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機能的国際機構

「人間というものは、なんらかの社会的紐帯ですでに結ばれている程度においてしか、平和の欲求をもたないものである」とエミール・デュルケムは言う[1]。個人をメンバーとするグローバル社会のきずなは家族ほどには緊密でない。人種や言語はさまざまである。国家をメンバーとする国際社会のきずなもそうである。国々はいまだに張り合い、戦っている。であるとすれば、国際連盟や国際連合の安全保障システムによっては平和を保つことはおぼつかない。

デュルケムは機能主義社会学の創始者である。機械的連帯と有機的連帯という言葉は社会学をかじった者は誰でも知っている。有機的連帯という社会的紐帯が国境を越えて広がれば、国際社会の凝集力は強まり、それゆえにより平和になるであろう。デュルケムが有機的連帯を解説した文章を引用する。

分業が生みだす連帯は、これとまったく別である。前記の連帯が諸個人の相似を意味するのにたいして、この連帯は、諸個人がたがいに異なることを前提とする。前者は、個人的人格が集合的人格に吸収しつくされているかぎりにおいてのみ可能であるが、後者は、各人が固有の活動領域を、したがって一個の人格をもつかぎりにおいてのみ可能である。だから、集合意識が規制しえない専門諸機能がそこに確立されるためには、集合意識は個人意識の一部分を蔽わぬままに残しておかなければならない。また、この開放部分が広ければ広いほど、この連帯から由来する凝集力は強い。じじつ、一方では、個人は、その労働が分割されればされるほど、いっそう密接に社会に依存し、他方、各人の活動が専門化されるほど、いっそう個人的となる。もちろん、この活動は、どれほど局限されようと、けっして完全に独創的ではない。われわれは、自分の専門的な仕事を遂行するに際しても、その属しているあらゆる団体に共通な慣習や慣行に順応しているからである。だが、このばあいでも、われわれの受ける束縛は、全社会がわれわれにのしかかってくるときよりも、はるかに軽いし、われわれのイニシアティヴの自由な活動のために、はるかに多くの余地を残している[2]。

専門化によって、人々が足りないものを補い合えば、人々は自由なままで共存することができる。これにアダム・スミスの分業論を加味すれば、生産と消費の拡大も専門化によりもたらされる、といえる。

専門化や分業は基本的に個人や集団の自発的な努力による。国家の役割は、そうした活動への障害をなくすために、公共財を供給することである。公共財には国防、司法、公共事業、教育、保健、防災、基準、登録、地図、統計などが含まれる[3]。

ところが、専門化や分業が国境を越えると、単独の国家だけでは公共財を供給できない。そこで、国際協力が必要になる。国際協力のための機関を設立することは、この目的を効率的に実現することを可能にする。そうして設立されるのが機能的国際機構である。つまり、グローバル社会の専門化を助け、それゆえに連帯を強化する役割を担っているのが機能的国際機構である。

ということで、今回のテーマは、保健、教育・科学・文化、労働、原子力、電気通信、インターネットなど「機能主義的な」グローバルガバナンスのあり方について論じなさい、である。

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