カープダイアリー第8452話「”野球がなければ死んでしまう”カープ球団史よりも長い広島野球の歴史継承者、迫田マジック永遠にⅡ」(2023年12月2日)

カープOBによる総会と懇親会が広島市中区のホテルであった。懇親会では6月に65歳で亡くなった北別府学さんに黙とうが捧げられた。

2年前の12月、大野豊さんがOB会長のバトンを引き継ぎ、長らく会長職にあった安仁屋宗八さんは名誉会長になった。

トップが11歳若返ったことで、それまでOB会と疎遠になっていた世代が集まってくるようになった。そんなタイミングで新井体制が誕生した。

おそらく大野体制も10年前後は続くだろう。新井監督もその流れに続くはずで長期政権になる。

「今シーズン、若手がいい経験を積んだ。来年は新井監督の下で元気のいいチームを作り、ぜひ阪神の連覇を阻止して欲しい」

大野会長からOB会に出席した新井監督への激励の言葉、だ。

会には大野会長と一番近い関係にある達川光男さんも参加した。12月は何かと気ぜわしいが、様々な出会いがある時期でもある。

だが北別府学さんに改めて別れを告げる日となったと同時に、その気持ちはさらに沈んだものになったかもしれない。あす日曜日には竹原市内で迫田穆成さんの通夜が、明後日には葬儀・告別式がある。

達川光男さんの原点は「広商野球」。このところ問題報道の続く大阪・関西万博の昭和版は「1970年のこんにちは」の大阪万博(昭和45年開催)だが、その1年後の1971年、広島商に進学した達川光男さんは迫田穆成監督に鍛えられた。

はっきり言って軍隊式。その厳しい練習と厳粛な生活態度によってグラウンドに撒かれた種はやがて芽吹き、花開き、実をつける。1973年の第45回センバツ大会準決勝。対戦相手は作新学院(栃木)エース江川卓。初戦から19個、10個(7イニング)、20個の三振を奪い「怪物」と称されていた剛腕だ。

五回に先制され、その裏、ポテンヒットで同点に追いついた。「怪物」の連続無失点記録を139イニングで止めたのである。

さらに同点で迎えた八回にはダブルスチールで捕手の悪送球を呼び込み決勝点。8つの四球を選ぶなど打つこと以外で江川攻略を成功させた。

決勝では横浜高(神奈川)に延長戦の末に敗れたが、その夏、第55回全国選手権大会では「サヨナラスクイズ」で頂点に立った。迫田穆成さんはこの年33歳~34歳だった。今からちょうど50年前の出来事だ。
 
1999年と2000年2月のカープ沖縄キャンプ。達川監督の下での練習の様子を見学するために迫田穆成さんは足を運んでいる。
 
逆に達川光男さんが迫田穆成監督の下を訪ねたこともある。
 
2021年4月の竹原高校グラウンド。今榮敏彦竹原市長ら地元の関係者や父兄らも見守る中で忠海高校との合同野球教室が開催された。その模様を竹原市と江田島市で活動する少年野球チームの小・中学生が見学した。将来、野球を続けたくて竹原高校を受験する子供たちが増えるように、だ。

「竹原高校は数年で甲子園に出ることができるようになる!中学生のみなさん!竹原高校野球部に入ろうと思うとる人は手を挙げて」(達川光男さん)
 
如水館監督を退任した迫田穆成さんは2019年4月に竹原市内に転居した。竹原市の人口はここ20年で1万人前後も現象したと聞き、危機感を持ったという。

その夏の広島大会終了後、竹原高監督に就任した。3年生が抜けて新チーム部員数は10。それでも「甲子園」への道は必ず開けると信じての再スタートだった。

「竹原の街への恩返しもしたいし、野球を通じて活性化できる部分は大きいと思います」
 
そして事実、2年後の2022年夏の広島大会では堂々のベスト16という成果を残したのである。

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