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ギフテッド支援事業から考える公教育の行方

Attention

この記事は学校の先生でも教育の専門家でもない人が,ギフテッド支援事業を冷ややかに眺めた感想です。
私はギフテッドという概念が嫌いなので,かなり口調がきついです。
ギフテッドを支援したい大人やギフテッドを名乗りたいチビッ子はブラウザバック推奨です。

加速するギフテッド支援ブーム

先日,東大のギフテッド支援事業が失敗,という見出しの記事を目にした。記事は削除済みなので,その内容を再度確認するすべを私は知らない。ゆえにこの記事はうろ覚えで書くことになる。
その一方で,文部科学省が来年度の開発経費にギフテッド支援事業を盛り込む方針を呈した。

発達障害ブームが盛りを過ぎ,並行して盛り上がったギフテッドブームは国費をつぎ込むまでのトピックとしての扱いを受ける。

非ギフテッドの発達障害のいじめられっ子の私はどこからどこまでが公教育なのかわからなくなるときがある。
ギフテッド支援事業という耳障りの良い言葉は,一部の子供の幸せと新たに生まれる差別とが紙一重であることを示しているように思えてならない。

ギフテッドの定義

ギフテッドという言葉が最近一人歩きしているので,再度定義を確認したい。
ギフテッドの定義は文化圏や研究によって異なる。よく取り沙汰されているIQはあくまで知的能力の一側面に過ぎない。IQ130以上をギフテッドの定義として用いることもあるが、高IQならギフテッドである,の図式は必ずしも成立しない。また,特定分野の物事に対して著しい集中力を発揮するアスペルガー症候群の人全員をギフテッドとして扱えるか,というとそうでもない。
早期教育環境由来でない,生まれ持った高い知的能力と良い意味で年齢不相応の精神性がジェネラルな定義といえそうである。
というか,このジェネラルな定義は後述するように「大人にとって都合のいいギフテッド」を定式化したものに過ぎないというのが私見だ。
直前に取り上げた定義と高IQ者を対象に今回は記事を書いていきたい。

先行事例としての孫正義財団

よくメディアに取り上げられるギフテッド集団に,MENSAと孫正義財団とがある。
MENSAはある水準のIQテストスコアの保持者を対象とした,高知能集団である。
一方孫正義財団は高い能力に加えて高い精神性を持った人物が採用されている。

公費でのギフテッド支援事業の方向性

記事の冒頭で取り上げた,東大のギフテッド支援事業は「異才発掘プロジェクト」という。該当事業を取り上げた記事はもう削除されてしまったが,そのプロジェクトの中心となった人物は「才能の有無ではなく,はみ出し者になってしまった子供たちに非日常的な体験をさせる場を提供したい」と述べていたと記憶している。ギフテッド支援事業というよりかは,生涯にわたる豊かな教育の場という側面が強いように思われえる。
文部科学省のギフテッド支援策の方針は次の3つである。

文科省は来年度から支援策づくりを始める。
教育委員会や大学に
〈1〉個々の才能に応じた柔軟な授業作り
〈2〉学校になじめない子供を支援するNPOなど学校外組織との連携
〈3〉才能と障害を併せ持つ児童生徒への対応
――などに取り組んでもらう。2023年度中にも効果的な指導法や支援策をまとめる。

読売新聞オンライン

金の卵を産むめんどり

ギフテッドの定義で述べたように,「大人にとって都合のいいギフテッド」なのだ。その大人は2種類に大別される。
一つ目は「ギフテッドを研究する大人」,もう一つは「ギフテッドを支援していいことをした気になる大人」である。
金を生むような成果を出し,支援事業の広告塔となり,才能を発揮し各分野に恩恵をもたらし,自己実現を通じて幸せになる。ある分野に突出した才能を持つのだから,投資先も明らかである。現在世間に認識されているギフテッドは,投資対象として大人にとって都合がよい存在なのだ。
実態はどうあれ、邪推をするとこうなる。

QOL向上の土台としての公教育

普通の人生とは何なんだろうか。
切り詰めないと食べるものにも困る今の生活が続くということだろうか。
特別な能力を持たなければ、日常的にアートや音楽をしたり,勉強をしたりしてはいけないのだろうか。アウトサイダーアートというものがあるよ、という反論はこの際受け付けていない。
ギフテッドと称される人々の発言やインタビューを見ると,the上流階級ともとれる肩書がある。バイオリンやピアノ,アートという文字列がしばしばみられる。
周りの子たちと話が合わないんだ,という発言は表向きは見られないが,先天的な高い能力ゆえの孤独に由来する思考は見て取れる。
そんな崇高な理念を持った彼らがのびのびと自分の能力を発揮する場を提供するという理念が,先ほど述べた財団の方向性だろう。

突然だが教育基本法の第三条の生涯教育の理念というものが存在する。

国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

https://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/kitei/reiki_honbun/w002RG00001176.html

これは法律の中の条文ではあるが,理念と書かれている通り,機構としての強制力や実効性を伴っていないといっていい。
しかしながら,文部科学省の支援事業の方針にもみられたように,「その人らしい能力発揮」をするための、対人関係や障害への配慮が先行事例でのギフテッド教育と併記されていた。
公教育のギフテッド支援は「障害者支援」の思想の延長線上にあるものと私は認識している。以上を踏まえて,障害の有無,才能の有無にかかわらず教育は子供のQOLを向上する上で土台として機能することが望ましいという認識が、どでかく存在するのである。
ただし、これらの議論は教育現場の余裕のなさ、杜撰さを何一つ考慮していないため、今までの話はただの理想論だということを忘れてはいけない。

あとがき

こんな顔真っ赤にして書く記事でもなかったのですが,かなり嫌味で皮肉っぽい発言が多々見られました。
音楽の才能とIQには強い相関があると個人的に認めており,うらやましさも込みできつい口調になりました。
最初にヘイトスピーチって書いてるので,それでも批判したい方はどうぞーという感じです。

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