見出し画像

集団安全保障と自衛権

国際連合を作る第一歩は、アメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ローズベルトによる「四つの自由」演説(1941年1月)であった。自由の一つ、「恐怖からの自由」、とは軍縮のことであると説明されたが、軍縮が可能になる平和な世界を作るには軍縮以上の何かが必要であった。

平和のためには何が必要か? 同じ1941年の8月、ローズベルトはイギリスのウィンストン・チャーチル首相とともに、大西洋憲章を発した。その中に、「一層広範かつ恒久的な一般的安全保障制度」を設けることが盛り込まれた[1]。明らかに国際連盟が意識されていたものの、暗に、それを引き継がないことが示唆された。

国際連合、すなわちユナイティッド・ネイションズ、という名称のもととなったのは、ローズベルトらが枢軸国に完全勝利するまで戦うことを約束した1942年の連合国宣言である。ただし、宣言の内容は国連の組織とは関係なかった。

安全保障を目的とする普遍的国際機構を作る方向性が定まったのは、1943年のモスクワ宣言によってである。これは米英にソビエト連邦を加え、「国際の平和及び安全のため」「すべての平和愛好国の主権平等の原則に基づく」「一般的国際機構」「を設立する必要性を認識」した。

翌1944年、より具体的な国連の設計図が作られた。ワシントンDC近郊にジョージタウンという町がある。そこで米英ソと中華民国の代表が国際連合憲章の草案を起こした。このダンバートンオークス提案は、他の連合国に通知された。

サンフランシスコ会議は1945年4月に開会した。中小国は初めて発言の機会を得て、さまざまな要求の声を上げた。例えば、拒否権を制限するよう、オーストラリアの代表が求めた。安保理の調停には拒否権が及ばないようにしてはどうか?、という妥協案が出た。反論したアメリカ合衆国代表の発言を引用する。

そのとき集まった代表たちを前に、憲章草案を手に持って立ち上がり、最後のお願いをした。「お望みならサンフランシスコから帰っていいですよ」と警告した。続けて、「そして、拒否権を葬った」と報告すればよい。―中略―でも、「憲章を引き裂いてやったさ!」とおっしゃってもかまわない」と言ったよ。このときさ。私が手の憲章を真っ二つに破り断片をちぎってテーブルのうえに胸くそ悪く叩きつけてやったのは。一人一人の顔を喧嘩腰で睨みつけた間、代表たちは黙り込んだな[2]。

他にも中小国から、さまざまな要求が出された。安保理の議席について、常任のものと非常任のものを差別することも批判された。ラテンアメリカは自分たちの地域主義を守ろうとした。ニュージーランドは、強制措置を行うには総会の承認が必要であるように変えたかった。また同国は、安全保障を安保理の専決事項とせずに、総会であらゆる問題を議論できるようにしたかった[3]。

ともかくも、国際連合憲章は1945年6月26日にサンフランシスコで署名され、10月24日に発効した。発効の日は国連の日(UN Day)とされる。原加盟国、すなわち当初からの加盟国、の数は 51か国であった。このうちの五大国が圧倒的に強い権限を持つことは現在でも変わりない。それが顕著であるのは安全保障問題においてである。今回のテーマは、国連憲章のもとにおける集団安全保障および集団的自衛権を、実例を挙げながら解説しなさい、である。

ここから先は

9,836字
この記事のみ ¥ 100
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?