カープダイアリー第8507話「明大・宗山塁が中学時代にプロを夢見て通った細川スポーツの秘密…三次プロ野球伝続編Ⅺ」(2024年1月28日)

広陵野球部OBの進路が分かるサイトがネット上にある。それを見れば、100年を優に超える球史の裾野がいかに広いか、がわかる。


例えば門前眞佐人さん。1917年(大正6年)5月、三次で生まれ。その2年前、1915年に夏の全国高校野球の前身である全国中等学校優勝野球大会が始まっている。そういう時代だ。


広陵中では捕手として頭角を表し四番を打った。最上級となった1935年(昭和10年)、春の選抜に出場して、lこの年、大阪タイガース契約第1号選手としてプロ入りした。


実働16年で892安打、80本塁打。ラスト5シーズンはカープに在籍、1961年、62年にカープ監督を務めた。やはり広陵OBの白石勝巳さんからバトンを引き継いだ。1984年、カープ3度目の日本一の年に亡くなった。


社会人野球やプロで活躍して、そして指導者へ。野球を通じて様々な功績を残した人材が多数存在する一方で、大学卒業後に競技生活やグラウンドに別れを告げてなお、野球と関わり続ける人はおそらく星の数ほどいるだろう。


三次市内で「細川スポーツ事業部」を営む細川猛さん(45)もそのひとりだ。地元の三次少年野球クラブからスタートして三次中野球部を経て広陵に進んだ。2学年下には同郷のオリックス・梵英心内野守備走塁コーチが、2学年上には広陵の先輩、巨人・二岡智宏ヘッド兼打撃チーフコーチがいる。


広陵時代に投手から内野手に転向した細川猛さんは日々の苦しい練習に歯を食いしばって耐える中であることに気付く。


「グローブの形って千差万別、人によって違うので不思議に思っていたんです。これ難しくないんかな?というような形のものもあって…。ずっと気になっていて、突き詰めていったら体の動かし方が4つある、と言う話に行きついたんです。それでグローブにも4つの型があるんだと…」


野球に明け暮れる日々は吉備国際大学進学後も続いた。就職先野球関連商品などに力を入れている(株)コダマスポーツ(本社:広島市安佐北区可部)に決まった。


17年間、同社に勤務して様々なことを習得すると同時にグローブを極めるための技術も学んだ。九州、名古屋、兵庫に住み込みで「修行」。「お客さんの手形を取る」ことから始まるグローブ作りでは、手間と独自の感覚を要する下作業から細心の注意を払う仕上げ作業まで、「500個ぐらいグローブをかまったらその足元が見えるんじゃないか?」という上級者たちの言葉を支えに極めようとした。


会社側の配慮もあり、実家とは西城川、馬洗川を挟んですぐの三次店で勤務させてもらった。常に頭の中にあったのは恩師である広陵・中井哲之監督の「野球がやれるのは両親らのおかげ、周囲の方たちへの感謝の気持ちを忘れるな」の教えだった。


生まれ育った三次の街に、自分の力でもっと恩返しがしたい。そう考えた細川猛さんは2016年秋に実家併設の建材店事務所内に、スポーツ事業部を開設した。販売するのは野球用品、そして小・中学生へ向けての練習環境も提供する。打撃・守備練習ができるゲージや小規模グラウンドが2カ所あり、月に3000円で利用できる。


特に力を入れているのが中学3年生で部を引退して、高校に進学するまでのクラブ活動空白期間。


その大事な時期に三良坂からの通っていた宗山塁もバットを何千回、何万回と振った。冷え込む夜になってもナイター照明の下で、だ。

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