アイドルの「いいね強要問題」はなぜ起こるのか

レスの強要と置き換えてもいいですが、少し前に、オタクがアイドルに対してSNSでの「いいね」を強要するということが立て続けに起きました。

オタクの言い分を要約すると「オタクが推しのことをツイートしたら、アイドルはいいねするのが当然である。それができないアイドルは売れないし、オタクは離れていく。」というものです。

個人的には論理が飛躍しすぎだと思うのですが、SNSを眺めていると、その意見に賛同するオタクは多いように見えました。アイドルは営業努力として自分に関係するツイートには「いいね」をするべきだし、「いいね」しなかったら客が離れていくのは仕方がないと。

アイドルが四六時中SNSを見ているわけではないので物理的に不可能だと思うのですが、多くのオタクの間で、ファンは応援しているんだからアイドルはその期待に応えるべき、という共通認識ができあがりつつあるのかもしれません。

承認欲求が肥大化したオタクはキツいと切り捨てることもできますが、視点を変えてなぜこのようにオタクの要求が強くなるのか、それを解決する方法はあるのか、この文章で模索していきます。

サービスと対価の「交換」に終始するアイドル業界

昨今の地下アイドル、ファンとの距離が近いアイドルを見てると、あることに気づきます。

集客規模が数十〜数百の地下アイドルは、ファンの数が限られるため、ある程度通えば、ほぼすべてのファンの認知が可能であり、基本的にファンとアイドルが1対1の構造になりやすいです。

そうなると起こるのが「交換」です。

まずアイドル側には、自分のことを応援してくれるファンに恩返し(例:レス、いいね)しよう、という意識が生まれます。

傾向としては、たくさん通ってくれる人、何回も特典会に来てくれる、いわゆる太い客にたくさんレスが行きやすくなります。これは、あなたが与えてくれた分を私は返します、という「交換」の論理に基づいています。(もちろんこれに該当しないこともたくさんありますが、基本はそういう路線になりがちということだけ覚えておいてください)

本来のアイドルは1対nの構造だったはずです。ファンという集団は存在するものの、その人たち一人ひとりが名前を持つ1個体として認識されることは少なかった。しかし、アイドルグループが増えるにつれて、1グループあたりのファンの数は限られるようになり、代わりに一人ひとりに手厚いケアが可能になりました。

アイドル側が上記のような対応をするため、ファン側も1対1の関係を求めるようになります。これが悪い形で表出するのが「繋がり」の問題です。繋がりは、アイドルとオタクが文字通り、個人的に連絡先を交換したり、二人で遊んだりすることを指します。

また、SNSなどに代表されるコミュニケーションツールの拡がりもあり、オタクがアイドルに対して、アイドルとファンの関係以上のものを要求しやすくなっていることも関係しているでしょう。アイドルとオタクの関係性が可視化されたことで、互いに何を求めあってるのか、表面上はわかりやすくなりました。

ようやく本題ですが、アイドルが「いいね」をするのを当然だと考えるオタクは、「交換」の論理で動いています。

自分がこれだけのものを与えているのだから、あなたもこれくらい返すべきだと。

しかし、それではアイドルはサービス業の範囲を超えるのは難しいでしょう。本来エンターテイメント(=多くの人を感動させる)であるべきなのに、仕事の大部分がファンのケアになってしまうからです。

この構造を脱却するためには、アイドルとオタクの関係に「交換」ではなく、「贈与」という考えを持ちこむことが重要です。

アイドルのレスは贈与

いきなり何を言っているのかと思うかもしれませんが、レスを贈与するとはどういうことか。

贈与とは、交換や見返りを求めず、ただ与える行為のことです。

贈与は被贈与への気づきがないと開始されません。つまりアイドル側が「あの人は私を応援してくれていて何かしらの精神的高揚、または満足を得ている」というところからスタートします。

そして贈与を送られた側、つまりオタクは、なにかしらを受け取ったと"勘違いして"、その子を本格的に応援し始めます。もちろんメディアなどで見て、なんとなく応援し始める人がほとんどですが、地下アイドルのオタクをやってると「なんかやたらレスがくるな〜」という日がたまにあって、列に並ばないとなんだか悪い気がしてくる感覚に襲われた経験のあるオタクは少なくないでしょう。人は想像していたより過剰にもらいすぎると、疑念や罪悪感、精神的負債を感じてしまうからです。

しかしそのこと自体は問題ではありません。レスをもらったから特典会に並ぶ、これは交換というより、人間特有の「プレゼントを贈り合う文化」そのものです。そこに儀礼的なコミュニケーションが発生することで、人と人の繋がり(ここでいえばアイドルとオタクの関係)が始まります。

これがただの「交換」だとそうはいきません。あなたがコンビニのレジでお金と商品を交換しても、それがコミュニケーションであり、人間的な繋がりであると認識することは難しいはずです。

同様に「いいね」も贈与であるべきです。冒頭に出てきたオタクはなぜいいねを求めるのか。それは自分がアイドルにいいねしてるからです。オタクもアイドルも互いのやってることを無償の愛だと思い込んでるフシがありますが、実は交換にしかなっていません。サービスと対価の交換をしてるうちは資本主義の枠を超えることはできません。

また贈与の特性として、贈与は受け取りを拒否されることもあります。つまりレスをしたからといって必ず自分を見てくれるわけでもないし、自分のファンになってもらえるとも限らない。たまに見かける自分のファンにしかレスしないアイドルはこの意識があるのではないでしょうか。自分が何かをもらえないよりも、自分が与えようとしたものが拒否されることの方が怖いから、レスができない。レスを拒否される=相手と関係を持ちたくないという意志の現れとも受け取れてしまうからです。

オタク側も同じです。応援したからといって、応援した満足度以上のものは返ってこない可能性が高い。いくら頑張って応援しても無視されることさえある。最近のオタクはここに期待との相違があり、怒っているのかもしれません。しかしこれも「交換」の論理に基づいているからであって、本来は「贈与」であるべきです。

繰り返しになりますが、贈与は必ず受け取れるとは限りません。アイドルに対する想像力がなければオタクはレス(贈与)の受け取りに失敗します。

アイドルはどうすべきか

アイドルは贈与を拒否されるから知らない人にレスするのが怖い。無駄な労力に終わることが怖い。これは贈与の性質として当然です。贈与は届かないかもしれない。贈与とは不合理なものなのです。

レスしても自分には返ってこないかもしれない。この恐怖心を乗り越えるために、レスは「祈り」であるべきではないでしょうか。ファンになるかは分からないけど、ファンになってほしいという祈りを込めてレスをする。その行為は、親がサンタクロースであることを隠して、子どもにプレゼントを届けることに似ています。数年後こどもが大きくなった時、あとからあのプレゼントは親からだったことを知らされる。贈与とはそういうものです。つまりファンになるということは時間のかかることなのです。近年のアイドルとオタクは非常にインスタントな関係であるがゆえに、この事実は意外と見逃されがちです。

さいごに

フランスの哲学者、ジャック・デリダの研究書を書いた東浩紀は、デリダの「行方不明の郵便物」というメタファーを説明する中で、「行方不明の郵便物は死んでるわけではなく、いつか配達される可能性が常にあるが、その日が来るまで行方不明の郵便はネットワークからの純粋な喪失として存在する」というようなことを言っており、またデリダ本人も「手紙(文字)は宛先に届くことはなく、届かないことがあり得るという性質が内的な漂流で悩ませている」とも言ってます。

ちょっとわかりにくいですが、ここでいう「行方不明の郵便物」はレスに置き換えることが可能です。つまり、アイドルが誰かに投げかけたレスは届かない可能性がある。行き先を失ったレスは、フロアで行方不明になってしまう。しかし、レスが贈与である限りは、受け取られないこともまた本質なのです。受け取り手(オタク)が想像力によって受け取るしかない。

東浩紀は「贈与とは交換の失敗である」と言いましたが、いいねやレスの誤配の問題はまさにアイドルとオタクにおける「交換の失敗」なのではないでしょうか。そうであるなら、むしろ積極的に交換は失敗されるべきです。


「いいね」を過剰に要求することでアイドルをコントロールしようとするオタクは、その「いいね」によって死に、文字通り"他界"します。「いいね」を求めることで、「いいね」が来ないことに苦しみ、報いを受けるのです。



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