『春原さんのうた』について

窓が開いている、というのがこの映画の第一印象だった。杉⽥協⼠監督の作品を見るのはこれが初めてだった。とりわけ大きな事件が起きることもなく、穏やかだとか静かだとか形容できる作品であると思うのだが、不思議と記憶に残るシーンは多い。

特徴的な構図が二つある。部屋の奥から玄関を正面に見据えているか、部屋の入り口側から窓を正面に見据えているかである。いずれにしても玄関の扉が開いているし、窓も開いていて、その向こう側の景色が見えている。

映画は川沿いの道を歩く親子連れを見下ろすショットで始まり、続いてカフェの二階の窓から桜の木を窓際の席に座った客が眺めている。空が白っぽい、まだ寒さの残る春である。

そこから季節が跳んで映画の現在は夏になり、主人公の沙知という女性が一人暮らしを始めようとしている。作品紹介によれば勤めていた美術館を退職し、冒頭のカフェでアルバイトを始めたらしい。移り住んだのはカフェの常連客が以前に住んでいたアパートで、引っ越すにあたって沙知にその部屋を譲ったようだ。アパートを出ていく常連客と沙知が玄関先で立ち話をしている。コロナ以前と以後を示すように、冒頭のショットでは誰も付けていなかったマスク越しに二人は会話をしている。これが玄関の扉が開いている構図の一番目である。

玄関が正面に映るショットでは必ず来訪者がいる。不用心に思えるくらい戸締りはされていない。沙知の叔母が訪ねてきた時、扉の鍵を開けたままで沙知は居眠りをしている。叔母と時間差で手土産のどら焼きを持ってきた叔父、前の住人の知人、北海道から訪ねてきた沙知の友人、そして冒頭の常連客。いろんな人たちがこの部屋にやってくる。

沙知の部屋に限らず、この映画では人が出入りする空間を描いているように思える。沙知が勤務しているカフェもまさにそういう場所だ。その時その時で違った客がやってきて、つかの間の時間を過ごして去っていく。後半で彼女が訪れた世田谷美術館の「作品のない展示室」でも見知らぬ他人同士が集い、その展示室を歩き回ることで時間を共有している。室内でありながら外のものが入り込む、閉じていない空間である。

開けっ放しの玄関を人が出入りするように、窓を通り抜けて入ってくるものもある。音と光もまた外からやってくるものである。窓から見下ろした川沿いの親子連れは子どもたちの燥ぐ声を伴っている。夏であり、窓を開け放った沙知の部屋には風と葉擦れの音が聞こえてくる。室内の固定ショットで、バイクの音が聞こえてくることで沙知は叔父の来訪に気付く。劇伴は少ないが作品のほとんどの部分で音が鳴っている。男がひとり土手で練習しているトランペットの演奏がカフェの二階に聞こえてくる。窓から取り込まれる外の光が映画全体の穏やかな照度を生んでいる。

映画の風通しということを考えてみたくなる。スクリーンの中で、空間の出入口が開いている。いわば通り道となっている。その通り道を人や音や光が通り過ぎてゆく。そういう風に設計された画面は観客の視線もまた空間の向こうへ通り抜けさせていく。室内であっても完全には遮られず、窓の、扉の先へと見ることが続いていくという印象を与える。終盤の電車やフェリーのシーンでは窓を開けることはできないがそれでも向こう側の景色を画面の中心に据えていたのが印象に残る。

いろいろなものが「開いている」のだが、同時に「空いている」こともまたこの映画では描かれている。主人公の沙知はタイトルにもある春原さんというパートナーを喪って現在のアパートに移り住んでいる。二人に何が起きたのか、春原さんは死んでいるのか作品内で触れられることはない。終盤に沙知が自分で書いたと思われる葉書を燃やすシーンで一瞬宛名が映るだけである。観客の知らない大きな空白が沙知のキャラクターに存在している。この空白は周囲の人間の気遣いという形でも表れている。何かがあって傷を受けた者に対する振る舞いが沙知と接する人たちに見て取れる。印象的なのは叔父が訪ねてきたシーンだ。沙知と食事をしていた叔母がなぜか押し入れに隠れ、テーブルに二人分の食器が並んでいるのを見た叔父は何かを察し(勘違いし)て号泣する。その涙には嬉し泣きのようなニュアンスが込められているようだ。気遣いとは距離を測りながら手を伸ばすことである。沙知と関わる人間たちのそのような姿を映していくことで、見えない空白(=春原さんという存在)の輪郭が形作られていく。作劇上で沙知を取り巻く空白は、かつてあって今も様々な形で存在をとどめている見えないものである。

語られない不在の春原さんは一種の幽霊である。いや、彼女と思しき女性が沙知の部屋で佇んでいるショットがたびたびあり、しかもそれが沙知の主観視点ではなさそうなので客観的に幽霊なのかもしれないが。そうなると玄関や窓を中心に据えた固定的なショットも幽霊の視点ということを想像してみたくなる。カメラは観客の眼の代役であり、それは画面の中の出来事に触れることはできない。そこにいて、見ているだけしかできない。カメラ、つまりこの映画を見ている者の姿は見えない。だが、その世界を捉える(映す)ことでたしかに存在はしている。

この映画で描かれているのは恢復過程にある人間の姿なのかもしれない。沙知が現在住んでいる部屋はカフェの常連客から譲られたものであり、春原さんがいた時期に住んでいた場所がどうであったのか作中では触れられていない。窓や玄関が開け放たれた画面は新しい部屋でのことである。この部屋に人が出入りして外の光と音が入ってくるのは、閉じこもっていた人間が外へ開き始めたことの表れではないか。窓を開け、鍵を閉めずにいるのは沙知自身なのだから。

映画の終盤、窓の外に出るシーンが二度ある。北海道から来た友人と共にアパートのベランダで葉書を燃やすシーンが一つ目である。そして、その友人と北海道へ向かうフェリーの旅の最中にひとり甲板へ出る。甲板から海を眺める沙知の横には春原さんが立っている。それを扉越しに友人が見守っている。弔い、気持ちの区切り、再生。なにがしかの変化が沙知の中で形を取り、作品世界の風通しに導かれるように外へと踏み出したのだと思えた。

余談だがこの映画ではよく登場人物がものを食べている。

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