おばあちゃんへの思いをつづらしてください

(おばあちゃんが亡くなった6日前に書いた記事。すべての手続きが終わって私もそろそろ前を向きたいので、ここに書き留めようと思います。)



さきほど母から電話が入って祖母が亡くなったと聞いた。


詳しいことはわからないが、心肺停止で朝施設の人が息をしていないことに気が付いたという。おそらく老衰じゃないかと。


私のおばあちゃんは最近94歳になった。

青年海外協力隊に来る前になるべく会いに行って、帰国しても絶対に会いたいって思っていた。
少しずついろんなところが衰えていって、10人くらいいる孫の名前がだんだんわからなくなっていっていたのに、私がペルーに行くことは覚えていてくれた。

ペルーに行ったら手紙書くからね。このくらいの字の大きさだったら読めるかな?って文字を書いて確認して、ペルーで元気にしている様子、おばあちゃんに送るねって言ってペルーに来た。

でも、1枚も手紙を書かぬまま、おばあちゃんは逝ってしまった。
悔しくて悲しくて、母から電話でおばあちゃんがなくなったと聞いたとき3秒で理解して号泣した。今でも涙はおさまらない。

おばあちゃんに手紙をだそうだそうと思ってからは3か月ほど過ぎてしまった。任地に郵便局がないのを言い訳に、ペルーっぽいハガキに出会っていないことを言い訳に、この4か月何も送らなかった。それをすごくすごく後悔している。

私のおばあちゃんは大正生まれで背が高くきれいな人で、戦争も経験した。
いつも穏やかででも孫が泣くととても叱ってきて、厳しい人だったのは感じた。

昔の写真見せてっていうと、おばあちゃんの部屋から大切そうにしまってある写真をみせてくれて、そこには若くて背の高くてきれいなおばあちゃんが、白黒写真で写っていた。

その写真を見るたびにおばあちゃんにもそんな時代があって、戦時中を乗り越えて、今沢山の孫に囲まれているんだなと思った。

そしてそんなきれいなおばあちゃんをみて、私にもこの遺伝子が少しでもはいっているのかーとちょっといつも嬉しくもあった。

1年に一回くらいはおばあちゃんの家に帰っていた。もっと頻繁に会いたいと思ったし、もっといろんな話を聞きたいと思ったけれど、いろんな大人の事情もあり、1年に1回が適度だった。

戦争の話は、なんて聞いたらいいかわかんなくて、思い出したくない記憶だったらどうしようとかも思って結局詳しくは知らない。
マッカーサーが子供たちにチョコあげていて、いい人に見えたよって話はなぜか覚えている。

私が高校生くらいの時までは、私たちが来るとわかるとヤクルトとファンタグレープを冷蔵庫に入れていてくれた。一緒にニコニコっていうスーパーまで歩いて買い物にも出かけていた。

私が大学生になってからは、何もおもてなしできないからってピザとお寿司を頼んでくれた。

私たちはおばあちゃんに会いに来ているのだから、おもてなしなんていらないんだよっていっても、それらは一ミリも変わることはなかった。

もっと昔、私が小学校とか中学校の頃は、一緒にテレビを見たりした。
大正生まれのおばあちゃんは大河ドラマとか見るのかなとか思うけど、実際はバラエティが大好きだった。ヘキサゴンをみながら、この人たちばかねー。どうしてそうなるのかしら。って上地とかに向かって言ってた。そんな心の若いおばあちゃんも大好きだった。



私がとっても悲しいのはもちろんおばあちゃんを失くしてしまったことなんだけれど、
最近のおばあちゃんがとても悲しそうだったのでその記憶が一番最近にあって、その悲しそうなおばあちゃんが亡くなってしまったことが悲しい。

寂しい思いをしていたと思うし今まで見たことのないおばあちゃんの涙を最後の半年くらいでいっぱい見た。

そんなおばあちゃんを少しでも励ましたくて、ペルーから手紙を送ろうと思っていたのに、それも送れなかった。何をしているんだろう私は。こっちでの生活に精いっぱいといったらそうだったけれど、おばあちゃんに手紙を送るのを先延ばしにしてしまうくらいなら精いっぱいなんていらない。おばあちゃんを手紙で励ますことができなかった。

なんの予兆もなかった。だれも知らずに亡くなった。苦しくなかったかな、さびしくなかったかなと思うと、せめておばあちゃんの手元にわたしの手紙くらい置いてあればって思ってしまう。手紙を書いていれば、棺桶に入れてもらうこともできたのに。

おばあちゃんの最期を想像して自分で勝手に泣いている。
おばあちゃん、さびしかったよね。一緒にいれなくてごめんなさい。



青年海外協力隊になるにあたっていろいろなものは覚悟してきた。
そのうちに身内に何かがあるかもしれないというのは不謹慎かもしれないけれど想定はした。

おばあちゃんに最後に会った時

『2年間かあ。いくちゃんが帰ってくる頃には私はもういないかもしれないねえ』

って言われた。

「そんなこと言わないで、絶対会おう、2年後に。それまで元気でいてほしい」

そんな自己中なお願いを伝えてきた。

そんなことをいいながら、私のおばあちゃんはきっと96歳でも元気でいてくれると思う

なんて勝手すぎる思考で、そんなに深くおばあちゃんの存在がなくなるかもしれないことを考えてはいなかった。

そしてそんな私は、ペルーに来て4か月という短さでおばあちゃんの突然の訃報を聞いて泣きじゃくっている。

この先のことはまだわからない。今はとりあえず両親からの詳細の連絡を待っている。



おばあちゃんのことは決して忘れない。少しも忘れたくない。

綺麗で背が高かったおばあちゃん。うちらには言わなかったけれどきっとモテたんだろうな。

おばあちゃんになった今でも上品さがあって、穏やかで、縁の下の力持ちで、威張らない強さがあって。

大正、昭和、平成、そして令和を生きたおばあちゃん。94年間お疲れさま。

おばあちゃんは確かに私の中にちゃんと生きていて、何かに迷ったらおばあちゃんの強さを思い出したい。


おじいちゃんと結婚してくれてありがとう、お父さんを生んでくれてありがとう、お母さんとの結婚を認めてくれてありがとう、私たち孫を大切に見守ってくれてありがとう。

おばあちゃんの人生全てに感謝したい。おばあちゃんがいなければ、私はここに存在していない。

これからもたまにでいいから力を貸してほしい。

おばあちゃんみたく、きれいでかっこよくて、男の人を立てられて、縁の下の力持ちで、穏やかで威張らない強さをもって、そして可愛さもある、そんな素敵な女性になれるよう、がんばるね。

もしかしたらお通夜にも告別式にもいけないかもしれないけれど、そんな孫娘を許してください。孫のウエディングドレス姿をみたことないおばあちゃんのために、早く結婚してウエディングドレス姿を生で見せたいと思ったけれどそれも間に合いませんでした。


おばあちゃんのこと、今までもこれからも大好きです。愛しています。

よかったら私たち家族のことを、おじいちゃんと一緒に見守ってくれると嬉しいです。

おばあちゃんの存在を心に自信をもって強い女性になります。

おばあちゃん、本当にまじでありがとう。だいすき。

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