カープダイアリー第8321話「新井カープ”進撃を支えるキーマン”、剛腕の証明令和編」(2023年7月18日)

7月18日付の中国新聞「球炎」コラムの見出しは「進撃を支えるキーマン」。タイトルのよこには五反田康彦とある。

その内容は正鵠を得ていた。

五反田記者の上司に当たるのが、同じく「球炎」を担当している木村雅俊・編集委員室特別委員だ。

5月の終わり、同紙では次のような“告知”がなされた。

「かつてカープ番記者を務めた名物記者が、14年ぶりに球炎に勝ってきました。RCC中国放送の情報番組『イマナマ!』のコメンテーターとしても活躍中です」

詳しくその背景も“解説”されていた。木村雅俊記者が復帰以前に書いた700本を超すコラムの中で「ファンの間で伝説として語り継がれているのが「もはやエースではない」の見出しで書かれた黒田博樹アドバイザーの当時の苦悩をあぶり出した“作品”だったと…

その文章が掲載されたのは2004年6月16日のことだった。そして書かれた本人はこのコラムを切り抜いて、旧広島市民球場の狭く暗いロッカールームの自分のロッカーに貼り付けた。

入団5年目の2001年12勝、02年10勝、03年13勝。しかも3シーズンで29完投。「ミスター完投」と呼ばれ、当時のインターネット連載「田辺一球」コラムでは「剛腕の証明」のタイトルでその活躍ぶりが繰り返し綴られていた。それが04年は7完投で7勝に終わった。
 
同じ大卒で黒田博樹アドバイザーの2年あとにカープのユニホームに袖を通した新井監督も02年に初めて全140試合に出場して147安打で28ホーマー。しかし金本知憲氏の阪神FA移籍により四番を任された03年にはその重圧に耐えかねて137試合115安打で19ホーマー、04年はさらに落ち込み103試合69安打で10ホーマー。しかも04年は嶋重宣「赤ゴジラ」(現西武一軍打撃コーチ)の登場によって、ほとんど脇役のような存在になっていた。
 
ふたりは山本浩二監督第二次政権の最終年、2005年に揃ってタイトルを掴み取る。黒田博樹アドバイザーは15勝(11完投)で最多勝利、新井監督は球団記録となっている山本浩二監督の44本にあと1本と迫る43本塁打でホームラン王。「キング、キング…」と周りからも微妙なノリで持ち上げられて、当時の新井監督はどんな気分だったのか…
 
翌06年オフ、黒田博樹アドバイザーはFA宣言を封印して「男気」残留会見に臨んだ。メディアが押し寄せ全国的な話題になった。
 
騒動がひと段落ついたころテレビ東京のカメラクルーが大野二軍合宿所を訪ね「なぜ残留したのか?」「エースとはどういうものだと思うか?」などを直接本人にインタビューした。黒田博樹アドバイザーは自ら「もはやエースではない」の話を持ち出し、どういう思いでその切り抜きをロッカーの扉に貼っていたのかを明かした。
 
そのあと、ふたりは引き合うようにして同じ道を歩む。エースと四番がタイトルを取っても最下位に終わったチームは2005年、マーティ・ブラウン監督の下でスタートしたが2年連続5位でクライマックス・シリーズ出場も遠く及ばない状況。
 
黒田博樹アドバイザーは2007年オフ、ついにメジャー挑戦を表明、新井監督は松田元オーナーに向けて“改革”を訴えたが、その結果「それじゃお前が出て行け」と言われ、自宅で靴を履く際にもまだ悩み抜きながら、のちにカープファンから散々“裏切者”呼ばわりされることになる、あの涙の会見の場に臨んだ。
 
実はすでに2002年オフ、「赤い帽子をかぶった魂を忘れない」とラスト会見で言い残して阪神にFA移籍した金本知憲氏も、やはり松田元オーナーから「出ても残ってもどっちでもいいぞ」と電話で伝えられている。これはもうカープ球団の体質であり、普段決して表沙汰にならない話は山ほどある。
 
ところで木村雅俊記者の復帰を告げる中国新聞の告知の中では、もうひとり池本泰尚記者もいて3人でローテを組んで担当することが記されている。だが木村、五反田両記者が一軍なら池本泰尚記者は申し訳ないが社会人野球レベルだろう。だから編集委員室特別委員などという厳めしい役職のベテラン復活となったのかもしれないが…

一軍エースの五反田康彦記者が言う「進撃を支えるキーマン」はもちろん黒田博樹アドバイザーを指す。「ユニホームのないキーマン」とも綴っている。表には出ずとも陰で新井監督を支える。ただし「陰」とは言っても「水戸黄門」の「弥七」などとはまったくその立ち位置は異なる。

五反田コラムでは若手育成システムについても助言した、とある。例えばこれまでの慣例として二軍の投手は由宇練習場に行く、行かないの線引きなどあいまいになっていた部分がいくつかった。今季の二軍戦ではベンチ入りしない投手も全員、グラウンドで試合を自分たちの目で見て学んでいる。アドバイザーの意向が反映された一例だろう。

プロとしてグラウンドに立てるうちに完全燃焼して、そして悔いのないよう、悔しさをバネに一軍の舞台で活躍して欲しい、と願うからこその“黒田プラン”。その種がそこここに撒かれ、そして一軍の戦い方は交流戦の修羅場を経て、究極のJリーグ方式(失点を最小限に抑えてカウンター攻撃)へと移行した。

「剛腕の証明」とはよく言ったもので、黒田博樹アドバイザーはボールを握ることなくその剛腕ぶりを発揮していることになる。限られた時間、限られた場所での選手、コーチらとの接触の中で、大事なことをズバッと投げかける。

ただしアドバイザーの業務を全うするために、日々どこにいても何もしていても気持ちはグラウンドの選手とともにある。金本憲知氏の言い残した「赤の魂を忘れない」という思いを、そのまま黒田・新井コンビが引き継いでいる。どんな逆境からも這い上がる「赤の魂」を…

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