『ノマドランド』と少しだけ『あのこは貴族』のこと

旅と定住、土地と人間、となんとなく言いたくなり、管啓次郎の『狼が連れだって走る月』(河出文庫)の次の言葉を連想した。

旅の可能性を考えない定住者に現実を変える力がないのとおなじく、定住の意味を知らない放浪者は頽廃に沈むだけだ。(28ページ)

旅と定住。いっけん対立するように見えるこの二つの概念は、この映画においては互いが互いを内に含むようなあいまいな関係を見せている。

人は大地が無ければ生きていけないが、植物のようにそこに根を張ることはできない。住居は、あくまで仮の宿りでしかない。そのことが、大企業の倒産とともに住み家を失った主人公の姿を通して露わになる。『イージーライダー』の時代から遠く離れ、現代の放浪者は高齢で、社会から放逐され、必ずしも望まない旅を生きる存在である。この映画に登場する車上生活者(以下ノマド)の乗るRV車は移動手段であると同時に住居である。彼らは旅と定住のはざまの寄る辺なさを生きている。

そういえば、この映画には犬がよく登場する。登場人物の半分くらいが犬を飼っている。ノマドの集会でおじさんが三人そろって犬を膝に抱えて座っている光景。アマゾンの物流センターの同僚が病に倒れ、残された飼い犬(黒いラブラドール?)の世話をしないかと持ち掛けられる主人公。リンダ・メイという老女は生活が苦しく自殺を考えた時に残された二頭の犬のおかげで思いとどまったと語った。ほかの動物と言えばツバメの群れとワニがちょっと映るだけなのに対して、犬が画面に映る頻度は異常に高い。高齢の独身者が多いのでパートナー代わりに動物を飼うのも必然であるが、途中出てきたヒッピー風の若者たちも例にもれず犬を連れていたのが面白かった。

主人公の旅は労働と対話と自然との触れ合いとして描かれる。森の中で巨木に触れ、清流に浸り、野牛を見る。化石公園の岩の中を歩く。この映画で起こる出来事、描かれる風景は大地との関りを連想させるものが多い。そもそもの始まりはエンパイアの石膏鉱山の閉鎖であり、その後彼女が従事する職業にはジャガイモの収穫場、ストーンショップ、キャンプ場などである。だからなのか、土地を買い占める不動産業が後半、対立する価値観として現れる。

画面に映るアメリカの風景はしかし、いわゆる自然だけではない。アマゾンの物流センターやガソリンスタンド、ハンバーガーショップ、これらの場所も主人公の旅では重要な役割を担っている。野牛のいる森や化石公園と同じく現在の土地の風景を構成している。何千何万年を経てきた自然と現代の産業が大地の上で一緒に並んでいるのだ。

異なる時間を経てきたものたちが立ち並ぶ風景の上を移動する人間たちもまたそれぞれが異なる歴史を持っている。登場人物はよく自分の来歴を語る。愛犬たちの姿に自殺を思いとどまったリンダ・メイもそうだし、ノマドのインフルエンサー的な人物も後半、主人公に対して息子を喪った悲しみを打ち明ける。老人に限らず、旅の途上で出会った若者も農場に暮らす恋人についての悩みを主人公に明かす。ノマドの集会ではたき火を囲んで参加者たちが自分のこれまでの人生を語るシーンがある。脚本家・映画監督の三宅隆太が言うところの「男性神話」における「たき火を囲むシーン」そのものである。『これ、なんで劇場公開しなかったんですか?: スクリプトドクターが教える未公開映画の愉しみ方』(誠文堂新光社)から引用すると、

ところで、男性神話を辿る物語の場合、ジャンルを問わず、中間部で必ずといって良いほど描かれる場面があります。いわゆる「たき火を囲むシーン」です。(139ページ)
冒険の旅に出た主人公が、道中体験する苦難の数々。それらの体験を経て、主人公は「旅の仲間」と打ち解けていきます。(同)
そんな彼らと主人公が、たき火を囲みながら食事をしたり、酒を酌み交わしたりすることで互いに「自己開示」をする場面、それが「たき火を囲むシーン」です。(同)

ちなみにここで言う男性神話とは男性が主人公という意味ではない。承認欲求の物語を女性神話と呼ぶのに対して男性神話の定義は探求と獲得の物語だ。再び同書を引用すると、

異世界で出会った「旅の仲間」と共に非日常の体験を繰り返すうち、日常世界で育まれてしまったコンプレックスである「恐怖心」を克服してゆく、その過程にこそ重きを置かれている。(138ページ)
つまりは「通過儀礼」の物語になっているのです。/スピルバーグの『JAWS』に於ける、沖合の漁船内で交わされる登場人物たちの「傷自慢」のくだりなどは典型的な「たき火を囲むシーン」の応用と言えるでしょう。(139ページ)

同書で扱われているのは別の作品だが、男性神話の構図は『ノマドランド』にも見つかるだろう。ただし、求める何かがわからない当てのない旅である。

登場人物たちの自分語りでもっとも感動的なのは、病気で死期の迫っているスワンキーという老女がかつて見た、アラスカの自然の光景である。作劇のバランスを若干逸脱して語られる彼女の記憶は、『ブレードランナー』でルトガー・ハウアー演じるレプリカントの最期をなぜか思い出させる。

ノマドの中には主人公のように不況で仕事や住み家を失った人たちがいる。彼らが共有する車上生活の技術、そして主人公の勤め先として、またノマドの宿る場所として出てくるキャンプ場はアメリカのアウトドア・キャンプの文化の残響を感じさせる。資本主義に背を向け、自然の中で生きようとするノマドの思想に60年代のヒッピームーブメントが反映しているのは、高齢者だけでなく若者たちの姿からも見て取れる。個人の背負った人生だけでなく、社会・文化の歴史も現在に堆積している。

ノマドに「さよなら」は無いと語る登場人物がいる。1か月後か数年後か、いつになるかはわからないが必ずどこかでまた会える。ノマドの旅は出会いと別れと再会の繰り返し。単独者たちの道行は蛇行した線でありどこかで必ず交差する。主人公の旅は同じ相手に二度会うことの繰り返しで描かれる。アマゾンを辞めた後にキャンプ場でも同僚になるリンダ・メイ、辿り着いたアラスカの地からツバメの映像を送ってきたスワンキー、息子の家族と共に暮らすことを選んだデイブ、化石付きのライターをくれた若者。

高齢のノマドにとって病気と死は差し迫った現実である。経験した別れも多いだろう。その中で、さよならは無いという言葉を発する意味。交わって離れてはまた交わる道行に、人生や、それを超えた精神的な時間が重ねられる。だから必ずまた会える、喪った人たちにも、という願い、信念。この言葉を聞いた後の主人公は、かつて暮らしていたエンパイアの街を訪れる。呪縛から解放されたように。社会的に放逐され、また本人の資質としても一所に居つけないように思えた彼女であるが、かつて住んでいた家を忘れられなかったがゆえに他の場所に定住できなかったのかもしれない。

交差する線のイメージは人間に限定されない。宇宙から届く天体の光。2011年の今見えている星は1987年に生じた光だと語られる天体観測の場面がある。主人公をめぐるドラマは化石を介したコミュニケーションで展開される。数千万年、数億年前の生き物の残骸が現在を生きる人々をつなぐ。そしてノマドの生活様式や人生に反映されるアメリカの近現代史。さまざまな時間を経てきた人、もの、ことの交差点として今ここがある。長い時間(人の生きて死ぬまでの時間、地質学的な化石の時間、天文学的な星の時間)の中で一瞬の交差があるという当たり前な奇跡を描いている。

アメリカの荒野と東京の高級住宅街とでまったく背景は異なるが『あのこは貴族』という映画にも『ノマドランド』と接しうる要素があると思う。『あのこは貴族』は異なる階層に生きる二人の女性を主人公にした作品である。『ノマドランド』におけるリーマンショックのように、意図しないきっかけでこれまで生きていた世界を逸脱し、本来関わることのない(それほどまでに格差の固定化した)相手と一瞬の出会いを果たす。親しいと言えるほどの関係になるわけではないが、人生の時々で道が重なり、互いに良い影響を与え合う。脱構築された関係性の風通しのよさが清々しい。

良きにつけ悪しきにつけ、移動は今いる場所を踏み外すことから始まる。そこで開けた道行は孤独でも、移動する点同士はどこかで重なる。それはたぶん希望だ。

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