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やくにたたないねこ【2】

続きです


〈一〉

 珍しく母から食事に誘われたので、瞳は先週買ったばかりの生地の薄いネイビーのワンピースとジャケットを羽織り待ち合わせの新宿駅へと急いだ。当日の約束を取り付ける事を好まない瞳は、本来ならば断る処ではあるが丁度母に話しておきたかった事があったので、これ幸いとばかりに受諾の言葉を電話口で発した時は既にクローゼットを開けていた。
 瞳には五年付き合っている恋人がいて、これまで母には匂わせる程度しか話してこなかったのだが、突然彼が「お母さんに会ってみたい」と言い出したのだ。結婚なんて仰々しい関係を望んでいない瞳は、てっきり恋人も同じ気持ちだとばかり思っていたので少々驚いたものの、その気持ちは純粋に嬉しかった。
 瞳は父の顔を知らない。物心ついた時に瞳の側にはいつも祖父母がいてくれた。母親は外に働きに出ていたが祖父母のお陰で寂しいと感じた事はなかったし、何より本を読む事が好きだったので図書館で借りた本をいつも片手に過ごしていた記憶がある。
 高校生になった最初の年の夏、突然祖父が他界した。
 これまでの人生で一番という程の涙を流し、瞳は四日学校を休んだ。悲しくて悲しくてこのまま砂にでもなれたらどれ程幸せだろうかと思ったが、自分が失意のどん底に居座っていればいる程祖母が悲しめないのだと気づくと、なんとか瞳はもう一度世界と向き合う事にした。
 祖父のいなくなった瞳は祖母とふたりぐらしになった。母親が度々恋人を作っては奔放している事は流石にこの頃には気づいていたが、祖母は何も言わず変わらない愛情を瞳に注いでくれていたのでやはり不満はなかったのだ。
 瞳は父にも母にも怒りという感情を抱いた事がない。身勝手でどうしようもない人間だとは思っているが、それでも戸籍上は親子だ。けれども母親といえど全人類の母という役割を持つ人間が誰しも完璧なワケではないし、親だって人間なのだから仕様がない事もあるだろう、そう悟ったのが十八の頃である。

「……自分から誘っておいて遅刻するとかどうなの」
「ゴメンゴメン、忘れ物して取りに戻っていたのよ」
 待ち合わせは駅東口横の交番の前で、と言った本人は指定した時間より二十四分も遅れてやってきた。それだというのに、全く慌てている様子も詫びる素振りもないのが、母だ。
 分かりきっていた事だが、それでも多少は頭にくる。瞳は聞こえるようにわざと大きくため息を吐き出すと、さっさと歩き出した。店の場所は知っている。
「ねえ瞳ってば、謝ってるじゃない」
「お母さんのゴメンなんてアテにならない。どうせ悪いなんてこれっぽっちも思ってないでしょう」
「何でそんな酷い事言うのよ。悪いって思ってる、ね、機嫌直して?」
 これではどちらが年上なのか分からない。瞳は二度目のため息をつくと、もう怒ってないよ。とだけ呟いた。今更、だ。母に叱責した処で無駄なカロリーを使うだけだというのは、嫌という程思い知らされている。

「おばあちゃん、元気にしてる? この前風邪ひいたって言ってたけど」
「ああ、元気元気。家庭菜園なんて始めちゃって、最近なんかイキイキしてるのよね」
「それならよかった……今度また連休に帰るって伝えておいて」
「電話してあげたら? 瞳が直接言う方が実彩子さんも喜ぶわ」
 母は、実の母親の事を実彩子さん、と名前で呼ぶ。これは瞳が小さな頃からずっとそうで、もしかして二人は本当の母娘でないのでは、と勘ぐった事もあるが正真正銘の親子だと祖父が笑っていた。それ程までに二人は似ていない。
「あと、ねこは? ナトリも大きくなったよね」
「ふふ、ナリちゃんはもう成猫だからあれ以上は大きくならないわよ」
「そうなんだ」
 行き慣れた中華料理店は少人数でも個室へ案内してくれるので、瞳は気に入っていた。人の目を気にして食事をする事が苦手なのだ。母はここで必ず水餃子と小籠包の飲茶セットを頼む。今日も例に漏れずそうだった。瞳はエビ炒飯を頬張りながら母が保護センターで貰い受けた猫の事を脳裏に浮かべる。自然と口元かほころぶのはやはり子猫の時の愛らしさを知っているからだろう。
 母は祖母の自宅から目と鼻の先に住んでいて、瞳のアパートからは同じ沿線で五駅離れている。それでも瞳の方が間違いなく祖母を会っているだろうが、ここ数ヶ月忙しくて会いに行けないでいたのだ。

「またナリちゃんに会いにきてやってよ。喜ぶわ。あの子、瞳の事好きだから」
「そんな事分かるの? それよりお母さん、今日何で突然誘ったの。彼氏にでも振られた?」
 落ちてくる横髪を耳に掛けながら、瞳は烏龍茶を一口含む。母は恋多き人で、数ヶ月単位で知らない男が側にいるのだ。直近で瞳が知っているのはどこぞの不動産屋の二代目だった筈。
「いやだわ。母親が娘をランチに誘ったらおかしい?」
「お母さんの事、母親だなんて思った事ないんだけど」
 嫌味を言った訳じゃない。本当の事だから仕方がない。それでも一瞬、母の目が深い藍の様な色を湛えたのを瞳は見た。それでも母が哀愁に浸る権利など、少なくとも瞳の前ではない。
「……おいしいわね、ここの飲茶。瞳が中学の卒業式の時にお父さんと実彩子さんと四人で来たっけ」
「うん。お爺ちゃんここの海鮮春巻き好きだったからね」
「私、お父さんはずっと長生きすると思ったのよ。百歳くらい」
 祖父の寿命を縮めたのが母のせいだとは決して思わないが、それでもいくらか悩みの種であった事は違いないだろう。親の愛を知らない孫娘の為に祖父という人は瞳に有り余るくらいの愛情をかけてくれた。そう思えば、母の心無い冗談にもならない戯言を笑って流せる程、瞳は大人になりきれてはいない。
「……誰かさんが心配ばかりかけるから」
「怒ってるの? 私の事」
「別に。お母さんに対して怒りを感じた事はないよ。憤った事は数え切れない程あるけど」
「そうよね、私本当に貴方にとっては酷い親だわ」
 珍しく母は殊勝な言葉と共に箸を置くと、何か思いつめた様に店の一角を見つめた。しかしその憮然さが癇に障り、瞳はわざと音を立てて箸をテーブルへ叩きつけた。思いの外大きな音が鳴ったので少し驚いた。
「なにそれ。開き直ってるの? だから親だなんて思ってないから気にしなくっても良いのに」
「そうじゃないわ。ただ、お母さんいつも瞳には悪いと思ってる」
 一度気づいてしまうと駄目だ。ふつふつと湧いてきた憤激の泡は膨張し、胸のうちを黒く焦がす。瞳は店で一番人気のエビチリをかき込む様に口に流し込むとそのまま勢いよく席を立った。このまま母の前に平然と座って会話をしていられる気分じゃない。それがどうしてなのか分からない。いつもならば、話半分に聞き流しているというのに。
「瞳ちゃん!」
「……トイレ」

 子どもの頃猫がほしかった。
 友達の家で子猫が産まれたから貰える口がある、だから飼いたいと言ったら有無を言わさず駄目だと言われた。祖父母は良いと言ってくれたのに。それだというのに、自分で言った言葉なんてまるで知りませんでした。と言わんばかりに猫なんて飼いだしたのだから、本当に笑ってしまう。
 瞳は怒った。本当は、ずっと母に対して怒りを覚えていたのだ。祖父母がいてくれなければおそらく自分は施設に入れられていただろう。いつも自分本位で身勝手で、母親という肩書より女である自分でいたい母のきまぐれに振り回されてきた。瞳はパウダールームの鏡の中の自分を見て、思わずぎょっとした。静かなる怒り、を絵に描いたような顔をした女が仁王像の様に棒立ちで映っている。そのあまりにも普段の自分と掛け離れた形相に、思わず喉が鳴った。
「……バカみたい。今更あのひとに怒ってどうなるっていうのさ」
 蛇口を思い切り捻って手を水で浸す。何度も何度も両手の皮膚を擦り上げ、母への感情ごと流してしまいたかった。そうして爪先まで冷えて間隔がゆるくなる頃には、瞳の心は凪いでいた。
 根っから基質が合わないのだろう。親子といえども必ずしも仲良くできる訳はない。割り切って、これまで通り年に数回顔を合わせる程度の距離感で良いじゃないか。
 そこまで考えると、瞳は手をハンカチで拭き化粧室を後にした。もう大丈夫だ。いつも通り笑って流せる筈。そうしたら母に恋人の話をしよう。会いたがっている、と言えばきっとあの人は喜ぶから。
 しかし瞳が個室席へ戻ると、そこは蛻の空であった。


つづく

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