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隣の女


《あらすじ》
30歳のITエンジニア、高橋誠は静かな街で独り暮らしをしている。ある日、マンションの地下ゴミ置き場で出会った不思議な女性が「隣の空き部屋に住んでいる」と言う。彼女の存在に興味を持った誠は、隣の部屋に関する情報を集め始める。調査を進めるうちに、誠は驚愕の事実に直面し、その謎を解き明かすため、ますます不穏な道に足を踏み入れることになる。


第一章【全ての始まり】
今年で30歳になる高橋誠は、スリムな体型と短く整えられた黒髪が特徴のITエンジニアだ。彼は物静かで、いつも落ち着いた雰囲気を漂わせている。誠は多摩川が見えるこの街で一人暮らしをしており、静かな生活を送っていた。彼の住むマンションは、川のせせらぎが心地よい音を立てる穏やかな場所にあり、東京の喧騒から離れたこの街の静けさが誠のお気に入りだった。
誠は大学でコンピューターサイエンスを学び、その後大手のIT企業に就職した。日々の仕事は忙しく、クライアントの要望に応じてシステムを構築し、トラブルが発生すればすぐに対処しなければならない。特にプロジェクトのデッドラインが近づくと、緊張感が高まり、長時間労働も避けられない。しかし、誠はこの仕事にやりがいを感じており、常に新しい技術を学び続けることが彼のモチベーションとなっている。
そんな彼のストレス解消法は、週末に川沿いを散歩することだ。多摩川の川岸は整備されており、四季折々の自然が楽しめる。春には桜が満開になり、夏には青々とした木々が涼しげな木陰を作る。秋には紅葉が美しく、冬には澄んだ空気が心を清々しくする。誠はこの散歩の時間を大切にしており、自然の中でリフレッシュすることで、仕事の疲れを癒していた。
また、誠は近くの公園で読書を楽しむことも日課としていた。公園のベンチに腰掛け、お気に入りの小説や専門書を手に取ると、時間を忘れて夢中になることが多い。彼は特に歴史小説やミステリー小説が好きで、物語の中に引き込まれることで現実のストレスから解放されるのを感じていた。日が沈むまで本を読みふけることもあり、その静かな時間が誠にとって最高の贅沢だった。
ここに住んで5年になるが、不満といえば薄暗い地下にあるゴミ置き場がどうにも慣れないことだ。暗闇が苦手な上に、閉所恐怖症なのである。そのゴミ置き場はマンションの住人専用で、ドアにはオートロックがある。番号を押さないと開かないのだが、誠はたまに番号を忘れることがあった。その度に、ゴミを持ったままオートロックの前でイライラしながら番号を思い出そうとするのが習慣となっていた。
誠は仕事柄、自宅にこもってパソコンと向き合うことも多い。プログラムのバグを修正したり、新しいシステムを開発したりする日々は、時に孤独感を伴う。しかし、彼にとってこの静かな環境は、集中して仕事に取り組むのに最適だった。誠は特に人付き合いが得意ではないため、近所の住人とはほとんど顔を合わせることがなかった。隣の部屋も長らく空き室であり、静寂が保たれていた。
良く晴れた初夏のある日。誠は仕事の合間に気分転換を兼ねて、昼食のために近くのコンビニへ出かけた。普段から簡単な食事で済ませることが多く、この日もコンビニ弁当と肉饅を買った。昼食を終えた後、空箱と包みを手に地下のゴミ置き場へと向かった。
階段を下りると、誠はいつものように暗闇に対する不快感を感じながらゴミ置き場のドアへと近づいた。しかし、その日はいつもと少し違っていた。ゴミ置き場のドアの前に見慣れない女性が立っていたのだ。彼女は22、3歳であろうか。白いシルクの透き通ったワンピースを身にまとい、黒いストレートの髪を腰の辺りまで伸ばしていた。瞳には煌めきがあり、どこか世間から遠い雰囲気を漂わせていた。
誠はその美しい姿に一瞬、心を奪われるような感覚を覚えた。しかし、すぐに我に返り、礼儀正しく挨拶をした。「新しく引っ越してきた方ですか?」と尋ねると、女性はニヤリと笑いながら、
「いいえ、ずいぶん前から、あなたの隣に住んでいますよ」と言った。誠の反応を伺うようにじっと見つめてくる。
隣に住んでいるという言葉に、誠の表情は硬くなった。隣は長く空き室のはずである。
「あ、あの、隣には誰も住んでいないはずなんですが…」と誠は硬い表情を変えずに聞いてみた。女性は笑みを浮かべたまま、
「いいえ。確かに私は、隣に住んでいます。でも、挨拶するタイミングがなかったので、今日偶然会えて嬉しいです」と軽やかに言った。
誠は驚きつつも、女性の言葉に一抹の違和感を覚えた。なぜこの女性とは今まで一度も出会ったことがないのか。同じマンションで隣に住んでいるというのに、いつもすれ違い、挨拶も交わさなかったことに疑問を感じ始めた。「すみません、今まで気づかなくて。僕、いつも忙しくて…」と誠が言うと、
「またお話しできるのを楽しみにしています。では、失礼いたします」と女性は笑顔でそう言って、その場を後にした。
誠は、その後ろ姿をじっと見送りながら、言いようのない不安な気持ちが胸の奥に広がっていくのを感じた。何かがいつもと違う。しかし、その違和感を具体的に言葉にすることができなかった。
その夜、誠は自室で仕事に集中しようとしたが、どうしてもあの女性のことが頭から離れなかった。彼女の言葉、笑顔、そして謎めいた存在感が、誠の心に深く刻まれていた。彼はその夜、何度も隣の部屋のドアを見つめながら、眠れない夜を過ごすことになった。
翌朝、誠は仕事に向かうために部屋を出た。階段を下りると、ふと隣の部屋のドアに目をやった。しかし、ドアは閉ざされ、何の変哲もない静寂がそこにはあった。彼は昨日の出来事が夢だったのではないかと一瞬思ったが、あの女性の瞳の輝きは確かに現実のものだった。
誠はその日一日中、仕事に身が入らなかった。頭の片隅には常にあの女性のことが浮かんでいた。彼は意を決して、帰宅後に隣の部屋をもう一度確かめることにした。自分の記憶が確かならば、何か手がかりが見つかるはずだ。
帰宅後、誠はすぐに隣の部屋の前に立った。ドアをノックするかどうか迷ったが、結局ノックせずにじっと立ち尽くした。何も起こらない。ただ、静寂だけがその場を支配していた。彼は深いため息をつき、自室に戻った。
誠はこの不安感から逃れるために、何か手がかりを探すことを決心した。翌日から、隣の部屋の住人について調べ始める。マンションの管理人に話を聞いたり、他の住人に尋ねたりしてみたが、誰もその女性のことを知らなかった。管理人も「隣の部屋はずっと空き室のままだ」と言うばかりだった。
誠はますます混乱していった。あの女性は一体何者なのか。なぜ彼女は自分の隣に住んでいると言い張るのか。そして、なぜ誰も彼女の存在を知らないのか。謎は深まるばかりで、誠の心は次第に不安と恐怖に支配されていった。
誠はその日以降、普段以上に隣の部屋の存在に神経をとがらせるようになった。仕事の合間や家にいるときでも、彼の頭の中は常にその謎めいた女性のことでいっぱいだった。一方で、彼は自分がただの錯覚に囚われているのではないかという不安も抱えていた。
数日後、誠は仕事の休憩中にマンションの管理人に再び話を聞くことに決めた。管理人の名前は小野寺さんという。彼は誠が尋ねた隣の部屋についての情報を求めると、不思議そうな表情を浮かべた。
「ああ、確かにその部屋は空き室ですよ。この数年間、誰もそこに住んでいません。なぜですか?」
誠は驚きながらも、自分の体験が現実であることを確認するために、改めてその女のことを尋ねた。
「隣の部屋に住んでいると言う女性について知っていますか?白いワンピースを着て、黒い髪の長い女性です」
小野寺さんはしばらく考え込んだ後、首を横に振った。「いいえ、そんな方はこのマンションには住んでいませんね。もしかしたら、他の建物の住人かもしれませんが…」
誠は深く眉を寄せた。それでは、彼が出会った女性は一体どこから来たのだろうか。そして、なぜ彼女は隣の部屋に住んでいると主張したのか。ますます混乱する彼の心に、疑問の種が増えるばかりだった。
その夜、誠は自分の部屋で考え込んでいた。窓の外では月が静かに輝いていたが、彼の心は不安と疑問で満ちていた。突然、彼のスマートフォンが振動し、新着メールの通知が届いた。
それはマンションの管理会社からのものだった。件名は「隣の部屋についてのお知らせ」だった。誠は興味津々でメールを開いた。
メールには、隣の部屋についての特別な調査が行われた結果、その部屋が長らく使用されていないことが確認されたと書かれていた。さらに、最近その部屋のドアが何度か開けられた形跡があるという報告もあった。
誠はメールを読み終えると、呆然としていた。彼の体験がただの錯覚ではなかったことが証明された。しかし、それは彼の不安を解消するどころか、ますます深い謎へと彼を引き込んでいった。
彼は再び隣の部屋に向かう決心を固めた。この謎を解くためには、彼自身がその場に立ち会う必要があると感じたからだ。彼の心には不安と恐怖が渦巻いていたが、それでも彼は前へと進む覚悟を決めた。
翌朝、誠は隣の部屋の前に立っていた。彼の心臓は早鐘のように打ち、手のひらには汗がにじんでいた。深呼吸をして自分を落ち着かせ、意を決してノックをした。しかし、応答はなかった。再びノックするも、やはり何の反応もなかった。
誠は不安と共に階段を下り、管理人室に向かった。小野寺さんにもう一度会い、隣の部屋を確認してもらうよう頼んだ。小野寺さんは少し面倒そうな表情を見せたが、誠の真剣な様子に押されて鍵を持って同行してくれた。
「この部屋ですね」と小野寺さんが言いながら、鍵を差し込みドアを開けた。ドアが開くと、誠は息を呑んだ。部屋の中は薄暗く、家具もない空っぽの状態だった。しかし、何か違和感を覚えた。まるで誰かが最近までここにいたかのような、微かな生活感が漂っていた。
「見ての通り、空き室ですよ」と小野寺さんは言い、部屋の中をざっと見渡した。「あなたが見た女性については、本当に心当たりがありません」
誠は一歩部屋の中に足を踏み入れた。古びたカーテンが窓を覆い、部屋全体が薄暗く感じられた。床にはほこりが積もり、誰も住んでいないことを物語っていた。しかし、その一方で、まるで誰かがここに隠れているかのような不気味な気配も感じた。
「わかりました。ご協力ありがとうございました」と誠は礼を言い、部屋を出た。小野寺さんもドアを閉め、鍵をかけた。
誠はその後も、隣の部屋に関する手がかりを求めて調査を続けた。マンションの他の住人たちにも話を聞いてみたが、誰もその女性のことを知らなかった。まるで彼女がこの世に存在しないかのようだった。
数日後、誠は自室で一人静かに考え込んでいた。隣の部屋の謎はますます深まるばかりだった。その時、ふと一つの考えが頭をよぎった。あの女性が言っていた「ずいぶん前から、あなたの隣に住んでいます」という言葉の意味をもう一度考えてみるべきだと思った。
彼はインターネットでそのマンションの過去について調べ始めた。古い新聞記事や掲示板、ブログなど、手がかりになりそうな情報を片っ端から探した。数時間後、ついに一つの興味深い記事を見つけた。それは10年以上前にそのマンションで起きた事件についてのもので、内容は次のようなものだった。
「〇〇マンションで若い女性が行方不明になった事件が発生。女性は22歳で、白いシルクのワンピースを着ていたとの証言あり。警察の捜査は難航し、未だに解決していない」
誠はその記事を読み進めるうちに、背筋が凍る思いだった。行方不明になった女性の特徴が、自分が見た女性と完全に一致していたのだ。白いワンピース、長い黒髪、そして若い年齢。彼女は本当に自分の隣に住んでいたのだろうか。
誠は恐怖と好奇心が入り混じった感情を抱えながら、その事件の詳細をさらに調べ続けた。彼は過去の新聞記事を読み漁り、事件の関係者や目撃情報を探し出した。次第に、事件の真相に近づいているような気がした。
ある夜、誠は再びあの女性の夢を見た。彼女は静かに微笑みながら、自分の隣に座っていた。夢の中で、誠は彼女に話しかけた。「あなたは誰なんですか?なぜ僕の前に現れたのですか?」
女性は穏やかに答えた。「私はずっとここにいます。あなたが見つけてくれるのを待っていました」
誠は目を覚ますと、冷や汗をかいていた。夢の中の言葉が、彼の心に深く響いた。彼女は何かを伝えようとしているのだろうか。誠は決心を固め、再び隣の部屋に向かった。
彼はドアの前に立ち、深呼吸をした。鍵を使ってドアを開けると、中は以前と同じように薄暗く、空っぽだった。しかし、彼はもう一度部屋をじっくりと調べることにした。床や壁、天井に至るまで、何か手がかりが隠されているはずだ。
しばらく探し回った後、誠は備え付けのクローゼットの中に目を向けた。古いカーペットが敷かれていたが、その下に何かが隠されているような気がした。彼はカーペットをめくり上げると、そこに古びた日記帳が見つかった。
日記帳は埃をかぶっていたが、表紙には女性の名前が書かれていた。
「佐藤美奈子」。誠はその名前を見て、胸が高鳴った。彼女は本当に存在していたのだ。
誠は日記帳を開き、ページをめくり始めた。日記には、美奈子の生活や思いが詳細に綴られていた。彼女がどれだけ孤独で不安な日々を過ごしていたか、そして何か恐ろしい出来事が起こったことが記されていた。
最後のページには、美奈子が助けを求めるメッセージが書かれていた。「誰か、私を見つけて。私はここにいる」。誠はその言葉を読み、彼女の魂が今もこの場所に囚われていることを確信した。
彼は美奈子の魂を解放するために、何をすべきか考え始めた。彼女が求めているのは、真実を明らかにし、安らかに眠るための手助けだろう。誠は警察に連絡し、日記帳を証拠として提出することにした。
警察は誠の証言と日記帳を元に、再び事件の調査を開始した。数週間後、誠は警察から連絡を受けた。彼らは美奈子の遺体を発見し、事件の真相を解明したのだ。美奈子は殺害され、その遺体は隣の部屋の床下に隠されていた。
誠は警察の協力のおかげで、美奈子の魂が解放され、彼女はついに安らかな眠りにつくことができたと感じた。彼の心には一抹の悲しみが残ったが、それと同時に彼は使命を果たしたという満足感を覚えた。
その後、誠は日常生活に戻ったが、彼の心には常に美奈子のことがあった。彼女の存在は彼にとって忘れられないものであり、その経験は彼の人生に大きな影響を与えた。
美奈子の事件が解決したことで、マンション全体にも平穏が戻った。誠は再び静かな生活を送りながらも、彼女のことを忘れずに心に留めていた。そして、彼は美奈子のために小さな祈りを捧げることを日課とした。それが、彼が彼女にできる唯一の優しさだと思ったからだ。
誠の心には、これからも美奈子の思い出が生き続けることだろう。そして、その思い出が彼を強くし、新たな人生の一歩を踏み出す原動力となるに違いない。そしてこれで全ては解決したかに思えた。
第二章【闇の継承-再び暗躍する者】
翌朝、誠はベッドから起き上がると、前夜の出来事がまるで夢のように感じられた。朝の光に包まれたベランダに出て、爽やかな空気を吸い込んだ。久しぶりに快適な気持ちで外を見下ろした時、マンションのエントランスに立っている一人の女性に目が止まった。そこには、地下のゴミ置き場で見たあの女が立っていたのだ。誠は一瞬、目を疑った。「佐藤美奈子の事件は解決したはずではなかったのか?」誠の頭の中で、その思いがぐるぐると巡った。
誠は驚きと恐怖で混乱していた。再び、隣室のことが気になり始めた。佐藤美奈子の事件が解決した後、隣室が空いていることは確認済みだった。にもかかわらず、あの女性が何故このマンションにいるのかが全く理解できなかった。誠の心には不安が募り、「もしかすると、他に誰かがここに潜んでいるのかもしれない」と考えた。彼は意を決して、隣室のドアノブを握ってみた。しかし、ドアは固く閉ざされていた。その夜、誠は何度も隣の様子を気にしながら眠りについた。何かが隠されているような気がして、彼の中で疑問がループし続けた。
数日が経ったある日、誠は5年前に契約した時の不動産屋を訪れる決意をした。地下で出会ったあの女のことがどうしても気になったからだ。受付のカウンターに立ち、緊張しながら不動産屋のスタッフに話しかけた。「すみません。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが。僕の隣は、佐藤美奈子さんの事件の前や後に、やはり女性が住んではいませんでしたか?」
対応してくれたのは、眼鏡をかけたいかにも真面目そうな中年の男性だった。彼は顎を軽く撫でながら答えた。「さぁねぇ、どうでしょう。マンションが建ってから12年程になりますが、僕が担当になったのが7年前からですからね。何か気になることでも?」
誠は躊躇いながらも続けた。「あ、いえ、大したことではないんですが、、。」誠は、なぜか言葉を濁してしまった。しかし、不動産屋はその様子を見て、「気になるようでしたら、本社の保管室に行って以前の資料を詳しく調べてみましょうか?」と提案してくれた。誠は少し安堵し、「分かりそうですか?」と尋ねると、不動産屋は自信ありげに「ええ。全ての住人資料が残っていれば、佐藤美奈子さん以外の女性がお住まいだったかどうかは分かります。」と答えた。「では、よろしくお願いします。」と誠は頼んだ。不動産屋は「承知しました。何か分かりましたらすぐにご連絡します。」と快く引き受けてくれた。
数日後、不動産屋から連絡が入った。誠は速やかにその場に赴いた。
「高橋さん、お待たせしました。確認が取れましたよ。12年前以降、私が担当になる前も住人リストに20代の女性の名前はありませんでした。あ、佐藤美奈子さん以外では。」と不動産屋は言った。「では、男性で住んでいた人はいたのですか?」誠は食い下がった。不動産屋は頷き、「ええ。佐藤美奈子さんが行方不明になってすぐ、初老の男性が一人で住んでいたと記載されています。」と説明した。「その方にご家族は?」とさらに質問する誠に、不動産屋は「いいえ。それが天涯孤独だったとかで。当時の担当者にも聞いてみましたが、その男性が住んでいたのは、僅か半年間だけだったようで、ずっとお一人のようでした。その後は、現在までどなたも住んでいません。」と答えた。
誠は困惑した。女の正体が益々気になってきた。
「ちなみに何故、高橋さんは20代の女性が住んでいないか気にされるんです?」と不動産屋は不思議そうに尋ねた。「あ、いえ、、。なんとなく。変ですよね。あははは。」誠は、精一杯笑ってみせた。
その後不動産屋は、改めて一連の調査結果を誠に説明し、懸念されていた20代の女性についての情報は、どう調べても、やはり一切見つからなかったことを付け加えた。さらに、このマンションは単身男性が大半で、全室で調べたが若い女性は誰一人住んでいないことが分かった。誠は深く眉をひそめながら、考え込んだ。「では、隣に住んでいると主張した女は佐藤美奈子さんでなければ誰なんだ?」その時、ふいに誠の中で何かが少しずつ動き始める予感がした。
その5日後のことであった。誠はマンションのエントランスで突然その女とすれ違った。一瞬で心臓が止まりそうになった。女から話しかけてきた。「あら、またお会いできて嬉しいわ。」誠は動揺しながらも「え、あ、どうも、、こんにちは。」と言葉を返した。誠の体は再び硬くなった。しかし、全神経を集中させてこう切り出した。「あの、あなたのお名前をお聞きしても構いませんか?僕は高橋誠です」「私は藤原櫻子と申します。」女は微笑んで答えた。
誠はさらに踏み込んで尋ねた。「あの、大変失礼なことを伺いますが、あなたは、あ、藤原さんは、本当に今、僕の隣にお住まいなんでしょうか?」藤原櫻子は驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻し、「ええ。どうして?」と答えた。誠は覚悟を決めて、「実は藤原さん。僕、なんだか不思議で仕方がなくて不動産屋に隣室のことを聞いたんです。そうしたら、10年前に初老の男性が一人住んでいただけだと言われました。あなたのような若い女性は住んでいないと言うんです。」と言った。藤原櫻子は黙ってニヤりと笑い、「そう。」と言ってから、自らの過去を語り始めた。
藤原櫻子は10年前、13歳のときに初老の男とこのマンションに住んでいたが、単身用の契約であったため、住んでいたことは隠していたのだそうだ。しかし、ある出来事をきっかけに、彼女はマンションを離れたと言う。誠は、喉が詰まったように尋ねた。「ある出来事とは何ですか?」すると藤原櫻子は、淡々と語り出した。
その出来事とは、10年前にあったとある未解決事件だった。初老の男性の部屋の真ん前の外通路で発見された男の遺体。刑事が来て櫻子に繰り返し質問をし、それが嫌で家を出たということであった。誠は、それを聞きながら、いくつもの疑問が浮かんだ。「ちょっと待ってください。当時の貴女は13歳。初老の男性はご親戚か何かなのですか?」藤原櫻子は微笑んで「いいえ。全くの他人です。」と答えた。「疑問は、それだけじゃありません。刑事は住人である初老の男性ではなく何故13歳の貴女に事情を聞いたのでしょう?」
誠は思い出した。その事件について何度も新聞やニュースで目にしたことがあった。3階マンションの通路で、
60代前半の男性の刺殺体が見つかった事件である。60代の男性は顔が判別出来ないほど刃物で傷付けられていたが、歯型などで身元が分かり、住所不定の櫻田仁という人物であった。
しかし櫻田仁は、ずいぶん前から行方不明で、何故そのマンションで殺害されたのか何の手がかりもない事件だった。
血痕が付いた布がマンション地下のゴミ置き場から見つかったことから、警察は当時の住人全てのアリバイや追跡調査をしたが、決め手の証拠はなく、今も未解決な事件である。
「そうか。このマンションだったのか。」誠は愕然とした。
藤原櫻子が口を開いた。
「高橋さん、私もその殺人事件の真相を知りたいです。だって本当に嫌な事件ですもの。私、トラウマなんですよ。」
誠はしばらく黙り込んだ後、藤原櫻子に向き直り、彼女の瞳をじっと見つめた。彼女の話には何か引っかかるものがあった。誠は内心で決意を固めた。真相を突き止めるために、彼は再び調査を始めることを決心した。藤原櫻子の協力を得ることができるならば、この謎めいた事件の真実に迫ることができるかもしれないと感じたのだった。
「藤原さん、もう少し詳しくお話を聞かせていただけますか?その事件のこと、そしてあなたのことについて。」誠の提案に藤原櫻子は頷き、彼らはマンションのエントランスを離れ、近くのカフェに向かった。藤原櫻子はコーヒーカップを手に取りながら、少しずつ自らの過去を語り始めた。誠は耳を傾けながら、彼女の言葉の中に隠された真実を探ろうとしていた。
カフェの落ち着いた雰囲気の中で、藤原櫻子はゆっくりと話し始めた。彼女の話を聞くうちに、誠は彼女が抱えてきた重荷の大きさに圧倒されていた。カフェの窓から差し込む陽光が彼女の横顔を照らし、その陰影が過去の出来事をより鮮明に感じさせた。
「初老の男性と私が住み始めたのは、私がまだ小学生の頃でした。彼は私を引き取ってくれた人で、名前は藤原一郎と言います。私の両親は早くに亡くなり、親戚もいなかったので、一郎さんが私の面倒を見てくれるようになりました。その経緯をお話しすると長くなりますが。」
藤原櫻子の声には、どこか懐かしさと哀しさが混じっていた。誠は黙って彼女の話を聞き続けた。
「一郎さんは厳しいけれど優しい人でした。私が学校から帰ると、いつも手作りの料理を用意してくれていました。でも、彼は私に何か隠しているような素振りを見せることが多く、特に夜になると部屋にこもりがちでした。彼が何をしているのかはわかりませんでしたが、私には関係のないことだと思っていました。」
誠は藤原櫻子の話に引き込まれながらも、心の中で疑問を抱いた。なぜ一郎は櫻子に対して隠し事をしていたのか。そして、その隠し事が事件とどう関わっているのか。
「それから数年が経ち、私は中学生になりました。手狭な以前のアパートからこのマンションに越してきたのは13歳の時でした。そして、あの事件が起こりました。その日はいつもと変わらない日常でしたが、夜中に突然の騒音で目が覚めました。外を見に行くと、マンションの通路で一郎さんが何かを運んでいるのが見えました。」
誠はその瞬間、事件の夜の状況を思い描いた。藤原櫻子の話によると、彼女が目撃したのは事件の一部始終だったのかもしれない。
「私は恐る恐る近づき、一郎さんに声をかけました。『何をしているの?』と尋ねると、一郎さんは驚いた顔をして、すぐに私を部屋に戻しました。翌朝、警察が来て、一郎さんの部屋の前で遺体が発見されたと知りました。警察は私に何度も質問をし、一郎さんが私を守るために何かをしたのだと感じました。」
藤原櫻子は一息つき、カフェのテーブルに置かれたコーヒーカップを見つめた。その表情には、過去の重荷が再び蘇っているようだった。
「警察の尋問が続く中で、一郎さんは私を守るために嘘をついたのかもしれません。彼が何を隠していたのか、私は今もわかりません。でも、その事件の後、私は一郎さんと逃げるようにマンションを出ました。そこからずっと何かに巻き込まれる恐怖が私に付き纏っていました。」
誠は藤原櫻子の話を聞き終えた後、深く考え込んだ。彼女の話には多くの謎が残されていたが、一つ確かなことがあった。それは、彼女が真実を知りたがっているということだった。
「藤原さん、あなたがこのマンションに戻ってきた理由は何ですか?」誠は静かに尋ねた。
藤原櫻子は少し微笑んで答えた。
「私は、ただ、この事件の真相を知りたいんです。そして、一郎さんが私に隠していたことが知りたい。だから、ここに戻ってきました。」
誠は彼女の決意に感動し「わかりました。私も協力します。一緒に真実を突き止めましょう。」と言った。
彼の言葉に藤原櫻子は頷き、二人は共に調査を始めることを誓った。
第三章《調査の始まり》
その後、誠と藤原櫻子はマンションの住人たちに話を聞くことにした。彼らはまず、マンションの管理人に会いに行った。管理人の小野寺さんは長年このマンションで働いており、住人たちのことをよく知っている人物だった。
「小野寺さん、少し、またお話を伺いたいのですが。」誠が話しかけると、小野寺さんは優しく微笑んで応じた。「もちろん、何でも聞いてください。」
誠と藤原櫻子は、10年前の事件について尋ねた。小野寺さんは眉をひそめながら思い出すように話し始めた。「あの事件は、本当に悲惨なものでした。遺体が見つかった日のことは今でも鮮明に覚えています。」
小野寺さんの話によると、事件が起きた夜は特に静かな夜だったという。遺体が発見されたのは早朝で、マンションの住人たちは皆驚きと恐怖に包まれた。警察が来てからは、住人たちに一斉に尋問が行われたが、誰も手がかりを持っていなかった。
「その遺体は櫻田仁という名前の男性だったと聞いています。住人ではありません。彼がなぜここで殺害されたのか、誰もわかりませんでした。」小野寺さんは重々しく語った。
誠と藤原櫻子は管理人の話を聞き終えた後、他の住人たちにも話を聞くことにした。彼らはマンションの住人たちに声をかけ、一つ一つの部屋を訪ねた。住人たちの中には、事件について何も知らない人もいれば、当時のことを覚えている人もいた。
ある住人、佐々木さんは事件について詳しく覚えていた。「あの日、私は夜遅くに帰宅して、何か不穏な空気を感じました。遺体が発見された場所を通り過ぎるとき、誰かが見張っているような気がしました。」
佐々木さんの証言は、誠と藤原櫻子に新たな手がかりを与えた。誰かが事件現場を見張っていた可能性があるのだ。彼らはさらに調査を進めるため、他の住人たちにも話を聞き続けた。
次に訪れたのは、当時の事件について最も詳しいとされる住人の一人、山田さんだった。彼は退職した刑事で、事件当時も現場に立ち会った人物だった。
「山田さん、事件についてお話を伺いたいのですが。」誠が話しかけると、山田さんは少し驚いた表情を見せたが、快く応じてくれた。「もちろん、あの事件は私にとっても忘れられない出来事です。」
山田さんは、事件当時の詳細を語り始めた。「遺体は通路の真ん中で発見されました。非常に残虐な手口で、顔が判別できないほど傷つけられていました。警察は、遺体の身元を特定するために歯型を使いましたが、それでも手がかりはほとんどありませんでした。」
山田さんの話によると、事件当時のマンションの住人たちの中には、怪しい人物が何人かいたという。特に、一部の住人たちは事件後に急に姿を消したり、挙動不審な行動を取ったりしていた。
「その中で、最も怪しいと感じたのは、当時3階に住んでいた男性、鈴木さんでした。彼は事件後、すぐに引っ越してしまい、その後の行方はわかりませんでした。」山田さんはそう語った。
誠と藤原櫻子は、鈴木さんの情報に興味を持った。彼が事件に何らかの関与をしている可能性があると感じたからだ。重要な手がかりになるかもしれない。
山田さんの証言を元に、誠と藤原櫻子は鈴木さんの行方を追うことにした。彼らは鈴木さんの過去の住居記録を調べ、彼がどこに行ったのかを突き止めようとした。
まず、鈴木さんの住んでいた部屋の現在の住人に話を聞くことにした。その部屋は単身用だが、こっそり若いカップルで住んでいた。彼らは誠と藤原櫻子が訪れると、快く迎え入れてくれた。
「以前ここに住んでいた鈴木さんという男性のことを知っていますか?」誠が尋ねると、カップルの男性が答えた。「はい、少しだけ聞いたことがあります。彼は突然引っ越してしまったと聞いていますが、詳しいことは分かりません。」
カップルの女性も加えて話を続けた。「でも、引っ越す前に何か奇妙なことがあったと聞いています。鈴木さんは、夜中に何度も誰かに追われているような素振りを見せていたそうです。」
誠と藤原櫻子は、その情報を元にさらに調査を進めることにした。鈴木さんの過去を探るために、彼の知人や友人に話を聞くことが重要だと感じたからだ。
次に訪れたのは、鈴木さんの元同僚である田村さんだった。彼は鈴木さんと同じ会社で働いており、鈴木さんのことをよく知っていた。
「鈴木さんのことを少しお伺いしたいのですが。」誠が話しかけると、田村さんは少し考え込んでから答えた。「鈴木さんは、ちょっと変わった人でした。事件が起こる少し前から特に挙動が変で。妙に神経質になっていました。何かに怯えているようでした。」
田村さんの話によると、鈴木さんは事件の数週間前から頻繁に会社を休みがちになり、同僚たちとも距離を置くようになったという。そして、事件が起こる直前に、急に辞職し、姿を消してしまったのだ。
「鈴木さんがどこに行ったのか、ご存知ですか?」誠が尋ねると、田村さんは首を振った。「いいえ、彼が辞めた後のことはわかりません。ただ、彼が何か大きな問題を抱えていたことは確かだと思います。」
誠と藤原櫻子は、鈴木さんの行方を突き止めるために、彼の家族や友人にも話を聞くことにした。彼の家族が何か手がかりを持っているかもしれないと考えたからだ。
次に訪れたのは、鈴木さんの妹である鈴木由美さんだった。彼女は兄の行方を心配しており、彼が何か危険なことに巻き込まれたのではないかと感じていた。
「ずっと兄のことを心配しています。あの事件の後から、急に連絡が取れなくなりました。兄は何か大きな問題を抱えていたのかもしれません。私には何も言ってくれませんでしたが。」由美さんは涙を浮かべながら語った。
誠と藤原櫻子は、由美さんの話を聞きながら、鈴木さんの行方を探る手がかりを見つけようとした。彼女によると、鈴木さんは事件の直後にどこか遠くへ行くと言っていたという。彼がどこに行ったのか、彼女も知らないが、もしかすると、由美さんも知らない彼の友人たちが何か知っているかもしれないと語った。
第四章【真相への接近-闇の向こう側】
誠と藤原櫻子は、鈴木さんの友人たちに話を聞くために、次に彼の唯一の親友である小林さんに辿り着いた。
小林さんは幼少期に鈴木さんの近所に住んでいたに過ぎないが、鈴木さんは彼にだけは心を開いていたらしい。
二人が通っていた算盤塾の講師からの情報である。
小林さんは鈴木さんと長年会ってはいないが、電話や手紙のやり取りが継続していたようだ。小林さんを訪ねると、彼のことをよく知っていた。
「鈴木さんのことをお伺いしたいのですが、彼が事件の後にどこに行ったのかご存知ですか?」誠が尋ねると、小林さんは少し考え込んでから答えた。「鈴木は事件の後、私に連絡をくれました。彼は非常に怯えていて、何かに追われているような感じでした。」
小林さんによると、鈴木さんは事件の夜に何かを目撃した可能性があるという。彼はそのことについて詳しく話そうとはしなかったが、非常に怯えた様子だったそうだ。
「鈴木は、『あの夜、見てはいけないものを見てしまった』とだけ言っていました。そして、彼はその後すぐに遠くの町に逃げると言って、連絡を絶ちました。」小林さんはそう語った。
誠と藤原櫻子は、小林さんの証言に基づいて、鈴木さんが逃げた先を探ることにした。彼が言っていた遠くの町がどこなのかを突き止めるために、彼らはさらに調査を進めることにした。
次に訪れたのは、鈴木さんが最後に連絡を取ったというもう一人の友人、佐藤さんだった。彼は鈴木さんの前職の同僚で、趣味の囲碁でお互いウマが合ったことから善意で鈴木さんに少額のお金を貸していた。鈴木さんが逃げる直前に返済を待ってほしいという連絡を受けていた。
「鈴木さんが最後に連絡をくれたと聞いたのですが、何か手がかりはありますか?」誠が尋ねると、佐藤さんは頷いた。「はい、彼が最後に話していたのは、静かな田舎町のことでした。彼はそこで新しい生活を始めると言っていました。仕事も頑張るからお金の返済は少し待ってくれということでした。」
佐藤さんによると、鈴木さんが逃げた先は小さな村で、彼はそこで新しい名前を使って生活を始めたいと言っていたらしい。鈴木さんがその村の名前を教えてくれたが、それがどこなのかははっきりとはわからないという。
「村の名前は確か、『佐山村』と言っていたと思います。でも、それがどこにあるのかはわかりません。彼はそこで静かに暮らすつもりだったようです。」佐藤さんはそう語った。
誠と藤原櫻子は、佐山村の手がかりを元に鈴木さんの行方を追うことにした。彼がそこで新しい生活を始めたのならば、向かえば何か手がかりを見つけることができるかもしれないと感じたのだった。
第五章【佐山村の探索】
誠と藤原櫻子は、とうとう佐山村を探し出した。こんなところに村があり、人が生活していたのかと不思議なほど、人里から離れていた。村の入り口に立ち、周囲の景色を見渡しながら、いくつかの民家を眺めていると、道端で回覧板を持って歩いている人物を見つけた。彼は年配の男性で、縦じまの入った上着を着ており、村の住民らしい様子だった。彼の顔には、時折り影が落ち、人生の経験豊かな表情が浮かんでいる。周囲の静けさに溶け込むように、彼は静かに歩みを進めていた。
「鈴木さんという名前の方がここに住んでいるかどうかを知りたいのですが。」誠は彼を呼び止めた。男性はゆっくりと立ち止まり、誠と櫻子を見つめた。その目は深い洞察を秘め、
柔らかい微笑みが顔を照らしていた。彼は誠の質問に答えるために口を開いた。
「鈴木さんという名前の方はこの村にはいないようです。ただ、最近移住してきた方が数名いますので、彼らの中にいらっしゃるかもしれません。」
男性の答えに誠と藤原櫻子は少し驚きながらも、その情報を受け止めた。村の住民たちに話を聞くため、彼らは男性の助けを借りることにした。最初の対象は、最近移住してきたという住民、村田さんだった。
村田さんの家に到着した二人は、鈴木さんについて尋ねた。村田さんは驚いた様子で答えた。「最近移住してきた人の中に、確かに最初は鈴木と名乗った人がいたかもしれません。でも、彼は今、別の名前で呼ばれています。」
その後、村田さんはその人物が非常に内向的で、人とあまり関わりたがらない性格だと説明した。また、彼が村の外れにある古い家に住んでおり、ほとんど外出しないとも言った。
誠と藤原櫻子は、その古い家を訪れることに決めた。その家は村の外れにあり、木々に囲まれた静かな場所にあった。彼らが家に近づくと、中から人の気配がした。
「こんにちは、もしかしたら貴方は、鈴木さんではないですか?」誠が尋ねると、出てきた人物は驚いた表情を浮かべながらも、口を開いた。「どうしてそう思う?何の用だ?」
誠と藤原櫻子は、鈴木さんに自分たちのことを説明し、マンションの事件について話し始めた。鈴木さんは最初は警戒していたが、やがて話に耳を傾け始めた。
「私は、あの夜に何かを目撃しました。それ以来、何かを感じているんです。だからここに逃げてきたのですが…まさか、ここで見つかるとは。」鈴木さんはそう語った。
鈴木さんの話によれば、彼が目撃したのは事件の犯人とされる人物だった。彼はその人物が遺体を処理するところを目撃し、それが原因で命の危険を感じて逃げ出したのだという。
「僕は、その人物が遺体を運んでいるのを見てしまったんです。」鈴木さんの告白に、誠と藤原櫻子は驚愕しながらも、遂に突き止めた事実に興奮した。
第七章【新たな展開】
鈴木さんの話を聞いた後、誠と藤原櫻子は直ぐにマンションに戻らねばならないと思っていた。彼らは藤原一郎の過去をさらに調査するために、マンションの住人たちや近隣の人々に、もう一度詳しい話を聞くことにした。
これまで聞き逃した何かの手掛かりがあるような気がしていた。
マンションに戻った二人は、まず管理人の小野寺さんに再度話を聞いた。
小野寺さんは、またか?という顔をしてだいぶ呆れてはいたが、彼は藤原一郎のことをよく知っており、彼がどのような人物だったのかを詳しく話してくれた。
「藤原一郎さんは、非常に寡黙で謎めいた人物でした。彼はいつも夜遅くに帰宅し、ほとんど外出しなかったようです。隣人との交流も少なく、何か秘密を抱えているような感じがしました。」小野寺さんはそう語った。
小野寺さんの話を聞きながら、誠と藤原櫻子はさらに藤原一郎の行動を調べなければと感じていた。
全ての鍵は、藤原一郎が住んでいた部屋の中に隠されているのではないだろうか、何か見落としてはいないだろうか、ここまできて、何か大事な手がかりが残されているような気がしてならない。
彼らは小野寺さんの許可を得て、再び空き部屋を調査することにした。部屋の中は静かで、誠が関わったもう一つの事件、佐藤美奈子の過去の痕跡がまだ残っているように思えた。誠と藤原櫻子は慎重に部屋の中を探し回り、
佐藤美奈子以外の、何か手がかりを見つけようとした。
しばらくして、誠が一枚のメモを見つけた。佐藤美奈子の捜査のときに、
警察は隅々まで探したはずであるが、そのメモは、備え付けのガスコンロの間に、何故かひっそりと挟まっていた。メモには、彼が事件の直前に何か大きな計画を立てていたことが書いてあった。
「このメモには、一郎さんが事件の夜に何をしていたかが書かれています。」誠はそう言いながらメモを読んだ。
それには一郎が事件の夜に遺体を運び出した理由が書かれていた。
彼は遺体を隠すために、真犯人の命令で行動していたのだという。その犯人とは、マンションのオーナーである山口さんだと書いてあった。
藤原一郎は、山口さんに脅されて遺体を処理する役目を負わされたのだ。彼は櫻子を巻き込まないために黙っていたのだ。これで本当に事件の謎は解けたのだ。
第八章【真相の究明】
誠と藤原櫻子は、藤原一郎のメモを元に危険を承知で山口さんに会いに行くことにした。山口さんは現在もマンションのオーナーであり、町内会の役員もしていた。住人のためにも彼の行動を問いただす必要があった。
誠は正義感に燃えていた。
彼らは山口さんの家を訪ねた。山口さんの家はマンションからほど近い古びた木造建築で、周囲には色褪せた庭の植物が荒れ果てたまま放置されていた。玄関の扉は重厚で、何度も塗り替えられた痕跡があった。誠がドアをノックすると、しばらくしてから内側で足音が響いた。
ドアがゆっくりと開き、中から現れた山口さんは50代半ばの男性で、鋭い目つきと疎な白髪が特徴的だった。彼はやや困惑した様子で、二人を見つめた。
「すみません、突然の訪問、失礼します。私たちはある事件についてお聞きしたいのですが」と誠が切り出した。山口さんは最初は驚いた表情を見せたが、やがてその顔には冷たい笑みが浮かんだ。
「事件のこととは?」
山口さんは冷ややかな目で誠と藤原櫻子を見つめた。その笑みは、まるで何かを知っているかのような、不気味な余裕が感じられた。彼の背後には薄暗い室内が広がり、古い家具や本が乱雑に置かれていた。
「ええ、私たちは自分達の安心のために事件について情報を集めています。」藤原櫻子が口を開いた。彼女の声には若干の緊張が含まれていた。
山口さんはゆっくりと頷き、「それで、どの事件のことをお尋ねですか?」と皮肉を込めたような口調で尋ねた。彼の目は鋭く光り、その視線は誠と櫻子の内面を見透かすかのようだった。
誠は息を飲み込み、さらに踏み込んだ質問をした。「佐藤美奈子さんの事件ではなく、次の未解決事件について調べています。失踪した鈴木さんが何か事件ついて目撃したと言っています。貴方は何かご存知でしょうか?」
山口さんは一瞬黙り込み、部屋の奥に視線を向けた。その姿は、何かを思い出そうとしているかのようだった。やがて、彼は再び口を開いた。
「鈴木さんね…。あの人が何を見たか、ですって?」彼の声は低く、重々しいものだった。
その瞬間、家の中の薄暗い光景と、山口さんの冷たい表情が、誠と藤原櫻子に迫る危機感を強めた。家の外では風が吹き、木々のざわめきが聞こえてきた。緊迫した空気の中で、二人は真実に近づいていることを感じ取っていた。
「君たちは藤原一郎のことを知っているのか。」山口さんは冷淡に話を続けた。
山口さんの話はこうだ。
或る日山口さんは、藤原一郎の怪しい行動に気付いた。人を避けるような目付きと何か隠しているような挙動を感じ、厄介なことが起こらないうちにと考え、探偵に頼んで藤原一郎に尾行をつけた。その結果、藤原一郎が金に困り、ある闇組織の密輸に関わっていたことを知った。すぐに警察に話しても良かったが、それを脅しに利用出来ると判断し、山口さんが関わってきた地上げ屋との厄介な仕事を藤原一郎にやらせることにしたのだと言う。
しかし自分は例の未解決事件とは無関係だと語った。
「でも、私には証拠がある。藤原一郎さんのメモが全てを明らかにしている。」誠はそう言いながら、メモのコピーを山口さんに見せた。
山口さんは一瞬動揺したが、すぐに冷静さを取り戻した。「それがどうした?証拠があっても、私を捕まえることはできない。」
しかし、誠と藤原櫻子は諦めなかった。彼らはすぐに警察に行き、山口さんの告白を録音したものと藤原一郎さんのメモを持参し事件の再調査を強く依頼した。
警察は誠と藤原櫻子の証言を元に、山口さんに任意同行を求め、事件の全貌を明らかにするために捜査を進めた。
これでやっと、誠と藤原櫻子は静かな日常を取り戻した。彼らは共に真実を追い求め、困難を乗り越えてきた。
「これで、全てが終わったのですね。」藤原櫻子は感慨深げに言った。
「はい。でもこれからが新たな始まりです。僕たちは過去を乗り越えて、
これから明るい未来に向かって歩んで行かなければなりません。」誠は微笑みながらも、力強く答えた。
誠は、藤原櫻子が過去の苦しみと試練を乗り越えて歩み出す未来に付き合う自分の運命をかみしめていた。
いつしか特別な愛にも似た絆が芽生えたように誠は感じていた。
これからは希望に満ちた未来が待っているに違いない。
誠の顔は明るかった。
最終章【闇の終幕】
誠の携帯が鳴った。その鈴音が静かな夕闇を切り裂くように響いた。
それは不動産屋からの電話だった。
受話器越しに聞こえる声は、少し緊張したものだった。
「高橋さん、大変言い難いことなんですが、さっき警察から連絡がありまして、ある事実が分かりました。貴方の隣室の前で、10年前に事件があったことはご承知ですか?」彼は口元を引き締め「はい。知っています。」と答えた。不動産屋は続けた。
「殺されたのは高橋さんの隣室に住んでいた初老の男性でした。藤原一郎という名前で賃貸契約をしていましたが、本名は櫻田仁でした。」
不動産屋の言葉が重く宙に浮かんだ。「え?」誠は声を絞り出すように尋ねた。
「高橋さん、この前私に、20代の女性が隣に住んでいないかお聞きになったでしょう?当時、隣室に12、3歳の女の子が出入りしていたことを当時を知っている住人の方が思い出したようなんです。そしてその女の子が地下のゴミ置き場で、赤い色の布を捨てていたようだったと言うんです。」
誠は混乱した。
「え!何ですって?」
「いやぁ、古い記憶ですからね、
勘違いって事もあり得ると思いますが、もし、その女の子が成長していたら、今、22、3歳だなと思ったら急に怖くなっちゃって。」
不動産屋の声が震えているのがわかった。
誠は、出来るだけ冷静に努めながら聞き返した。
「オーナーの山口さんと事件の関係は、どうなったんでしょう?警察から何か聞いていますか?」
「山口さんは、過去に恐喝の前科があったようです。確かに藤原一郎、つまり櫻田仁とも深い関わりがあったようですが、殺害とは無関係でした。」
「では、隣室から僕が見つけたメモは、一体、、?」
不動産屋は、一呼吸置いてから答えた。
「そのメモのことなんですが、藤原一郎、あ、いや櫻田仁の筆跡を調査したところ、メモの筆跡は全くの別人であったようなんです。」
マンションのロビーには不気味な静寂が漂っていた。
電灯の光と影が踊る中、誠は不動産屋の電話での驚くべき内容をまだ消化しきれずにいた。不動産屋の声が、冷たい風に似た響となって残り、耳の奥で木霊している。
通話を終えると、誠は藤原櫻子に視線を戻した。
外は夕暮れの光に包まれ、長い影が廊下に伸びている。鮮やかなオレンジ色の夕焼けが、建物の壁に優雅な影を落としていた。人通りもまばらで、ただ静かな雰囲気が漂っているだけだった。藤原櫻子は微笑んだが、その微笑みにはどこか不穏なものが宿っているようにも見えた。彼女の背後には、マンションのロビーの中庭から漏れる微かな水音が聞こえた。小さな噴水が、夕暮れの中で優雅に水しぶきを舞わせている。ロビーの片隅には、一人の老人が、ひっそりと本を読んでいる姿があった。
「櫻子さん…」誠の声が小さく掠れ、少し震えていた。彼はなんとか彼女の目を見つめ、不安げな表情を抱えていた。誠は、絞り出すように言った。
「また会えるといいですね。」彼の言葉が終わると、藤原櫻子は微笑みを深め、そして、ニヤりと笑った。
その微笑みには、深淵なる謎が隠されているように思え、誠はその奥深さに妙に惹かれながらも、その意味を解き明かすことはできなかった。
彼女は静かにマンションのエントランスを出ると、そのまま闇に消えていった。その姿はまるで夕闇の影に紛れる幻のようであり、誠の心には彼女との出会いから生まれた新たな謎への興味と不安が、深く根を張っていた。彼の心は解き明かせぬ謎に取り憑かれていた。
誠は藤原櫻子の後ろ姿が消えるのを見送りながら、不安と好奇心が入り混じった感情に囚われていた。彼女の微笑み、これまでの振る舞い、そして今回の事件について、彼はますます疑問を抱き始めた。しかし、すべてが謎めいて見える中、彼には確かな気持ちが生まれていた。それは、この事件に執着する自分の不可解な感情と藤原櫻子に対する言いようのない強い欲望だった。
ロビーの中庭から漏れる微かな水音が、彼の意識を引き戻した。小さな噴水が、夕闇の中で静かに水しぶきを奏でている。その様子が彼に安らぎを与えるかのように感じられたが、同時に、事件の謎めいた雰囲気と対照的な風景に、彼は、さらに不気味な感覚を覚えた。
12、3歳の少女が赤い布を捨てていたという話。それは一体何を意味しているのだろうか。彼女が事件に何らかの関与があるのか、それとも単なる偶然なのか。誠の思考が深みにはまり込んでいく。
不動産屋の言葉が彼の頭を駆け巡る。彼は事件の詳細を振り返る。
10年前の事件。隣室の男性が60代の男を殺害したのではなく、殺されたのは隣室の男性であったのだ。そして、12、3歳の少女が関わっていた可能性。隣室の男性と住んでいたという藤原櫻子が彼と一緒に生活を共にした理由。すべてが絡み合い、彼の頭の中である線がつながり始めた。
しかし、謎はまだ解けていない。彼は自分自身に問いかけた。「なぜ今、藤原櫻子は現れ、この事件が再び動き出したのか?なぜ僕が事件に関わることになっかのか?」
ついさっきまで彼の中にあった確信は、次第に恐怖へと変わっていった。
誠の視線がロビーをさまよい、その中にいる老人の姿に目を向けた。老人は本を読んでいるが、その表情は静かな怨嗟とも取れるものだった。その存在が、彼の不安を一層増幅させるかのように感じられた。
誠は再び外の夕闇を見つめた。彼の心は相変わらず不穏な空気に包まれ、
彼が今立ち向かうべき謎の山は、まだその頂上に達していないように思えた。
誠は深いため息をつき、恐れと興味が入り混じった心境を押し殺した。
そして、重い決意を固めると、彼は一歩前へと踏み出した。
その足音が荒涼とした闇に吸い込まれるように消えていく様子は、まるで
何処までも解明されないブラックホールにでも飲み込まれていくようだった。
そして闇に包まれた道を進む彼の姿が、次なる扉を開かざるを得ない予感をさせるかのようだった。
どんな場所に彼が踏み込んでしまったのか、これから何が彼を待ち受けているのか分かるはずもない。
その答えは、誰の手に握られているのか?
周囲には再び不穏な静寂が漂い始める。全ては、不透明なままだ。
彼の心の奥深くには、暗い影が立ち込めているような感覚が漂っていた。
彼の決意の裏に渦巻いているものは、不吉な闇の延長なのか。
彼の最も深い恐怖と闇の広がり。
彼が踏み込んだ先には、知らぬ間に彼を蝕んでいくものが潜んでいるかもしれない。
その不気味な静寂の中で、彼は自分が招かれた運命を持て余した。その運命が彼をどこへと導くのか、そして彼がそこで何を見つけるのか、彼にはまだ分からない。
不穏な現実に直面する覚悟を持ってはいないのだ。
暗闇の中に沈む一筋の光のように、終わりの見えない道を照らし続けるだけである。
誠は漆黒の暗闇を感じながら、マンションのロビーを後にした。夜の帳が降りる中、外の冷たい風が彼の頬を撫で、彼の心に一層の寒さをもたらした。街灯の淡い光が路面にぼんやりとした影を落とし、まるで幽霊たちが彼の行く手を見守っているかのようだった。街は静かで、人々の気配もほとんど感じられなかったが、その静寂の中には、これまで気が付かなかっただけで、いつも何か不気味なものが潜んでいるに違いない。
彼は足元を見つめながら歩き続け、暗い夜の中で自分の思考が深みにはまり込んでいくのを感じた。通り沿いの古びた建物や、ひっそりと佇む店のシャッターが、まるで無言の証人のように彼を見つめ返していた。遠くでかすかに犬の吠える声が聞こえ、彼の不安をさらに煽る。風が吹き抜ける音が、彼の心の奥底に響き渡り、その音に耳を傾けると、まるで誰かが彼の名を呼んでいるような錯覚さえ覚えた。
道端の木々が風に揺れ、その影が彼の足元で踊るたびに、彼の心は一瞬の安堵と恐怖の間を行き来した。通りの先に見えるマンションの影が、まるで巨大な怪物のように彼を待ち受けているように見えた。誠は、自らが進むべき道の先に何が待っているのかを考え、再び不安に包まれた。
彼はふと立ち止まり、周囲を見渡した。冷たい空気が彼の呼吸を白く曇らせ、夜の静寂の中でその息が消えていく様子を見つめた。彼の心臓の鼓動が耳に響き、その音がまるで彼の不安を代弁するかのように鳴り響いた。誠は再び歩みを進めたが、その一歩一歩が、まるで底知れぬ闇の中へと進んでいくような気がした。
彼の頭の中で、藤原櫻子の謎めいた微笑みが何度も蘇る。これから彼が見つけるであろう真実は、果たして彼が望むものであるのか、それともさらなる恐怖をもたらすものなのか、それは分からない。
誠には、藤原櫻子との出会いが新たな謎を生み出し、その謎が闇の中で彼を待ち受けていることしか分からない。
この夜の静寂の中で、彼が踏み込んだ世界はどこまで続くのだろう。


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