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弘前から小諸まで

#小諸市石神遺跡の土偶頭2  最終書込み20200730

弘前から小諸

土偶の頭を持った人が仮に弘前あたりから小諸までやって来たとするとこんな感じ。

さらにこの頃(縄文晩期)にはまだ街道は無いので、地形のまま、上り下りの道を歩いて来たはずでこれはとても大変です。

弘前・小諸は弘前・江戸との距離と同じくらいなので、江戸時代の弘前藩の参勤交代を調べてみたところ、秋田藩を通って江戸へ向かうルートを使い、日数は18~19日かかったようです。時速4km×10時間=40km/1日のハイペース。この頃は街道が整備されていて、宿場を利用しての旅行なので早い分費用がかかります。

おそらく縄文時代には、集落と集落を繋ぐ道(草木を払っただけ)しかなったと思うので、宿場を目指すように村々を渡り歩いたのではないかと思います。

また男性は婿入り・通い婚が慣例的だったと考えられているので、どの村でも旅人の受け入れは容易だったのではないかと思います。

江戸時代の旅では旅費が相当かかるのですが、縄文旅では村ごとにお世話になることにより食料を持参しなくても出来たのではないかと思います。

お互い様ということかな。

そもそも通貨がない頃ですしね。





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