#小諸市石神遺跡の土偶頭5 最終書込み20200814 亀ヶ岡式の遮光器土偶について 大型の遮光器土偶は生まれたての赤ん坊がおくるみを着た姿に見える。 大きさもほぼそのくらいである。 そもそも自立できるように作られてないのは赤ん坊を模して造られているからではないかと思う。 当時の女性が最も心配な事は出産に関する事柄だと思うが、遮光器土偶はその象徴として赤ん坊の姿をしているのではないかと思う。 髪の毛あたりの穴が開いている部分にひもを通して釣ることは出来ると思うが、素焼きの
#小諸市石神遺跡の土偶頭4 最終書込み20200801 この地から件の遮光器土偶の頭部が出て来た事の詳細はよく分からない。 1968年(令和2年から52年前)に地元の個人収集家から市に寄贈されたとある。 収集家による石神遺跡での遺物の採集は明治30年(1897年)頃から盛んに行われていたらしい。(令和2年ー明治30年=123年前) 平成3年(令和2年から30年前)に行われた発掘調査で見つかったのではないので、その出自が確かでないということになる。 そんな事情により、か
#小諸市石神遺跡の土偶頭3 最終書込み20200730 奥、右端の山(雲に覆われている)は浅間山。 この場所は、小諸市の北東部、浅間山麓の南に傾斜する標高800m前後の地点です。 住所は長野県小諸市大字八満字孤島。この狐島とは中央の2本の木が生えている場所を指すのではないかと思います。 木の根元あたりに水源があり、小さなお社があります。 歌川広重 名所江戸百景「王子装束ゑの木大晦日の狐火」の舞台そのままです。 おうじしょうぞくえのきおおみそかのきつねび 毎年、大
#小諸市石神遺跡の土偶頭2 最終書込み20200730 土偶の頭を持った人が仮に弘前あたりから小諸までやって来たとするとこんな感じ。 さらにこの頃(縄文晩期)にはまだ街道は無いので、地形のまま、上り下りの道を歩いて来たはずでこれはとても大変です。 弘前・小諸は弘前・江戸との距離と同じくらいなので、江戸時代の弘前藩の参勤交代を調べてみたところ、秋田藩を通って江戸へ向かうルートを使い、日数は18~19日かかったようです。時速4km×10時間=40km/1日のハイペース。この
#小諸市石神遺跡の土偶頭1 最終書込み20200730 加増区縄文部からの報告書を兼ねた記事になります。 小諸市の重要有形文化財に指定されている石神遺跡出土品の遮光器土偶頭部の模型です。模型製作に関しては市教育委員会 文化財・生涯学習課に取材させて頂きました。 第一ミッションは青森県内の津軽地方と南部地方(岩手県北部含む)を探索し、マッチする胴体を探すこと。 コロナの影響で予定していた時期が先送りになっていましたが、政府のGo TO キャンペーンを利用して近日開始した