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#あたらしい自分へ。


バックヤードには、新しくラデッシュを植えた。去年の秋頃に旦那さんがスクエアガーデンを作って、一緒にネギ、人参、ビーツ、レタスを植えて、その横には鉢植えで香菜、パセリ、ディルがある。彼らのおかげで、野菜はほぼ買わないで済んでいる。リビングにはマイクログリーンまで育てている。食用ひまわりやラデッシュ、紫キャベツにブロッコリー。なんでもある。日光と土と水があったら育ち、育ったら収穫し、それを食べたら心身ともに気分が良い。人間らしく心地よく生きることが、こんなにシンプルでいいのかしら?と時々不思議な気持ちになる。


2020年の3月のある日、突然クラスターが北からやってきて、あっという間にロックダウンで何もかもが閉鎖した。そこからが長い長い一年だった。

『だった』というより、現在進行形である。人々は、ロックダウンという言葉こそ使わないけど、1年前には政府機関や病院各位から直々に、着用そのものを止められてたマスクが、今では屋内はおろか野外においても、とにかく公共の場で着用必須になっていたり、相変わらずレストランもカフェも美術館も遊園地も、、、、。閉まったままだ(カフェ、レストランはテイクアウトはできる。屋内の営業緩和と感染率激増→ロックダウン→を繰り返す市町村もある)。ほんの一年前まで栄えていた、アメリカのシンボルのような複合ショッピングモールはガラガラで、ビリーアイリッシュのミュージックビデオみたいだ。

https://m.youtube.com/watch?v=RUQl6YcMalg

Therefor I am (故に我あり)

誰もいないショッピングモール。どこの街のモールも同じようなチェーン店のみで形成されてる。建物のレイアウトまでもがほぼ一緒だから、一見、彼女の撮影現場が、ウチの街のモールなのかと思っちゃったくらいだ。新自由主義によって進められてきたグローバリゼーションのカタチ。誰もいないショッピングモールで、あんたと私は何にも関係ないと歌い、チェーン店のジャンクフードを食べたいだけ勝手に食い散らかすビリー。

1年前まで栄えていたように見えたモールは、実は最初から、このMVみたいにガラガラで空虚で、そこに居る人たちの関係性なんてないのに、みんなひとりぼっちなのにそうとは気づかず、各々が勝手に、全く同じファーストフードを貪っていただけなのかもしれない。ビリーは逆に、誰もいないモールで勝手に自分が食べたいものを他人の目など気にせず貪りまくりながら、お前らには関係ねえと言ってるんだけども。。

でもどっちにしたって大差ない気がする。この閉塞感や物があふれているのに不自由なこの感じ。人間同士の関係性は希薄で冷たいのに、同時にコントロールと干渉だけは何処からともなくモヤッとしてくる神経にさわるこの感じ。

カリフォルニアに暮らして約20年も経過してしまった。その間には、アメリカの、カリフォルニアの流儀に自分を合わせてキャリア志向になって頑張った時代もあったし、大好きな街が、新都市開発により、長い時間の中で培われそこに住み続けてきた人たちによって文化として残ってきてた『らしさ』が、大手チェーン店だらけのよくあるアメリカの真新しい景色に代わり、あっという間に雰囲気も住民のタイプも変わっていったのも経験した。やがて、日本に一時帰国するたびに、日本が、アメリカの景色と流儀とほぼ変わらなくなってきてることに気づいた。ショッピングモールには、同じようなブランドが入ってて、駅前にはスターバックスがある。街もそれに合わせて変わり、住む人の意識も違っていったようだった。全てがデジャヴなのだった。

どこにいても、どこに住んでも、どこもかしこも全く同じ。どこも同じなのに、人々の格差が激しい。みんなの目に映る景色は同じなのに、誰も同じものを共有してない。みんなバラバラに繋がりがなく存在してる。便利な世の中だと思う人もいるのかもしれない。だけど、私にはホラーにしか感じなくなった。沸点にリーチが掛かりそうになってた時に、感染症が突然やってきた。

今、日本で、『コモン』を取り戻そうという動きが出てきている。コモンとは、共有すること。『お前に関係ねえ』の逆であるが、閉塞感がもたらす干渉の逆でもある。『コミュニズム』というと、少し前までは、共産主義と訳されてきた。私自身は言葉としてはCommon はCommon で、コモンだって共産だってどっちでもいいのだけど、やはり共産主義って言っちゃうと、いらぬ誤解も生じるし、説明している間に、面倒くさくなり、わからねえならお前には関係ねえ。などと言いたくなるかもしれない。

数年前からアメリカでも、Communism が見直されるようになってきてた。実は私もミーティングに参加していた。当時は大学生がほとんどで、最年長でも30歳。その上は、70歳アップという、すごいジェネレーションギャップが存在する事実も知った。それはそのまま、レーガン政権のもとで育ち、クリントン政権で、新自由主義の駄目押しされた中間世代が、『コモン』、共有、共産に対して、いかに誤解とアレルギー反応を持っているかの裏付けでもあるような気がして苦笑いした。

私のポケットは四次元です。アメリカが好きで留学して、そのまま残り、就職して結婚して、キャリアを伸ばすために大学院まで行っちゃった。その後も野心と高い意識を持って奮闘したが、だんだんと窮屈になってきた。私の住んでいる世界は実は、ホラーなんじゃないかと肌身で感じるようになった。

人はひとりでは生きられないし、先進国はもうこれ以上発展するのは難しいというのは周知の事実だ。ゴミ問題に環境問題、そして広がる格差社会。そこだけ見たら、もう逃げ出したくなるけれど、資本主義が行き着いた先を生きる、今の私たちには希望しかないとも思っている。自由を知ってる私たちが共有する新しい未来。

安心感とか充実感なんて、案外簡単なんだ。試しに自分で育てた野菜を食べてみたらいい。水耕栽培やマイクログリーンならマンションやアパートでも出来るし、産地は自宅だから安心だ。味も違うし、なにより安上がり。生きるという根本の部分の、漠然とした不安が一気に消える。

20年の時を経て、私はもう直ぐ日本に帰ります。馴染めるのかな?大丈夫かな?不安だってあるし、正直おっかない。だけども、新しい私は生まれ育った関東圏には帰らず、綺麗な水があり食物の生産率の高い地域に行く。生きるための固定費を抑え、自分の健康を左右するファクター、『食』に安心感を持ちたい。そこを誰の手にもコントロールさせない。コントロールはさせないが、地域の人と共有したい。助け合いながら、お互いが住みやすいコミュニティのために働きたい。そしてたまには東京に行って、値段ではなくて、好きな服を買おうと思う。田舎の広々とした部屋の中でオシャレして猫と一緒に本を読むんだ。

最後に

わたしの大好きなファッションデザイナー、ヴィヴィアン ウエストウッドのメッセージを、あたらしい自分と世界に送って締めたい。

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