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やくにたたないねこ 【1】

二年前くらいに書いたものです。

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「かわいいでしょ。三ヶ月だって」
「どうしたの、この猫」
「保護センターでもらってきたのよ。ほら、クリーニング屋の高井戸さんいるでしょ? 一緒に来て欲しいって頼まれて」
 三ヶ月、と言われたその猫は、白地に黒っぽいキジの様な模様をあしらった所謂日本猫で、おっとりとした顔で生成りのソファーに丸まっている。
「オス? メス?」
「男の子よ。去勢手術を一昨日済ませてきたの。それでね、高井戸さんってば笑っちゃうの。猫が欲しいって自分が言い出したクセに、結局どの子も引き取らず帰っちゃうんだから」
「……高井戸さんって奥さん?」
「ああ、息子さんよ。町内会の役員で去年一緒だったの。今年で三十一になるんだって。早いわよねぇ」
 窓枠が風でガタガタ音を立てている。薄いアルミのサッシに断熱効果はあまり期待できず、この家での唯一の熱源であるストーブの上では古めかしいやかんが湯気を立てていた。猫はストーブの熱気がほどよく届く位置を自分で見つけたのか、一度立ち上がるもすぐに目を細め再び丸くなった。
「お母さん、猫なんて育てられるの?」
 自分の子どもだって放棄したくせに。
 瞳は喉まで出かけたその恨み言を飲み込むと、半年ぶりに立ち寄った母の家で冷たい牛乳を冷蔵庫から出し、それを一気に煽った。子どもの頃から牛乳がきらいだった。

 ナトリに初めて会った日も、風の強い日であった事を瞳は思い出した。
 名前をどうしようか、と考えていた時にちょうどテレビから宮城県名取市の映像が流れていたらしい。光源氏のモデルとされる藤原実方の墓のニュースを放映していたそうだが、それならば「ヒカル」や「ゲンジ」でも良さそうなのに、瞳の母はストレートに「ナトリ」と名付けた。
 そうして、ナトリを引き取って三年が過ぎた春。瞳の母親は若い男と蒸発した。


***

「あー……車で来たらよかった。雨降りそう」
 エコバックにひき肉や白菜、キャベツなんかの食材を詰め込み溢れんばかりのそれを瞳は自転車の前カゴに押し込んだ。空は今にも泣き出しそうな曇天で、今日に限って自転車で来てしまった事を呪いつつ、その原因はねこに車のキーを隠されたからだという事を思い出した。
 しかし思い出したからと言ってどうにかなるものでもなく、瞳は十年前にホームセンターのセールで買い求めた銀色の自転車に跨ると、勢いをつけてペダルを踏んだ。帰り道は上り坂だ。三十手前かつ運動不足の身体には少々厳しいが、泣き言を零している余裕はない。
 特別快速が止まらない駅ではあるもスーパーや病院、小さいがある程度のジャンルを網羅しているショッピングモールに、お役所関係の施設が総合的に集まっている駅前に不便を感じた事がない。勿論、百貨店に入っている様なオシャレなショップや、巷で有名なデザートなんかは無いが瞳にとってそれらは特筆して必要を感じない物だ。
 おおよそ治安も悪くなく、家賃も手頃な立地が気に入っているが唯一の欠点を上げるとするならば、街の中心部を川の様に流れる坂道だ。休みの日ともなれば、方方からロードバイクに乗った若者達がこの激坂を求め走りにやってくる。それほどまでに急な斜面はどうしたって一介の事務員である瞳の生活には苦痛以外の何者でもない。
「チックショウ、久しぶりに、登ったけど、あああ! もう、なんなの、この、坂ッ」
 どの道を選んでも、坂の上にあるアパートに帰るには当然坂を登らねばならない。瞳は最早意地でペダルを踏みしめた。引いて歩いた方が早いのでは、という言葉が頭を過るも負けた気がして嫌だったのだ。誰と戦っているのかと問われれば口を噤むしかないのだが。
 すると、ついに招かざる客がやってきた。血管が浮き出す程ハンドルを強く握り込んだ瞳の拳に、雨粒がひとつ。きっと気のせいだ、と気づかないふりをしてもそれは容赦なく第二波を送り込んでくる。
 ぽつ、ぽつ。肩に、背中に雨粒が染みる。瞳は泣きたくなる気持ちを押し込み、がむしゃらに自転車をこいだ。なんとか坂を登りきれば、途端に視界が開けまるで極楽浄土にでもやってきたかの様な夢心地にさせられる。後は、アパートまで直線コースのみ。
 雨は一度降り始めると、堰を切ったかの様に地面へ雨粒を叩きつけた。道路との境目がうっすら白く濁り、瞳はなんとか間一髪の所でアパートに滑り込むことができたのだ。とはいえ、すぐにでも着替えてしまい程にはしっかり濡れてしまったのだが。
 家に鍵を鞄から取り出し、鍵穴に回すと部屋の中からは慌ただしい音が響く。ねこだ。ねこはきっと退屈な留守番に辟易して怒っているかもしれない。足元のコンクリートが知らぬ間に雫で色を変えている。瞳はゆっくりと鉄製のドアノブを引いた。

「瞳ちゃん! 遅いよ」
「ごめん、スーパー寄っててさ」
「寂しかったのに」
「だからごめんてば、だいたいナリちゃんが車のキーを隠すからいけないんだよ」
 瞳が家に入ると待っていましたとばかりにねこは飛びかかるも、慣れたたつきでそれをあしらうと荷物を手早く冷蔵庫に片付ける。洗濯物は外干ししていなかったので不幸中の小さな幸いに感謝した。
「雨降ってるの?」
「降ってるよ。ザーザーだよ。ナリちゃんは何してたの?」
「寝てた。それと、ゲーム」
 キッチンのシンクに視線をやると、昼ごはんを食べたであろう皿が置き去りにされている。部屋の中は特別乱れておらず、瞳が家を出た時とほぼ同じ状態であった。
「お腹空いた? シュークリーム買ってきたけど」
「食べる。瞳ちゃんも一緒に食べよう」
 ねこは寒いのか、首周りのよれたボーダーシャツの上に杢グレーのパーカーを羽織っている。瞳が帰ってきた事で機嫌をよくしたのか、大人しくベッドの上に座ると視線を彷徨わせた。
「ナリちゃん、牛乳温めたからベッドから降りなさい」
「うん」
 クリームをこぼしても良い様に深さのある皿にシュークリームを乗せ、耐熱マグに牛乳を入れて温める。瞳は牛乳を飲まないので、もっぱらねこの為に購入しているのだ。正方形のこたつに足をつっこみ電源を入れると、小さな空間はすぐに温かくなる。瞳の隣にベッドから降りたねこが座り、埃が焦げた様な芳香が鼻を掠めた。瞳はこの匂いが好きだった。
 ねこは、じっと瞳がシュークリームを食べる様をまず見つめる。それから同じ様に自分もふわふわの丸い菓子を掴むと、ちまちまと食べ始めた。瞳が心配する程存外汚さずに食べるのは、元来の綺麗好きの証か。
「おいしい? 今日はカスタードと生クリームのやつだよ」
「うん、でもハンバーグ食べたい」
「はいはい。これ食べたら作ってあげるからね」
 言いながら瞳は食べ終えた皿を片付け、冷凍庫を開ける。そこからいびつな俵型をした冷凍ハンバーグをひとつ取り出すと、フライパンに油をひいた。ねこは瞳の手製ハンバーグが大好きなのだ。ひき肉が安い時に大量買いをして、一気に作って丸めて冷凍すれば一々最初から作らなくてもすむ。ハンバーグが焼ける間にフライパンの空きスペースでナポリタンスパゲティを炒めて、付け合せにする。ねこは二日に一度の間隔でハンバーグを強請るので、流石に瞳は別メニューだ。今夜はもう簡単に焼きうどんにしてしまおうかと思っている。
「瞳ちゃん、遊ぼう。ゲームしよ」
「待って待って、ナリちゃんのご飯作ってるんだから」
「ゲームしたい」
「ハンバーグもうできるよ」
「瞳ちゃん瞳ちゃん」
「ああもう、危ないよ。火傷しちゃうでしょう」
 ねこは瞳が他事をしていると、意味もなく邪魔をしてくるのだ。尤も、ねこにとってそれは甘えているだけの事で、悪気なんてある筈がない。
 瞳は慣れた手付きでハンバーグを皿に盛り付け、ねこを往なしながら焼きうどんを手早く炒める。帰宅してから一時間も経っていないが、嵐の様な時間はあっという間に過ぎていった。あれだけ遊びたいと騒いでいたねこは、ハンバーグを見せると無我夢中で頬張りその姿はまるで幼子の様で瞳は思わず頬を緩める。
 ひとり子で祖父母に育てられた瞳は、夕飯をゆっくり食べた記憶があまりない。だからこうして自分以外の誰かの為に食事をこしらえたりする事は少々億劫ではあるが、楽しみの一つでもあった。

「おいしい? ナリちゃん」
「うん。瞳ちゃんは、ハンバーグ食べないの?」
「もう飽きたよ。だってナリちゃんに合わせてたら毎日ハンバーグじゃん」
「ハンバーグおいしいよ。僕、毎日でも食べられる」
 ねこは腹が満たされたのか、ベッドの上に腹を出して仰向けにひっくり返った。口の端にはソースがついており、瞳はそれを拭ってやる。シーツの上に散らばる灰色の髪はねこが動くと渦を描くように移動し、少し可笑しかった。
「ナリちゃんはホントに可愛いね」
 腹を撫でてやると、ねこは気持ちがよいのかゆっくりと瞬きを繰り返す。こうしているとそのうち眠ってしまうのだ。現にもう長い睫毛をぱちぱちとしばたかせている。
「僕、今日は何点?」
「百点。これでうるさくなかったら一億点なのに」
 口の中をむにゃむにゃさせているかと思えば、ねこは身体を丸くして実に幸福そうな顔のまま眠りに落ちていった。
 ナトリは可愛い。百点なんて言ったけど、本当は毎日一億点だ。瞳はねこに毛布をかけてやると、そのまま自分も目を瞑った。片付けと風呂は明日の朝すればいい。本当は億劫だから朝ばたばたする事は嫌なのだけれども。そんな自分への言い訳をしながら遠くで雨の音を聞いた。

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