。

「ユカちゃん、お盆は帰省する?」

賑やかな店内で声を張った瞬間、ユカちゃんが顔をこわばらせ、無言で首を横に振った。
「もう、ずっと帰ってないから」
「じゃあさ、帰ろう一緒に。楽しいはずよ」
「はぁ? マキちゃん酔ってるでしょ」
お酒が進むとつい、島のイントネーションで喋ってしまう。
「絶対いや。地元なんか」
綺麗な標準語で言うと、ユカちゃんはカシスソーダを一気に飲み干した。







アユムとレンくんは、おなじ小学校に通いだした。学年が変わってクラスが離れると、レンくんが泣いてしまうほど仲良しだ。

4年生から、学校のサッカークラブに2人して入部した。アユムがエース候補、レンくんが司令塔候補。そろって活躍すればするほど、チームは強くなっていった。


「おいレン、いつまで泣いてんだよ」
レンくんは目の前のお子様ランチに構わず、うつむいたままだ。華奢な肩が震えてる。
6年生が引退して、はじめての都大会。
決勝戦のロスタイムで、レンくんは相手チームの選手にボールをパスしてしまった。
「オレが、パスミスしなければ……優勝できたのに……」
「おまえのせいじゃねぇよ」
泣きじゃくる彼の肩を、アユムは力いっぱい叩いた。
「……ってぇな!」
レンくんは、すずぅっと鼻を啜ると、お笑い芸人のツッコミみたいに、アユムの頭をバシッと叩いた。
「レン! やめなさい」
「アユムも! もうおしまい」
とまどう親のわたしたちをよそに、子どもたちはニヤニヤ笑いながら、ポカスカやり合っている。
やれやれ。わたしたちも、しょうがないねと言わんばかりに笑いあった。







6年生になったアユムは、手に追えないほど反抗するようになった。

なにか言われるとすぐ「死ね」
物を投げられることもある。


誰が世話してると思ってるわけ?
アユムだけじゃないさー。
ダンナも姑も舅も、わたしが朝から晩まで働きながら面倒見てるのに。
みんな文句ばっかりだわけ。いらいらーする。


いつもの居酒屋。
方言まるだしでユカちゃんに状況を喋り、レモンサワーを一気に飲む。ぼんやりした頭に刺さる酸味。眠っていた黒い気持ちが、ポロッと出てしまった。

「まじで、死ぬからよ」

「……死ねば?」

「え?」
今なんて……。
「毎日死ねって言われて……どんな気持ちかわかった?」
「どんなって……」
「わたしは……野原由香」
怒りに震えた声。体じゅうが凍りついた。

「あんたに虐められて……地獄だった!」

中学の頃の記憶が蘇る。ブスでデブで、図体だけでかくて邪魔だったバカ女。
ずっと言ってた、早く死ねって。クラス全員38人と。学校に来なくなるまで……。
「卒業して島とびだして、定時制の高校に通いながら働いた。ダイエットしてジム通って、ついでに目と鼻もちょっといじったの」
淡々と澱みない標準語。
怒鳴る手前の声で、ユカちゃんは続けた。
「奇跡よねぇ。こんな都会の片隅で再会するなんて」






家では、義父母にまで役立たず呼ばわりされる日々。小さい頃の可愛かったアユムを返せと罵倒されるわたしを、夫は守ってくれない。

ユカちゃん。
昔のことなんか忘れて、親友に戻ろう?
寂しい、辛いよ。






アユムの参観日。
来客用トイレで手を洗っていると、気配を感じた。

ユカちゃんが般若のような顔で、わたしを見下ろしている。

ジャアァァァ……。

蛇口から、水が流れ続けてる。
ユカちゃんは眉をひそめて、言った。

「まだ生きてるの? 早く死んでよ」




暗い道を、ただただ歩く。
かつん、かつんと、パンプスの音だけが響く。

サアァァァ……。

雨が、スーツのジャケットを濡らしていく。
肩が、ずっしり重くなる。


キキイイィィィッ!

けたたましいブレーキ音とともに、目の前がパッと明るくなった、瞬間。

ドンッ!

深い闇のなかに、
わたしは投げ出された。



(2,000字)



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