アイの歌声を聴かせて 感想

思っていた以上に好きな映画だった。
正直言うとそんなに期待はしていなかった。
というのは映画館で予告編をしつこいくらい見せられていたからで、予想される内容もよくある高校生の青春と冒険という感じ。AIものらしいがこれまたよくある「○○(AIやアンドロイドの名前)は道具じゃない!」みたいな台詞が挟まれて、なんだかなあと思っていた。
では何が良かったかというと主人公のサトミとAIのシオンの関係性、それにまつわる演出だ。
人知を超えた存在から向けられる混じりっけなしのどデカい感情の矢印。「百合」という言葉が適切なのかわからないけれど。
本作に登場するシオンは善意100%、好意100%で超高性能なAIロボットなのだけれど、その危うさも同時に描かれている。
不気味の谷をギリギリ飛び越えたという感じの焦点の定まらない目つき。お話の上ではミスリードだったけれど、中盤のホラーじみた演出。善意しかないが常識や倫理には欠けている。つまり空気が読めない。そういうのは最初から描かれていた。教室でいきなり歌いだすのは、共感性羞恥という言葉は使いたくないが、見ていてこちらが恥ずかしくなった。
町中の電子機器と自由に繋がり、自らの楽器に変えることができる。大企業のコンピュータをハッキングしてカメラの映像を改ざんする。考えるまでもなくかなり危険な能力だ。その気になれば大規模なテロを起こすことも容易だろう。作中の悪役である支社長たちの言うことの方が正しいのではないかと思えてしまうのはどこまで意図的か。同じような能力のある『ジャスティス・リーグ』の「サイボーグ」は元々まっとうな社会性を持った青年だったが、シオンの意思は「サトミを幸せにする」ことに偏っていて、倫理面は不安定だ。
だが、その危うさを引き受けて肯定してしまうことがこの作品の面白さなのではないか。
また、この空気の読めなさ、そして高性能な電子機器が生活に溶け込んでいる空間においての詩音の能力、それがミュージカルを無理なくストーリーに溶け込ませている。
ミュージカルと言えばこの映画はディスニープリンセスものがメタな使われ方をしていて、それが面白い。

私はこの映画を見ることの物語だと思った。
後半、シオンのある秘密が明らかになる(ネタバレになるから具体的には書かないけれど)。シオンはサトミをずっと見ていた。
この「ずっと見ている(見ていた)」というのがこの映画における愛情の表現だと思う。サトミの同級生のカップルが仲直りするきっかけもこの言葉だった。(ステータスしか)見ていないという誤解が、(些細な特徴まで)ずっと見ていたという告白で解決する。
トウマがシオンの能力(監視映像の改ざん)に気付いたのも、校内の監視カメラをハッキングしてサトミを追っていたからだ。もっともこの使い方はかなり気持ち悪いと思うが・・・。
AIにとっての眼とはカメラのレンズである。登場人物たちの住む街は、AI特区とでもいうのか、田舎の田園風景とハイテクな住空間が共存している場所である。ペッパーくんみたいなロボットが田植えをしている画が印象的だ。環境の高度な機械化と監視カメラは切り離せない。監視社会、ディストピア。たいていの想像力はそちらに進んでしまうが、この映画ではカメラのレンズを監視する者から見守る者へと読み換えている。好意とか愛情とか善意と単純に言い切ってしまっていいのかわからない肯定的な感情。それがあるから視線を向ける。そうして見続けていることがその感情をより強くする。その眼はついには宇宙空間から地上へと向けられる。
作中で示唆されたシンギュラリティの可能性と同様、その眼は人類の手に負えるものではないのかもしれない。
手に負えないものから強く大きく愛される。ウェルメイドな青春アニメの顔しながらそういうヤバさが見え隠れするのが魅力だ。

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