ウィトゲンシュタインの恋人

『ウィトゲンシュタインの恋人』
著者:デイヴィッド・マークソン
訳者:木原善彦
出版社:国書刊行会
発行:2020年7月20日

デイヴィッド・マークソン(1927-2010)ニューヨーク州オールバニー生まれ。他の邦訳作品には『これは小説ではない』(水声社)がある。こちらも本書と同様に芸術・思想・歴史にまつわる断章を積み重ねるスタイルで書かれた作品。

ジョン・バース、トマス・ピンチョン、ドナルド・バーセルミ…etc。ポストモダン小説という言葉が生まれてからもう数十年が経ち、名だたる作品も紹介され尽くした感があります。
もはや前衛も実験小説も古い、面白くないものを読んでもしょうがない。その通り。
しかし大事なことを忘れてはいけません。優れた小説は、たとえとっつきにくい見た目をしていても、読んで面白いものなのです。
そんな「面白い実験小説」が1990年のアメリカから2020年の日本にやってきました。

この小説は語り手の「私」がタイプライターで綴った独白という形式を取っています。この「私」は、本人の語るところではおそらく50代の女性で、かつては画家であったようです。経緯はいっさい不明ですが、地球上には彼女のほかに一人の人間もいません(どうやら動物もいなくなったようです)。それでは語られるのは終末世界でのサバイバルかと期待されますが、地球最後の人間という設定が予想させる荒廃した世界の描写も、SF的な背景も、波乱万丈の冒険もこの小説にはありません。

この小説の語りの大部分を占めるのは、ベルリオーズの『トロイアの人々』、ブラームスの伝記、サッポー、『オデュッセイア』に登場する女性たち、レンブラントの弟子たちの悪戯、といった美術や文学や音楽にまつわる語りの手の記憶の断片です。蘊蓄と断章を連ねるスタイルは『これは小説ではない』と共通しています。

問題は、これらの蘊蓄の内容がまったく信用ならないことです。語り手の記憶はかなり不正確であり、言い間違いや事実の誤認、物忘れ、混乱した叙述、矛盾が頻繁に起こります。

実際、考えてみると、これに関してはアルキメデスかガリレオが非常に驚くべきことを証明していたかもしれない。証明した方法は、どうしたわけか、本を箱にではなく、バスタブに入れるというやり方だったけれども。   彼らが本をバスタブに入れたのは、彼らが持っていたアラビアのロレンスの伝記もまた、箱の隅に入らなかったからだ。そもそもそれが原因で、アルキメデスかガリレオは実験しようと考えたのだ。

このように伝記的事実が混乱した形で継ぎ接ぎされるのは珍しくありません。言及した作品の内容に触れながら読んだことがないと言ってのけたり、クロード・レヴィ=ストロースがジャック・レヴィ=ストロース、ロラン・バルトがジャック・バルトと平然と言い間違えられたり。そんな怪しい記述のすぐ後には「誓って言うが」本当だ、という一文が強調記号のように現れます。

私は逆に、自分が数行前に書いた内容はまったく信じていない。レオナルド・ダ・ヴィンチやアンドレア・デル・サルトやタッデオ・ガッディのような人々が一度も雪を見なかったという話。これはばかげている。

自分が書いた内容を信じていないという語り手の言うことを読者はどう受け取ったらいいのでしょうか。
さらに驚くべきは次の一文です。

今、突然思い出したのだが、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンにはハンス・メムリンクという名の弟子がいた気がする。先ほどまでロヒール・ファン・デル・ウェイデンについて私がそんなことを知っているはずがないと誓ってもいいと思っていたのだけれども。

「知っているはずがないと誓ってもいいと思っていた」まるでゼロにゼロを掛けるような構文に戸惑うほかありません。

固有名詞とエピソードの(怪しげな)羅列の中で、時おり「私」自身の過去や現在が語られます。しかしながら、その過去や現在の認識も不確かさが付いて回ります。                           ブレーキが腐食した無人の自動車に撥ねられそうになったハムステッドヒースの下り坂、絵画を燃やして暖を取ったルーブル美術館、運転していた自動車が海に転覆したサボーナの海岸、そういった断片的な記憶が繰り返し現れます。繰り返しながら、微妙な差異を生んでいます。たとえば彼女が回想する子供の名前が始めと終わりで異なっています。そもそも冒頭で子供の名前の言い間違いを訂正しているのですが。また、他に誰もいないはずなのに、少し前まであったはずの絵画がないと探し回る場面もあります。

この小説は「私」がタイプライターで綴ったものです。彼女の言葉を信じるなら、冒頭で夏の盛りだった季節が小説の終わり頃では十一月の初めになっています。本文中にも数日間、数週間書いていなかったという文が何度か挟まれます。
しかし小説の語り口はまるで一日のうちに書き上げたかのような、日時の転換を感じさせない均質さがあり、語られている時間とのずれが奇妙な印象を与えます。

この小説の語り手は「頭の中」という言葉をたびたび用います。

そして彼は、明らかに私の頭の中にいる。
しかしそうだとすると、私の頭の中にないものがあるのか。
だから時々、頭の中が博物館みたいに感じられる。
あるいは、自分が全世界を蒐集する学芸員に任命されたみたいに。
それは基本的には、割れた瓶が輝くのを見るために私がゴミ処理場でおこそうと思っている火もまた、頭の中の存在にすぎないということに改めて気付いたからだ
ただしこの場合は、まだおこしていない火が頭に存在しているのだけれども。
その火は実際、たとえ結局おこさなかったとしも、頭の中には存在する。

芸術に関する知識も、喪った人の思い出も、たったいま目に見えているものも頭の中の存在である、あるいは、自分の外側の事物と自分の想像が等しいものとして扱われているのです。冒頭に引用されるキルケゴールの「思考が見かけの現実に取って代わる」という言葉の通り、「私」の記憶や想像が外界の現実と等価になっています。
すべては語り手の妄想だった、というオチが付く小説だとは思われません。少なくともはっきりとは読み取れません。自分の頭がおかしくなっていた(なっている)と書く「私」は確かに〈信用できない語り手〉かもしれませんが、その背後の真相ではなく、不確かな語りそのものがこの小説の読みどころなのです。

捨てたのは基本的に荷物。要するに、いろいろな物だ。
(略)でも、まだ荷物が残っているかもしれない。荷物は捨てたという確信があるにもかかわらず。
荷物みたいなもの。頭の中に残された荷物。つまり、かつて知っていたことの残骸。

頭の中の世界、「私」のそれは崩れかけた屋敷のようなものです。奇怪な形で思い出される出来事や知識は「かつて知っていたことの残骸」、かつてあった自分の残骸なのです。終末世界は地球上ではなく語り手の内部にあります。正確には「終わった後の世界」ですが。どこか小島信夫の『残光』を連想させる〈私小説〉です。

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