考えることを考える

 こんにちは。今日は、私の思考方法をまとめていきます。今は多くの人がいつもより内向きで時間があるからか、こういった内容のnoteやツイートをよく見かける気がしています。行き詰まってしまった人に、何かのヒントになれば良いなと思います。(もちろん、自分にも。)本当はちゃんと具体例を挟みつつお話したかったのですが、良い例が思い付かず少々アバウトな作りになっております。

当たり前を疑うこと

 「考える」という行為は、分からないことがあるとか、解決すべき問題がある状態から生まれるかと思います。では、どうやってその状態を作り出すかというと、私の場合、「当たり前を疑う」ことから入ります。(専門用語では「懐疑」と言います。)

 懐疑は「観察」とは似て全く非なるものです。懐疑は能動的で主観的な方法ですが、観察はどちらかというと受動的で客観的に思えます。懐疑は「なぜ?」を繰り返して深堀りしていきますが、観察はあくまで定点観測するなかで外れ値を見つけていきます。これらは目的によって使い分ける必要があるだろうし、あるいは組み合わせる必要もあると思います。例えば、組織が上手くいかないとき、問題を見つけるために必要な手段は観察のほうかと思います。

インプットとアウトプットを反芻する

 問題とするテーマが見つかったら、関連する書籍やWebサイトを見ながら、あるいは人とのコミュニケーションの中で、「これは使えるな」という気づきを雑にメモしていきます。雑にというのは、メモの段階では断片的で構わないということです。私の場合、その辺の裏紙かTwitterの鍵アカにしたためています。それを繰り返しているうちに、点と点が繋がるような感覚になっていきます。

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抽象化、そして具体で検証する

 「点と点が繋がるような感覚」というのは、インプット・アウトプットした情報に共通点を見い出し、抽象化が進んでいるということかと思います。抽象化は、余分な情報を切り捨てて、共通点だけをひとつ上の次元に持ち上げることです。その、ひとつ上の次元にある抽象は、より本質に近づいていきます。私の場合、図式化したりnoteに文章を書き起こしたりしているときは、抽象化のフェーズに入っています。

 ここで「考える」ことに関して石橋を叩きまくる性格の私は、その抽象が正しいのかどうか、いくつかの具体例や具体的な行動によって検証します。どうして抽象化が大切なのかというと、このようにして一度抽象化したことは、同じ構成の問題に出会ったときに再利用できるからです。

(後から色々調べていて気づいたのですが、同じようなことを言っている本が既にあるらしい・・・なんか悔しいぞ。)

他者とは言葉で感覚を共有できない

 このように言うといささか相対主義的ではありますが、例えば、ひと口に「痛い」と言っても、それがズキズキなのか、ヒリヒリなのか、チクチクなのか・・・私と君の想像するズキズキがどの程度同じなのか・・・って、分かりようがないじゃないですか。このような「あの感じ」とか痛みの「質」のことを専門用語ではクオリアと言い、今まさに議論されている最中なんですね。

 コミュニケーションを取るときには、「相手の人生経験とか身体的特徴とかによって受け取られ方は簡単に変わってしまう。」のだと。そのくらいには思っておいたほうが良いと思うのです。そういった感覚の曖昧さを理解しつつ、相手とできるだけ近い位置で共有するために必要なのが、言語化力なるものに集約されるのではないかと思います。

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